存在しないものへの感情移入 ジュラシック・ワールド
あれから22年…「ジュラシック・パーク」は、最先端のテーマパークとして遂にオープンを果たし、観光客でにぎわう高級リゾート地として大成功を収めていた。だが、更なるビジネスの拡大のためには、リピーターを増やす必要があり、誰もが驚く新アトラクションの開発が不可欠であった。そのため、史上初の遺伝子操作によって新種の恐竜を生み出すという計画が進行。恐竜の調教師オーウェン(クリス・プラット)の警告にもかかわらず、パークの責任者であるクレア(ブライス・ダラス・ハワード)が《新種》をついに誕生させる。
ジュラシック・ワールド || TOHOシネマズ
(『ジュラシック・ワールド』第1弾日本予告 8.5公開 - YouTube) |
Q:アクションを自分で演じることは、なぜ重要なのですか?
A:そもそも、このシリーズを作り始めたのも、アクションがやりたかったからなんです。私の仕事ですから。観客に、演じている私との一体感を味わってもらいたいのです。私が自分でやるからこそ、観客はアクションに心を奪われる。それが私にできることであり、挑戦でもあります。何より観客のみなさんに楽しんでほしいから、自分でやっています。
トム・クルーズ 最新作を語る インタビュー全文 NHKニュース
*トム・クルーズはジュラシックワールドに出てません。
昨日、『ジュラシックパーク』をノーカットでやっていたので見た。恐竜は模型(アニマトロニクス)かCGでつくられているとのことだが、開演前のパークという設定で恐竜が出てくる場面はとても抑制的である。恐竜そのものを見せないで、その場にいる人間の顔の表情などで恐竜が存在してそうな臨場感を高める方法が取られていてそれが成功していると思う。また重量についての感覚についてのこだわりも見られた。ブラキオサウルスの若い枝に首を伸ばして食べるために後ろ足だけで立ちその後前足を地面に踏み下ろすときの振動や、ガリミウスの群れがわざわざ大きな流木の上を踏み台にして揺らしながら逃げていく様子など、それが存在しているかのような演出が多く見られる。なかでも、病気のトリケラトプスは実際に皆が触ったり、グラントがお腹の上に子どものようにもたれかかってトリケラトプスが呼吸しているのを体感している様は本当にそれが存在しているかのようだ。もちろん触れることができているのだからそれは模型だろうが、模型の動きと役者の表情とが相まって恐竜の存在にリアリティを与えている。また、このグラントは子ども嫌いで恐竜の研究ばかりやっているという設定なのだが、子どもと一緒に恐竜から逃げまわるうちに恐竜よりも子どもを大事に思うようになるという物語になっている。大事にしていた恐竜の爪の化石を落とすシーンが象徴として描かれているが、彼の心情の変化が恐竜から子どもへ観客の焦点を変化させるようにつくられているのではないかと思う。子どもに焦点をあてるのであれば、恐竜をそれほど描くことなく抑制的であることにも整合性が出てくる。
CGの技術が進化したおかげで、ロボットが高速で変形したり、恐竜が人間と同じ時代に現れたり、世にも美しい異世界へ旅立だったりといった映像が見られるようになりました。しかし、そういったCGが映画をダメにしている、もしくは観客の楽しみを奪っていると感じたことはないでしょうか?
現在「VFXが今の映画をダメにしており、それは脳の認識の影響」という主張をしたYoutube動画が物議を醸しています。
現代映画のCGに感情移入できない理由は脳の問題? とその論争 | コタク・ジャパン
『ジュラシックパーク』から22年経ってジュラシックワールドは開演した。現在のCG技術は当時のものとは比べ物にならず、『ジュラシックワールド』ではあますところなく恐竜が描かれ、恐竜を描くことに抑制的になる理由はほとんどないように思われる。CGが全盛になってくると上のような疑問が湧いてくるのは当然のように思われる。役者は果してそこに存在しないものに対して、存在するようにして演技をすることができるのだろうか。あるいは存在しない何かを生きた何かとしてとして描くことはできるのだろうか。そして観客はそういう生きたものとして恐竜を見ることができるだろうか。下の発言はパークの所有者マスラニがインドミナスのような危険なものをつくれとは頼んでないといったあとで『ジュラシックパーク』にも出演していたヘンリー・ウーがゲノム編集について語ったものだが、CGについて語っているようにも見える。
Henry Wu: Nothing in Jurassic World is natural, we have always filled gaps in the genome with the DNA of other animals. And if the genetic code was pure, many of them would look quite different. But you didn't ask for reality, you asked for more teeth.
クレアを演じるのは、ブライス・ダラス・ハワード。2011年の『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』以降は2人目の子供を出産したこともあり、しばらくの間スクリーンから距離を置いていたが、この『ジュラシック・ワールド』で女優復帰となった。「クレアは物語のなかでとても大きく心の変化を遂げるの。最初のクレアと最後のクレアはぜんぜん違うのよ! そういうキャラクターを演じる嬉しさ、喜びがあったわ」と撮影をふり返る。
(中略)
どんな映像もCGで作り出してしまうこの時代、恐竜と絡むシーンはきっとCGだろう…と思いがちだが、ブライスさんいわく「実はグリーンバックでの撮影はほとんどないのよ」。また驚きの事実が発覚する。
「ジャングルは本物だしテーマパークも(ニューオーリンズに)作ったの。ものすごいサイズの恐竜はCGだけど、恐竜に触れたり間近で共演するシーンは模型で作ったアニマトロニクスの恐竜が目の前にいれてくれた。アニマトロニクスの恐竜を見ていたからこそ、CGのシーンでもあたかもそこに恐竜がいるような感覚になることができたの。想像しやすかったわ。あと、私自身が子供の頃からいろんなことを想像するのが好きだったというのも大きかったかもしれないわ。何かに追いかけられるのを想像しながら裏庭を走っていたらしいから(笑)」。
【インタビュー】ブライス・ダラス・ハワードが体験した『ジュラシック・ワールド』の世界 | シネマカフェ cinemacafe.net
クレアはテーマパークの管理者でザックとグレイのおばにあたる。彼女が最初求めている、考えているのは管理者としての恐竜のコントロールだけである。彼女は遊びに来た甥っ子たちの年齢等を知らなかったり、適当なスケジュールを言ったりするなどあまり興味が無い様子で、自分が管理している恐竜のDNAの設計図についても興味が無い。インドミナスが何と何のハイブリッドかとオーウェンに尋ねられても答えることができなかった。彼女は管理にしか興味がないのだ。そして全てを管理の対象にしているということは対象をモノとして見ているということを意味している。クレアはそのことをオーウェンに注意される。
Owen: These animals are thinking: "I gotta eat." "I gotta hunt." "I gotta...". You gotta be able to relate to at least one of those things.
クレアは恐竜が何か考えているとは思っていない、モノと同じように管理できると思っている。
〔生物システムという〕境界維持的システムの自己調節機能をわれわれが侵しかねないがゆえに、そうしたシステムに対しては、温存をめざした穏やかな取り扱いをわれわれはするが、そうした取り扱いの特徴は単に生命のプロセスの独自のダイナミズムを認知的に考慮するということにあるだけではない。対象となる種がわれわれに近ければ近いほど、こうした取り扱いはよりはっきりと実践的な配慮を、つまり、一種の畏敬の念を伴うのである。感情移入の能力、あるいは、有機的生命の傷つきやすさに対する「共感的理解」こそは、実践的な関わりにあって歯止めの役をなしているものだが、こうした感情移入は、おそらくは自分自身の肉体の脆弱さに理由を持ち、そしてまた、操作可能なもろもろの対象からなる世界と、それと別の、いかに退化していようとも存在する主観性という区別に由来しているのであろう。
『人間の将来とバイオエシックス (叢書・ウニベルシタス (802))』p79 ハーバーマス
クレアは逃げ出したインドミナスが遊び感覚で園内の恐竜を殺傷して回っていることに心を痛める。アパトサウルスの群れが傷ついて倒れていて、オーウェンとクレアはそのまだ生きているとみられる恐竜の顔に手を当てる。恐竜をなんとも思ってない興味がない彼女が悲しんでいるのだから、その恐竜が本当に死にそうな気がしてくる。彼女の変化は、このように感情移入の能力の再獲得として描かれるのだが、その彼女の心情の変化はCGを映画館で見るわれわれの心情とも重なってくる。見ている人に「どうせCGや模型なんでしょ」と恐竜たちを生きていないものとしてただのモノとして見ている部分が少しでもあれば、クレアの変化とともに、見ている人が恐竜が実際に存在しているみたいに感じるようつくられているのではないかと思う。クレアの変化が映画に対する感情移入を深めるように機能している。
クレアはこのように変化するのだが、クレアが変化しなかった場合というのも同時にこの映画には描かれている。インジェン社のホスキンスは恐竜、とりわけ人間とのコミュニケーションが可能とみられるラプトルの軍事利用を目論んでいた。彼こそもっとも恐竜をモノとして認識していた。そしてそれは結末までずっと変わらない。彼は恐竜を兵器だとしか思っていないために、恐竜はリモコンのようにコントロール可能だと思っているが、恐竜も生存のために恐竜自身で考えている。そのことに気づかないものはこの映画では排除されるようになっている。
ただ、クレアの秘書(ザラ)はかわいそうだったな。翼竜に人びとが襲われるシーンはとても良かった。ザラが翼竜のおもちゃになっている時の絶望感はすさまじいものがある。彼女は結局食べられてしまって、一緒にいたザックとグレイはそれを見ていたはずなのに、たいしてリアクションがなかった。そういうものなのかな。とはいえ、パニック映画としては傑作だと思う。
9/10/2020
更新
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