空間の前景化 1917 命をかけた伝令

第1次世界大戦が始まってから、およそ3年が経過した1917年4月のフランス。ドイツ軍と連合国軍が西部戦線で対峙(たいじ)する中、イギリス軍兵士のスコフィールド(ジョージ・マッケイ)とブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)に、ドイツ軍を追撃しているマッケンジー大佐(ベネディクト・カンバーバッチ)の部隊に作戦の中止を知らせる命令が下される。部隊の行く先には要塞化されたドイツ軍の陣地と大規模な砲兵隊が待ち構えていた。


1917 命をかけた伝令 (2019) - シネマトゥデイ

映画『1917 命をかけた伝令』公式サイト

1917 命をかけた伝令
『1917 命をかけた伝令』予告 - YouTube

ノマドからリビングへ

カメラが追いかける主人公の二人は最初に、ある開けた野原のような場所の木陰で寝ている。上官がそのうちの一人ブレイクを起こし、ブレイクはスコフィールドを起こす。彼らがカメラの方へ歩いてくる。それにあわせてカメラが後ろへ引いていくと、その何もない野原にたくさんの兵士たちが座って休んでいることがわかる。その光景はまるで、遊牧民が羊の群れを従えているかのようである。この映画は戦争の話ではあるが、国家間の戦争というほどのスケールを描くようなものにはなっていない。描かれるのはあくまで個人から見た戦争であり、戦争をある種の障害として描き、主人公がそれを切り抜ける英雄譚のような格好を取っている。


戦争という行為は元来、定住民ではなく遊牧民に属していること、遊牧民こそが武器の発明者であったことに、ドゥルーズ=ガタリは注目している。もちろん、これは神話や考古学の次元の戦争によくあてはまる概念だが、戦争はやがて国家の戦争となる。戦争機械をみずからの装置の一部として帰属させることは、あらゆる国家の最も重要な課題のひとつである。戦争機械と戦士に特有の狂気、奇妙さ、裏切り、秘密性、暴力、情念といったものがあることを、ドゥルーズ=ガタリは繰り返し指摘し、いつもそこに固有の危険と、国家に対抗する可能性を見出すのだ。(p246,247)


ドゥルーズ 流動の哲学 [増補改訂]』宇野邦一

ブレイクとスコフィールドは羊の溜まり場のような野原を抜け、塹壕を歩いていく。多くの場合、彼らは戦争に参加した兵士たちと逆向きに進むことになる。塹壕の中は人と人とがすれ違うのにも大変な狭さだ。彼らはエリンモア将軍(コリン・ファース)から届けるよう命じられた手紙を別の戦場に届けなければならない。それはドイツが撤退しているというのは嘘で、ドイツはイギリス軍に適当に攻撃させ消耗させながらちょうどいいタイミングで反撃する態勢を整えているという内容だ。それが間に合わなければ前線にいる1600人ほどの兵士が無駄死にしてしまう。


一八世紀までは家は未分化の空間のままだ、という事実についてフィリップ・アリエスが書いていることは、私には重要と思われます。部屋がいくつかあります。そこで眠ろうと、食事をしようと、客を迎えようと、かまいません。それから徐々に空間が特殊化し、役割をもつようになります。(p377)


権力の眼『フーコー・コレクション4 権力・監禁

彼らは野原から塹壕を進んでいき、馬や人の死体だらけのノーマンズランドを潜り抜けて、ドイツ軍の塹壕にいたる。ドイツの塹壕はコンクリートで補強してあったり、坑道があったりとイギリスのそれよりもしっかりと作られている。野原、英軍塹壕、ノーマンズランド、独軍塹壕と空間が少しずつ進歩したものになっているように感じる。ドイツの塹壕には多くの兵士のためのベッドがあって、そこに置き忘れた人物写真があるのをスコフィールドは見つける。そこを抜けると今度は木造の家屋を二人は見つける。人のいる気配はないが、ここでも人物写真が忘れられて置かれている。家族の名残が戦地の行く先々に存在している。その空き家を抜けると、スコフィールドは目印の都市に到着し、そこでドイツの残党兵に追われながら、一つのリビングに迷い込む。そこにはフランス人の女と赤ん坊がいた。彼女らは親子ではないのだという。そこはこの映画でこれまでに出てきた暫定的な場所や捨てられた空間ではなく、暖炉のある暖かいリビングである。スコフィールドは赤ん坊を抱きあやすように何かの詩を朗読する。フランス人女性は「あなたにも子供がいるのね」といって、その場に家族的な和やかな雰囲気がうまれる。しかし、時間が来てしまう。フランス人女性は英語があまり話せないので「Stay.Stay.」とスコフィールドを引き留めようとするが、彼は大事な使命があるのだといって、それに従わない。定住民になるか遊牧民になるかを迫られて彼はもう一度遊牧を始めようとする。


1917 命をかけた伝令
『1917 命をかけた伝令』予告 - YouTube

配達人と手紙とが届く

ブレイクが伝令に選ばれたのは、向こう側の戦場に兄がいるためだった。この手紙を渡せなければ家族に危害が及んでしまう。家族ならばそれを避けたいと思うだろう。そうやって当事者性を持たせることで責任をもって任務を遂行するだろうと上官は考えたのだと思う。ある種の人質を取っているような格好だ。ブレイクはその読み通りに、向こうには「兄がいるんだ、兄を助けないと」と多少無茶な場面でも強引に進んでいこうとする。一方のスコフィールドはブレイクとたまたま近くにいたか、親しかったというだけで直接的な動機は何も持ち合わせていない。そのため、これが危険な任務だということをブレイクよりも認識しており、暗くなった夜中に出発すべきだとか任務を慎重にこなそうとしている。


スコフィールドは戦場で家族について考えるのを有害だと思っている節がある。ブレイクのように利用される可能性があるというのもあるだろう。彼はブレイクに故郷が嫌でここに来ているといっている、言い聞かせているのかもしれない。家族の写真は固い金属のケースに閉じられている。彼は以前にソンムの戦いの功績と引き換えにメダルをもらったが、のどが渇いていたのでフランス人兵士のワインと交換したのだという。ブレイクはそれを聞いて、もったいない、家に飾っておけるのにという。スコフィールドは徹底的に家族と戦争を切り離したかったのかもしれない。しかし、今回の任務ではそうなっていない。ブレイクが向こうに兄がいるといったり、ブレイクが切られた桜を見て花に詳しい家族の話をしたり、いたるところで家族の写真が置かれていたり、フランス人女性が捨て子の面倒を見ていたりと、家族の名残のようなものがあちこちでスコフィールドの前にあらわれる。


スコフィールドのなかで家族の問題が大きくなろうとしている中で、ブレイクが死んでしまう。彼らのいるところにドイツの飛行機が墜落してきて、彼らはパイロットを助けたが、親切が通じず介抱している間にブレイクがドイツ兵に刺されてしまう。スコフィールドはブレイクの命をつなごうとするが、彼の顔はみるみる青ざめていく。ブレイクは「兄を探してほしい、兄は僕によく似ている」といい、「母に自分はよくやっていたと手紙を書いてほしい」という。最初エリンモア将軍は電話線がドイツ軍に切断されてしまった。だから手紙を届けてほしいといった。ブレイクと違ってスコフィールドは自分の任務を電話線の代わりだと考えていたのではないかと思われる。彼がその任務に背負う特別のものは何もなく、情報を届ける線に流れるもののように透明に情報を伝える。そこでは手紙を届けようと思ったら、手紙だけが届く。その間のものは何でもいい。しかし、ブレイクとスコフィールドは助けたり助けられたりする経験を経て、ブレイクの死に立ち会ったことで、スコフィールドは手紙だけでなく自分も届けなければいけないと感じるようになる。スコフィールドがドイツ兵から逃れて川に落ちて流され、彼も気を失いそうになっていた時、桜の花びらが落ちてきて正気を取り戻したのは、ブレイクのことを伝えなければいけないという思いが強かったからだろう。でなければ他の死体や水と同じように透明になっていたかもしれない。


スコフィールドが伝令を渡すと、マッケンジー大佐は「明日は違う命令が届くだろう、矛盾したものばかりだ。」といい、スコフィールドが数多くの伝令兵の一人にすぎないということが強調される。観客は彼がこれまでとても多くの苦労をして届けたのにと思うかもしれないが、スコフィールド自身は兵士の一人にすぎないことを意識していただろう。そこが戦場であるならば、たくさんの死傷者がいる中で自分が特別であると意識することは危険すぎる。戦争であるならば、いつでも自分が傷を負ったり死んだりすることはあり得る。ブレイクのように。だから、おそらくスコフィールドは自分を特別視しないためにメダルを売ったり自分と家族を切り離していたのだが、それでも彼は最後に自分の家族の写真を見ざるを得なかった。


参考:宛先を探して『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』

1917 命をかけた伝令
『1917 命をかけた伝令』予告 - YouTube

禁じられたモンタージュ

Q:この『1917 命をかけた伝令』は、第一次世界大戦に従軍した、あなたの祖父の話が基になったそうですね。どのような部分からインスピレーションを受けたのでしょうか。


サム:私が11歳か12歳の頃、祖父から戦争の話を聞いた。それまで祖父は、私たち子供にそんな話をしてこなかったので、よく覚えているんだ。戦争といっても、ヒロイズムや勇気の話ではなく、祖父が生き残ったのは偶然や幸運だったという点に驚いた。『1917』は祖父の経験を再現した作品ではないが、あの時の話が作品の起源になったのは確かだよ。


リハーサルをいつもの50倍以上はやった。サム・メンデス監督『1917 命をかけた伝令』【Director’s Interview Vol.53】 |CINEMORE(シネモア)

モンタージュが映画の本質であるとさんざん聞かされてきたが、想像とドキュメンタリーを結びつけるこうした作品の場合、モンタージュはとりわけ文学的な、反=映画的な手法となるだろう。反対に、ここにおいて純粋状態でとらえられた映画の特質とは、空間の単一性をひたすら写真的に尊重することにあるのだ。(p89,90)


重要なのはただ、出来事の空間的単一性が分割されることによって、現実が単なる想像上の表象と化してしまうような場合には、空間的単一性を尊重するということなのである。(p95)


禁じられたモンタージュ『映画とは何か(上) (岩波文庫)』アンドレ・バザン

この映画はワンショット風に撮影されている。ワンショットは同じカメラでカットをせずに最後まで対象を追い続けることである。そのため対象を複数の視点で見るということはほとんどない(この場合カメラの位置が重要になりすぎるのが気になる。最も気になるのはカメラが主人公の後ろにいるのか前にいるのかで、彼らが見えているのものが観客には見えたり見えなかったりすることだ。)。時間は最後まで均一に流れていって、あるシーンに焦点を当ててそのシーンに現実の以上の時間を与えるといったことはない。スローモーションにしたり、同一の瞬間を別の角度から見せるために少し時間を巻き戻すといったようなことがない。時間は変化しないが空間は変化し、時間よりも空間の方が優位にある。映画はノマド的な空間からリビングに至り、再度ノマド的な空間を目指すことになる。


空間を強調するといっても、それぞれの空間が何かを象徴したり、対比したりということは少ない。『パラサイト』(監獄の誕生 パラサイト 半地下の家族 - kitlog - 映画の批評)のように貧富の差のような象徴的な要素を空間に込めるというようなことはなされていない。『ジョーカー』(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ゴッサム ジョーカー - kitlog - 映画の批評)のように空間としての階段が主人公の心情をあらわすといったようなこともない。『1917』にあるのは、ただひたすらに塹壕のような狭いところを多数の人々が行き来し、開けた場所であっても狭い場所のように身を屈めて窮屈に移動しなければならないということのみである。空間は時間だけでなく人間よりも優位にある。スコフィールドは時間によって目的地にたどり着くのではなく、空間によって目的地に運ばれる。ただ、スコフィールドはその手前で、空間に反抗する。伝令を届けるためにすでに戦闘が開始された戦場を他の兵士とは垂直に横切っていく。彼は多くの兵士とぶつかりながら全力で数百メートルを走る。これまでのワンショットとそれに伴う窮屈さはこのシーンのためにあったのだろう。


空間についての熟慮された政策が発達し始めた時期に(十八世紀の終わり)、理論的、実験的な物理学の新しい成果のために、哲学は世界について、《宇宙》について、有限あるいは無限の空間について語る、その昔からの権利を放棄させられつつありました。政治技術および科学実践によるこの空間の二重の攻囲のために、哲学は時間の問題をもっぱらとりあげることになりました。カント以来、哲学者にとって考えるべきものは時間なのです。ヘーゲル、ベルクソン、ハイデッガー。相関的に空間は失格し、悟性、分析的なもの、概念的なもの、死せるもの、凝固、惰性の側に立つものと見られることになります。(p379)


権力の眼『フーコー・コレクション4 権力・監禁

1917 命をかけた伝令
『1917 命をかけた伝令』予告 - YouTube

9/24/2020
更新

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