ファインディング・ドリー finding in the dream
(携帯端末で書くのは画面が一つになるのでどうしても慣れないのですが、あとでいつもの形式に直します。)
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カクレクマノミのニモのいちばんの親友で、何でもすぐに忘れてしまうドリーが、たったひとつ忘れられなかったもの──それは、小さなころの《家族の思い出》でした。
どうして、その思い出だけを忘れなかったのだろう?そして、ドリーの家族はいったいどこに…?
謎に包まれた秘密を解く鍵は、海の生き物にとって、禁断の場所=《人間の世界》に隠されていました…。
作品情報|ファインディング・ドリー|映画|ディズニー
http://www.disney.co.jp/movie/dory/about.html
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『ファインディング・ニモ』のドリーは謎の多いキャラクターだった。なぜほかの海の生き物たちと全然違う考え方をするのか。なぜ独りぼっちなのか。なぜ家族でもないのに、ニモを捜すためにそれまでの生活を捨てて、マーリンと冒険に出てくれたのか。『ファインディング・ドリー』は、そんな人気者だけれど謎に満ちたドリーの生い立ちを明かす物語だ。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/07/post-5493_1.php
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ドリーはとても忘れっぽい。会話をしてるまさにその会話の内容を会話の最中に忘れてしまう。何の話してたんだっけ?何でこんな話してるんだっけ?という風に。ドリーの両親は棲家の近くにある危険について歌にして教えようとするがなかなか覚えてくれず心配している。近くに恐ろしい激流があるのだ。案の定ドリーはそれに飲み込まれ、両親とはぐれてしまう。はじめは家族のもとへ帰りたいと思っていたドリーだが、次第にそのことも忘れてしまい、私何がしたいんだっけ?と見ず知らずの他人に尋ねるほどだ。当然相手は知らないという。そうやってどこへ向かうとも知れず、泳いで行った先でマーリンと出会う。ここまでが前作『ファインディング・ニモ』がはじまるまでのドリーの境遇だ。
『ファインディング・ニモ』から一年後ドリーは家族についてそれが大切な何かなのだと思い出す。ドリーは偶然子供の頃に遭遇したのと同じような激流に飲み込まれ両親の居場所を思い出す。思い出すもののその記憶は一瞬のもので、ドリーが一度だけ正確につぶやいた両親の居場所もすぐ後には忘れていたが、ニモがそれを聞いていたのでそれを手掛かりに彼らはオーストラリアからカリフォルニアへ向かう。
ドリーの忘れっぽい性格は見ている人をイライラさせる。ドリーのせいで同じことを何度もやらなければいけない。一度で覚えてくれないどころか、全然覚えてくれないからだ。それに興味や関心の対象を他のものに変えるのが早い。Aについて関心を持っているんだなと思ってたら、すでに興味をなくしBを見て、あれの次はこれと関心の対象を変え遠くに行ってしまっていたりする。かくれんぼで十数えてから探しに来てねと言っても、数えてる途中で他のものに興味がいってしまう。
と欠点だけあげればただの障害だが、この映画ではその障害に別な方向から光をあてる、と同時にドリーの長所を最大限活かす相棒が登場する。
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一人の人間を夢遊状態にし、できるかぎりの幻覚を経験させてから目を覚まさせました。はじめのあいだは、彼は催眠状態中の経過についてはなにもわかってないようにみえました。そこでベルネイムは、催眠状態中に何が起こったかを話すように求めたのです。その男はなにも思い出せないと主張しました。しかし、ベルネイムは要求さしつづけ、強制し、「君は知っているのだ。それを思い出さなければならない」と命令するのでした。するとどうでしょう。その人物はしばらくためらっていましたが、考えこみはじめ、はじめは暗示された体験の一つをおぼろげながら思い出し、つづいて他のものも思い出し、回想はだんだん明瞭になってゆき、いよいよ完全なものとなり、最後にはあますところなく思い出したのでした。しかも、彼は催眠状態後に思い出したのですし、そのあいだ、だれからもなにも教わっていません。ですから、彼が最初から催眠状態中の出来事を知っていた、という結論は当然でしょう。ただ、催眠状態中の出来事の記憶は彼の力では思い出せなかっただけのことです。彼は自分が知っていることを知らず、その出来事を知らないと信じていたのです。ところで、私どもが夢をみた人について推測した事実も、これにそっくりといえます。
『精神分析学入門』フロイト p132
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私たちはドリーのように忘れっぽいということは稀だが、覚えていることがが眠って見る夢の場合は話が別になる。目がさめる直前こういう夢をみたという確信のようなものがあったはずなのに完全に目がさめてみるとそれが何だったのかほとんど思い出すことができない。それで何か夢をみたという感覚だけが残るということはよくある。その類似から、ドリーは記憶障害なのではなくて我々の現実と夢の感覚が入れ替わったものと考えるとどうだろうか。ドリーは起きながら夢をみている。そしてドリーが様々な象徴と出会い家族のもとへ到達するさ様子は精神分析の過程そのものではないだろうか。"代わりのものからそれにともなう連想を通じて、押さえられている本来のものにたどりつくということ"p145
フロイトは『精神分析学入門』の夢の働きの章でそれを凝縮、置き換え、思想の視覚化の三つに分けている。
凝縮についてはマーリンが教えてくれる。マーリンはドリーの不注意でニモに怪我をさせてしまったことにカッとなり、ニモを心配するドリーに対して「君は忘れるのが一番得意なんだろ、ちょっと向こうへ行っててくれ」と怒鳴る。ドリーは少し向こうへ行った後そのことも忘れてどんどん先へ行ってしまい彼らは離ればなれになる。マーリンとニモはドリーを追って水族館へと向かい、途中でおもちゃのいる水槽の中に閉じ込められるという危機に遭遇する。そこでマーリンが思い出したのがドリーのやり方だった。いつも危機の時に自分たちを救ってくれたのはドリーのアイデアだったことを思い出す。「ドリーならどう考えるか。」と考え危機を脱する。理論を取り出してあるいはつくって観察してではなくて、ドリーはその場所で最も重要だと思うものに自由にスポットをあてることができる。なぜなら理論的偏見といったものを忘れているからだ。ドリーにかかれば、全く結合しそうにないもの、全くかけ離れているものも結合させてしまうことができる。"夢の働きでは、これとはまったく反対で、二つのちがった観念を区別しようとせず、ウイットのときと同じように、この二つの観念がそこで落ちあうことができるような、あいまいなことばを探し出し、それによってこの二つの観念を凝縮しようとするのです。"p230
置き換えは常に起きている。ドリーは自分の頭の中に何かを思い出すためのフックのようなものがないために、常に周りに記憶の象徴を探すか偶然出会うかしなければならない。ドリーの記憶のほとんどは外部に置き換えられたものという形でしか存在していない。
思想の視覚化についてはドリーと正反対の考えや能力を有する蛸のハンクが教えてくれる。ハンクは何か嫌なことがあって海に帰りたいとは思わず、クリーブランドの水族館の水槽で一人でいたいと思っている蛸だ。そのためにはドリーの持っているタグが必要だということで、タグとの交換でドリーに協力することを誓う。ハンクは夢のようなキャラクターで自分の肌の色を周りに合わせて何色にでも変えることができるのだが、ドリーの精神分析的な思いつきにピッタリのキャラクターではないかと思う。ハンクはアロエになったり手摺になったり人間の赤ん坊になったりしてドリーの抽象的な思いつきを現実化するよう前へ進めてくれる存在だ。ハンクは一人で水槽にいたいと思っているのだが、実際に水槽(コーヒーポットなど)に閉じ込められているのはドリーでドリーの思いつきと思いつきをつなぐ接続詞のような役割を引き受けている。"人物や具体的事象は、容易に、しかもおそらくはかえってぐあいよく絵で代理させることができるでしょう。しかし、抽象的なことばや、前置詞のような不変化詞、接続詞などのような思考関係を示す品詞の全部を、絵で表現することには困難を感じるにちがいありません。"(p233)ドリーが夢を体現しているとしたら、ハンクの万能さは夢の困難を表しているのではないかと思う。
ドリーは夢の置き換えが示すように、外に記憶のフックがないとあれこれ思い出すことができない。ドリーは何か特別な偶然がない限り一人でいると何も思い出すことができなくなってしまうだろう。この旅のことも以前の旅のことも。その意味でドリーにとってマーリンとニモは両親と同じくらいに大切だし、ハンクがオープンオーシャンでドリーと一度さよならをするときにドリーのことを絶対に忘れないと言った時点で、ドリーがハンクに一緒にいてもらいたいと思ったのは当然のことだと思う。ドリーは彼らがいなければ、夢の中の孤独を感じない孤独(ハンクが一度願ったような)にまた閉じ込められてしまうだろう。
追記7/23
単にドリーが創造力、ハンクがCG技術を表現しているということなのかもしれない。
9/10/2020
更新
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