私的領域とメリー・ポピンズ ブラック・クランズマン

1970年代半ば、アメリカ・コロラド州コロラドスプリングスの警察署でロン・ストールワース(ジョン・デヴィッド・ワシントン)は初の黒人刑事として採用される。署内の白人刑事から冷遇されるも捜査に燃えるロンは、情報部に配属されると、新聞広告に掲載されていた過激な白人至上主義団体KKK<クー・クラックス・クラン>のメンバー募集に電話をかけた。自ら黒人でありながら電話で徹底的に黒人差別発言を繰り返し、入会の面接まで進んでしまう。騒然とする所内の一同が思うことはひとつ。

KKKに黒人がどうやって会うんだ?

そこで同僚の白人刑事フリップ・ジマーマン(アダム・ドライバー)に白羽の矢が立つ。電話はロン、KKKとの直接対面はフリップが担当し、二人で一人の人物を演じることに。任務は過激派団体KKKの内部調査と行動を見張ること。果たして、型破りな刑事コンビは大胆不敵な潜入捜査を成し遂げることができるのか―!?

映画『ブラック・クランズマン』オフィシャルサイト

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ブラック・クランズマン
(BLACKkKLANSMAN - Official Trailer [HD] - In Theaters August 10 - YouTube

郵便受けと『メリー・ポピンズ リターンズ』


KKKの過激派フェリックス(ヤスペル・ペーコネン)はC4、プラスチック爆弾でテロの計画をしている。彼は黒人学生組織(BSU)の会長パトリス(ローラ・ハリアー)を殺害しようとしている。彼はなぜか爆弾を自分の妻コニー(アシュリー・アトキンソン)に運ばせる。コニーはその計画に加わり、自分に愛と目的を与えてくれて夫に感謝しているようだ。コニーは爆弾をハンドバッグにしのばせてBSUの集会に向かうが、ロンやフリップの情報収集のためか警備が厳重になっていて、計画を実行することができない。仕方なく彼らはプランBに移行する。フェリックスはコニーをパトリスの家に向かわせ、そこの郵便受けに爆弾をセットさせようとする。しかし、爆弾が少し大きくて郵便受けに入れることができない。コニーは何度も郵便受けに爆弾を納めようとするが絶対的に爆弾のほうが郵便受けの箱よりも大きい。そこにパトリスが帰ってきてしまう。コニーは慌てて、その場を去り、爆弾を郵便受けに入れる代わりに彼女の車にセットする。そこにロンが現れて逃げるコニーを追いかけてつかまえる。「爆弾はどうした?」とロンは尋問するが、そこにほかの白人警察官がやってきてロンを取り押さえてしまう。そうしている間に、フェリックスが車でやってくる。彼はパトリスが玄関にいるのを確認して、爆弾のスイッチを押す。すると、パトリスの車が大爆発を起こし、それにフェリックスの車も巻き込まれてフェリックスは死んでしまう。

この映画ではKKKのメンバーが幾度も間抜けに描かれているが、このシーンもその一つである。爆弾テロを入念に計画したつもりが計算外のことがいくつも起こって、その炎が自分のところへ向かってくる。悲劇的なシーンなのだが、観客からすると呆れて笑うしかないギャグのようなシーンにもなっている。もちろんそのシーンでは登場人物は誰も笑ってはいない。彼らは必死である。コニーは大きすぎる爆弾を必死に郵便受けに入れようとしていた。けれど、郵便受けは小さくて爆弾は入らなかった。これは単なる間抜けな人物を笑うということ以外の何かを意味していないだろうか。この噛み合わなさには何かあるのではないか。

私が思い出したのは『メリー・ポピンズ リターンズ』を批評しているときに考えたことだった(忘れられた人影たち メリー・ポピンズ リターンズ | kitlog)。『メリー・ポピンズ リターンズ』にも一九六四年の『メリー・ポピンズ』にも社会のなかの貧困層を代表したような存在が描かれる。それに比べてメリー・ポピンズが訪れるバンクス家は親が銀行勤めの富裕層である。一九六四年の『メリー・ポピンズ』では貧困層は煙突掃除夫として描かれるのだが、彼らが扱う煙突が貧しい彼らと富裕なバンクス家をつなぐ役割を果たしている。煙突は家の外にありながら、家から飛び出していて内側の暖炉に通じている。そのために煙突掃除夫は家の中にまで入ってくることができるのだ。そこでなされる会話については本編を見てもらうか上のリンクの批評で確認してもらいたい。『メリー・ポピンズ リターンズ』では貧しい人を代表するのは街灯点灯夫になっている。彼らは肩書きに街灯という名がついているだけあって、家の外の通りの灯りをつけたり消したりするだけである。彼らは必然的に外に置かれてしまう。彼らの仕事には、偶然に家の中に入ってしまうようなアイテムはない。

郵便受けは煙突に似ている。両者はともに家の内側にあるものが外にまで飛び出ている。郵便受けは家の外にありながら、その中身は完全に私的なものである。コニーはそこに爆弾を入れることができない。彼女は『メリー・ポピンズ リターンズ』の街灯点灯夫のように私的なところに入ることができないのだ。そのために彼女は爆弾を外の車に設置する。彼女は外に火を灯すことになる。ここに見られるのは私的領域の欠如である。それは黒人と白人の分断の問題そのものに関わっている。


私的領域の欠如


すべての政治的行動は、その独特の儀式をもっている。しかも、全体主義国家では、政治的生活と無関係な私的領域はまったく存在しないので、人間生活の全面に、突如おびただしい新たな儀式が氾濫することになるのである。そうした儀式は、原始社会に見出されるのと同じように、規則的で、厳格で、仮借のないものである。あらゆる階級、性別、世代ごとに、それ自身の儀式をもたされる。
……
こうした新しい儀式のもつ効果は明白である。同一の儀式を絶えず、一斉に、一本調子に遂行することより容易に、われわれの能動的な力、判断力や批判的な識別能力をすべて眠らせ、そしてわれわれの人格意識や個人的な責任感を取り去ってしまうものはないであろう。実際、祭儀によって支配され、治められているいずれの原始社会においても、個人的な責任というものは未知の事柄である。ここで見出されるのは集団的責任のみである。個人ではなく、集団が真の《道徳的主体》なのである。氏族、家族、さらに種族全体が、その全成員の行為にたいして責任を負う。罪が犯された場合にも、それは個人のせいではない。一種の毒気または社会的伝染によって、犯罪は集団全体に広がり、いかなるものも、それに感染することを免れえないのである。復讐や刑罰もまた、つねに全体としての集団に向けられる。(p487,488)

国家の神話』エルンスト・カッシーラー

この映画では、BSUの側でもKKKの側でも集会が行われ髪形が統一されたり服装が統一されたり謎のしきたりがあったりと儀式が行われている。BSUは事実によって団結し、KKKは虚構(国民の創世)によって団結している(彼は当時、様々な主題を扱った論文の中の一つで、ナチズムがそのイデオロギー上のスケープゴートとして、なぜユダヤ人を選んだかについて独自の分析を与えている。そこでは、ナチズムがその権力の基礎を歴史的・社会的神話に置くのにたいして、ユダヤ人がつねに神話的思惟への傾向を欠いていた所以を明らかにした。(p560)訳者解説『国家の神話)。フェリックスがホロコースト否定論者であるのも、虚構による団結と関係しているかもしれない。しかし、KKKの中には知り合いが黒人にレイプされてKKKに加入したというものもいて、少し複雑である。フリップはKKKに潜入して通過儀礼を経験し、ロンはBSU会長のパトリスと接触し彼女にいつも黒人の解放に本当に興味があるのか尋ねられる。そこに私的な領域は存在しない。決定的なのが、フリップが潜入捜査でKKKに入会する際にフェリックスから嘘発見器にかけられそうになることだ。フェリックスは狙いはフリップがユダヤ人ではなのかどうか調べることだが、それは彼らが内面を覗き込み、私的領域を排除しようとしていることに他ならない。加えてフェリックスは妻のことさえただの爆弾の運び屋、工作員としか見ていない。彼ら夫婦の愛の会話のように見えるものも私的なものではなく、政治的な工作のためつまり爆弾を運ばせるための手段に過ぎない。これらのことは、いずれも私的な領域ではなく政治的な領域の活動だが、加えてロンとフリップは潜入捜査をしていて、ロンはパトリスと私的にデートのようなことをしている際にも常に警官であることを隠している。二人とも潜入捜査だとばれてしまえばその関係は続かない。潜入捜査の二人には最初から私的な領域は存在しえない。

映画の中で黒人と白人はまったく違った儀式を行っている。一方はブラック・パワーと叫び、他方はホワイト・パワーと叫んでいる。彼らの間には同じ英語でも使っている言語や話し方に違いがあり、フリップがロンになりすますために話し方を教えられるのだが苦労している。それらの言葉を特色づけているのは、その内容や客観的な意味ではなく、むしろそれを取り巻き包む情緒的な雰囲気である。(p486)『国家の神話ロンはその白人の英語も黒人の使う英語も両方使えるということで潜入捜査官に任命された。二つの言語を使えるという意味で彼は両者の橋渡しができるはずなのだが、彼のしたことといえばKKKの大魔法王デビッド・デューク(トファー・グレイス)をだまして自分を白人と認識させ笑いものにしただけである。そのことにどういう効果があるかはよく分からない。ロンやそばで電話の会話を聞いていたフリップや同僚たちは可笑しかっただろう。それはおそらく観客も同じだ。けれど、そこで終わっている。要するにいたずら電話なのだが、デュークから何かを聞く前に彼は電話を切っている。デュークはもしかしたらロンの言ったことがうまく聞こえなかったかもしれない。しかし、『グリーンブック』のように手紙が届いたかどうかは、この映画ではどうでもよくなっている(手紙は届く(芸術の可能性について) グリーンブック | kitlog)。黒人はトードであり、警官はピッグである。私的領域には踏み込めず、彼らはお互いにシンボルである。パトリスの郵便受けつまり私的領域に爆弾が入らなかったことが、彼らの分断を強くあらわしている。それは現在の映像が最後に来ることで宿命論的に描かれている。

ゴビノーは政治的パンフレットではなく、むしろ歴史的・哲学的な論文を書こうと企てたのであった。彼は自分の諸原理を政治的・社会的秩序の再建とか変革に適用しようなどとは思いもよらなかった。彼の哲学は能動的なものではなく、その歴史観は宿命論的であった。歴史は一定の仮借ない法則に従うものである。事態の工程を変化することは望みえず、われわれになしうるのは、それを理解し、受け入れることだけである。ゴビノーの著書は強い運命愛(amor fati)に満たされている。人類の運命は、そもそものはじめからあらかじめ定められ、人間のいかなる努力をもってしても、それを転ずることはできない。人間は自己の運命を変化させえないのである。しかし、他方において、人間は絶えず同じ問いを繰り返すのを差し控えるわけにはいかない。人間が自己の運命を支配しえないものとすれば、少なくとも、彼はどこより来り、どこに行くのかを知りたいと願う。(p387,388)

国家の神話』エルンスト・カッシーラー


スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス

スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス
(Mary Poppins - Extrait : Supercalifragilisticexpialidocious - Le 5 mars en Blu-Ray et DVD ! - YouTube

『メリー・ポピンズ』でメリー・ポピンズがなぜバンクス家にあらわれたのか。それはナニーとして子供たちの私的領域を広げるためだったように思われる。バンクス家の両親は父親が銀行の重役で子供たちに銀行のような厳格さを求めており、母親は女性の参政権運動で忙しい。バンクス家の父はポピンズに銀行のような規律を重んじた教育を期待するが、彼女が子供たちに教えるのは子供たち二人とポピンズ、煙突掃除夫のバートなど小さな範囲で通じる想像の世界についてである。ポピンズは子供たちを私的な夢の世界へ連れて行く。ポピンズは回転木馬で競馬に参加し優勝しインタビューを受ける。記者の「今はどういう気持ちですか?」にこたえて彼女は「こんなときにいい言葉は、スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」と歌い始める。それはほとんどの人にとって初めて聞く言葉、意味の分からない言葉、一種の私的言語である。メリー・ポピンズはその私的言語によってここが私的な領域であることを示し、同時に政治的領域でない私的な領域に子供たちを誘うのだ。そして、それが私的なものであるために競馬をした夢の世界の話を現実で子供たちと共有しない。絵の世界から帰ってきたあとで子供たちが「競馬で優勝したよね」というのだが、ポピンズは「何のこと?もう寝なさい」といって寝かしつける。

子供たちが私的な領域を得たのを契機に父親が銀行を辞めさせられそうになったり、家の中で煙突掃除夫たちが煤で汚れた服で歌と踊りをはじめたりして家の中がむちゃくちゃになる。しかし、それは同時に父と子、貧しいものと富めるものの和解の契機になっている。子供たちが2ペンスを鳩に与えるか銀行に預けるかの選択で鳩を選ぶことができるのも私的領域のためであろう。それが政治的領域の限界を拡張する。それがあるために普段見えていても見えていないものが見えるようになるのだ。

銀行家で規律を重んじるバンクス家の父、ジョージ・バンクスはメリー・ポピンズが来てから家の中がメチャクチャだと憤慨する。息子のマイケルは煙突掃除夫と握手をすると幸せになれると信じていて、父が皆と握手をしていったのを見て喜んでいるが、父は子供部屋に戻っていなさいと言って叱る。おそらくここがこの映画の最も魅力的で感動的な場面だが、その父に対してバートが歌って説得しようとする。子どもたちが自立してしまってからは子どもたちを愛することはできない、子どもたちを愛してやることができるのは今しかないのだと、一杯の砂糖があれば水やパンが紅茶やケーキになるのだと。それを聞いたジョージは銀行と同じような規律を家庭に持ち込むのをやめて、同時にメリー・ポピンズが与えてくれた軽妙さを銀行に持ち込むことになる。それは父と子どもたちの和解のきっかけになった。バートは町を見下ろす鳥のように、ロンドンのことをなんでも知っているような存在として描かれている。父親を遠ざけていた子どもたちに、「銀行は絨毯でくるまれた牢屋みたいなものなんだよ、君の父さんは誰よりも孤独かもしれない」といって、銀行家の親子の和解を促すのは最も貧しいバートである。

忘れられた人影たち メリー・ポピンズ リターンズ | kitlog
9/10/2020
更新

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