バケモノの子 BORUTO
「ダッセェな、クソオヤジ。」
親の忍道、子知らず―。
長きに渡る戦争を経て高度成長を遂げた新時代。七代目火影・うずまきナルトが統治する木ノ葉隠れの里を中心に、新たな忍を育てる「中忍選抜試験」が5つの里合同で開催されようとしていた。里の手練場で修業に明け暮れる三人一組の下忍たち。サスケの娘にしてナルトに憧れを抱くサラダ、多くの謎を持つ超優秀な忍ミツキ、そして才能を持ちながらもナルトをクソオヤジ呼ばわりするボルト。
ボルトは、多忙が故に家族と過ごす時間すらないナルトを「親なんて初めからいない方がいい」と寂しさゆえに忌み嫌うようになってしまっていたのだ。
BORUTO -NARUTO THE MOVIE- - 映画・映像|東宝WEB SITE
冒頭からアクション全開、体術全開の作画でひきこまれた。原作マンガ、アニメ、どちらか少しでも見たことがある人なら十分に楽しめると思う。『NARUTO』を知らない人が見ても面白く見れると思うが、今までの過去作を読んでそれらを振り返ざるをえない「罠」におちるかもしれない。この映画の物語がそういう風にささやいている。「今のナルトよりも今までのナルトを知る必要があるんじゃないか」と。連載15年分の痕跡や蓄積がにじみ出てくるような作品で、最近見た中ではマッドマックスの次くらいに面白かったと思う。劇場内にはアジア系の外国人もちらほらいた。
――『NARUTO -ナルト-』、『NARUTO -ナルト- 疾風伝』、そして劇場版と、ナルトが成長していく姿を演じるのに難しさはありましたか?
私たち人間は1年365日、一日一日を普通に生活していて、いつのまにか成長できていたり、できていなかったりという速さでしか進んでいません。でも、アニメのように一気に2年半とか10年とか時間が経過した設定になると、同じ体でありながら違う心を入れていく感じになるので、そこに少し混乱はあります。違う役であれば新しく思いを作っていくこともできますが、ナルトという"外枠"がはっきりしている分だけ難しいですね。でも、それに対しての打開策はなくて、毎回毎回悩んで、それでも今できる精いっぱいをナルトにぶつけようという気持ちで今もやっています。
「『BORUTO』でも彼が"うずまきナルト"であることを大事にしたかった」- 声優・竹内順子が"曲げねぇ"ナルトらしさ (2) 受けた愛情をダイレクトに表現するナルトの姿勢が好き | マイナビニュース
バケモノの子はこの点でちょっと途中からついていけなくなった。要するに突然の声変わりだ。声優をやってる人が悪いとか変とかそういうことではなくて、九歳の少年から(九太)十七歳の青年に成長するのだけど、その間の時間が映画上で流れる実時間の割に大きすぎてこの少年と青年はそもそも同じ人物なのだろうかと少し疑ってしまった。あるいは前半と後半は同じ映画なのかと。何年後「○○ years later」を映画でやることの難しさを感じた。BORUTOはバケモノの子の少年時代での設定にとどまって振り切って成長を描いた作品のように見える。結果的にそちらのほうが面白かったように思う。
映画シリーズ11作目にして初めて岸本氏が脚本・キャラクターデザイン、製作総指揮を手がけた作品だけに「自分の中で漫画以上のものを作りたいという思いがあったので必死に作りました。満足していただける作品しか作りたくなかった。力いっぱいやらせてもらいました。きょうやっとお披露目できて幸せですし、感無量というか、うれしいです」と喜びもひとしおな様子。司会者から点数をつけるなら?と促されると「いろんな方と一緒に作りました。100点だと思います」と力強く言い切った。
映画『BORUTO』は「100点です」 - エンタメ - 朝日新聞デジタル&w
──ナルトたちの子ども世代が活躍する今作では、ボルトやサラダといった若い忍者たちが親世代とは異なる価値観を持つ存在として描かれているのが印象的でした。ハンバーガーショップに通い、携帯ゲーム機で遊ぶ彼らの姿は、忍者というよりもどこにでもいる現代の子どもたちのようにも見えますね。
岸本斉史氏(以降、岸本):そうですね。ナルトたちが子どもだったころは里が安定していませんでしたし、口には出さずとも忍者たちの共通の目標として「火影」や「上忍」「中忍」という存在があったのだと思います。
でもボルトたちが暮らす現代では平和になったこともあって、中忍や上忍になることに最初から意味を見出すことが難しいんです。忍者としての高みを目指すことよりも、友だちとの遊びや人間関係を充実させることに興味が行ってしまうんですね。
【映画】『BORUTO -NARUTO THE MOVIE-』脚本・岸本斉史が語る! 製作秘話(1/3) - ウレぴあ総研
ナルトが火影になって日向との間に子どもが二人いる。その内の一人がボルトだ。火影は国の総理大臣とか大統領みたいなポジションでとても忙しくナルトはなかなか家に帰れない。そのせいか、ボルトは父親についてのイメージを適切に持つことができない。暗に期待されているということもあるだろうか、ボルトには火影としての父のイメージしかないのかもしれない。また家に父親がいつも不在のためにボルト自身が父になろうとする。そのためにボルトはナルトに対抗しようとするのだが、いかんせん力不足。その結果、ゲームでも忍術でもチートを使って自分を大きく見せようとする。サスケに会うまでは。
物語上はというか、映画を見てる分には全く気にならないところだが(なので、この指摘は全くの的外れである)、この映画におかしなところがあるとしたらこの部分だろう。サスケに会うまではの部分。サスケが重要な台詞をボルトに対して、また観客に対して話す。「今のナルトよりも今までのナルトを知る必要があるんじゃないか」と。父親が不在なのだから、父親の昔のことを父親から聞くことはなかなかできない。それは理解できる。しかし、ナルトの過去のことについて今まで誰にも話されなかったのだろうか。父親は存在しているだけで価値がある。なぜなら、父親は何よりもまずイメージであり道具であるからだ。誰にとっての道具かというと家族にとっての道具である。母親でも兄弟でもいいが、「そんなことしてると、お父さんに怒られるよ」と言ったり「お父さんもあなたみたいな時があったのよ」みたいな言葉を言ったり聞いたりする時があると思う、その時彼らは父親を道具としてイメージとして使っている。そうやって、父親が不在でもなんとなく父親像がつくられていく。もちろん、実際に父親と会うことでそのようなイメージだけの父は修正されていく。ボルトにはその機会がなかったのかもしれない。「お父さんもあなたみたいな時があったのよ」というのは、母親が落ち込んでいる子どもに対して言っていることが想定されるが、もしそのような会話がなされれば自然に父親の昔話になるはずだろう。その役は、本来ならヒナタがふさわしいのではないかと思う。近くにずっといるのだから。しかし、もしそれまでヒナタがナルトの昔話をしなかったとすれば、ボルトはそれまで挫折したことがなかったのかもしれない。何かあってもチートや何かで、これまでは難なくやってこれたのかもしれない。
ほとんど母親の代わりと言っていいようなポジションでサスケはボルトを助ける、弟子として指導する。途中でナルトがサスケと「俺の考え方って時代遅れなのかもな」みたいな討論をしている時に、お互いにボルトは「お前に似ている」とかいって「いや、二人とも似ていない」と訂正するのだが、ここでヒナタの名前が出てこないのちょっとかわいそうというか、まるで二人の子どもみたいな話しぶりで、一連のシーンとしては自然なのだが、王道の漫画になるとそうなるのかな。これは非難でも何でもなく、ちょっとした気づきのようなもので。
それはともかく、テンポも良くて作画も神レベルだと思った。
参考『日本人の阿闍世コンプレックス (中公文庫 M 167-2)』
9/10/2020
更新
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