交換可能性の全体化 アリータ:バトル・エンジェル
数百年後の未来。サイバー・ドクターのイド(クリストフ・ヴァルツ)は、アイアン・シティのスクラップ置き場でアリータ(ローサ・サラザール)という意識不明のサイボーグを見つける。目を覚ましたアリータは、一切の記憶をなくしていた。だが、ふとしたことから並外れた戦闘能力を秘めていることを知り、なぜ自分が生み出されたのかを探ろうと決意する。やがて、世界を腐敗させている悪しき存在に気付いた彼女は、立ち向かおうとするが……。
アリータ:バトル・エンジェル (2018) - シネマトゥデイ
(映画『アリータ:バトル・エンジェル』公式サイト 大ヒット上映中!)
(映画『アリータ:バトル・エンジェル』予告A - YouTube) |
同じ日に『グリーンブック』(手紙は届く(芸術の可能性について) グリーンブック | kitlog)を見たあとで続けてこの映画を見たのだが、『グリーンブック』でいい役をしていたマハーシャラ・アリが何かよく分からない悪役を演じていたので戸惑ってしまった。見た目はまったく同じなのに、ほとんど違う演技をしている。映画を見ていればよくあることだが、この違和感がこの映画全体を覆っているように見えた。それはおそらくサイボーグが一般化しているという設定のためだろう。脳以外はあらゆるパーツが交換可能なのだ。顔のパーツだけを残しておいて、他はすべて機械というキャラクターだらけである。映画の中にはモーターボールという格闘技とラグビーとF1レースを組み合わせたような架空のスポーツがあって、その競技のために自分の体を改造しているキャラクターは体が人間の原形をほとんどとどめていない。レースに最適化して下半身を車にして、上半身は腕を長くしたりギロチンを装備したりしていて、まともなのは顔だけである。主人公のアリータもモーターボールに出るときは、足首のパーツをはずしてローラースケートのようなパーツに何の抵抗もなく付け替えている。
このようなサイボーグとしての身体的な特徴は他のコンテンツ、たとえば『攻殻機動隊』が代表的だが、にもありうる。しかし、そういった作品は概ね、変わる身体と変わらない心のようなバランス感覚を含んでいる。よくいわれる身体をどこまで交換すれば私が私でなくなるのかといったような形而上学的問いは、身体が変化しても自分が自分でいることの不変性をあとづけている。しかし、この映画ではキャラクターの人格がコロコロと変わったように見えるのだ。主要なキャラクターに性格が変わらないものがいない。アリータは恋人のヒューゴ(キーアン・ジョンソン)の夢を叶えるために簡単に自分の心臓を文字通り差し出そうとするが、それが冗談だとしてもそうやって自分の核になるものを蔑ろにしてしまう。それゆえキャラクターの人格が安定しない。だから、ドラマの部分もいつも唐突な感じを受けてしまう。
私はキャラクターの人格が変化することを問題にしているわけではない。ほとんどすべてのキャラクターが変化しているように見えることが問題なのだ。アリータは記憶喪失の状態で登場し、はじめは少女のようだったが、記憶が戻るにつれて凶暴な性格を見せるようになる。ヒューゴは悪い仕事をしていたがアリータと出会ってそれをやめる。その後、機械の体になってから急に自暴自棄な性格になり、ほとんど自殺志願者のようである。アリータを見つけたイドは生身の人間だが、医者であったりハンター戦士であったり、殺人鬼にミスリードされたりと忙しい。イドの元妻のチレン(ジェニファー・コネリー)はアリータの悲しむ姿を見て母であることに目覚め、悪者であることをやめてしまう。悪役でベクター(マハーシャラ・アリ)とグリュシュカ(ジャッキー・アール・ヘイリー)というキャラクターが出てくるが、彼らも悪役という意味では一貫しているが、それらを操るノヴァ(エドワード・ノートン)がいて、彼らの人格はほとんど保護されていない。そしてそのノヴァは空中都市のザレムという場所で高みの見物をしているラスボスのような存在で「俺はいつもお前を見ている」が口癖だ。彼はアリータが助けに来たところでわざわざヒューゴを殺して、悲劇の演出をし「あなたのキャラクターを決定するために、悲劇を用意しておきました」といわんばかりの笑みを見せる。他人の性格がすぐに変わると思われているのだ。
交換可能性の全体化の終わりに
人間が群衆のなかに埋没し、たんに一個の数になってしまっている悲惨な状態を、キルケゴールはひとりの人間がひとつの音より以上でも以下でもなくなるロシアの農奴の吹奏楽にたとえた。十九世紀のはじめごろロシアに旅行したスタール夫人の記述によると、その吹奏楽では、二十人の楽士のひとりひとりが、それぞれ、ドならド、レならレと、ひとつの音だけを出すように決められており、自分の音を出すべき順番がきたときにその音を出す。(略)マルクスも、人間が個性を奪われてたんなる生産用具に堕していることを指摘し、現代の労働者を特徴づけているのは人間相互間の交換可能性だと言っている。労働者の仕事は、もはやその質によって評価されないで、ただ量によってのみ評価される。
『実存主義 (岩波新書 青版 456)』松浪信三郎 p46,47
この映画の最後、アリータは過去の因縁とヒューゴを殺されたことでノヴァに復讐を誓うのだが、彼女がモーターボールを続けていることで何か演出上のレールに乗っているのではないかという印象が強化される。モーターボールにはコースがあるがそのとおりに進むのだろうか。モーターボールの予選でベクターがアリータを殺すように周りの全選手を買収し、アリータはそれでも自分の力で苦難を乗り切ってレースを続けるが、ヒューゴに助けて欲しいと協議中に連絡を受けてコースを脱線しヒューゴのいる教会に向かってしまう。彼女は一度脱線しているのだ。物語上、空中都市ザレムへ行くにはモーターボールで優勝するしかないという風になっているが、アリータは一度脱線していて、しかもザレムへいけると約束されていたチレンがバラバラの身体のパーツとして献上されるだけという場面も見ているのに、役所の手続きに従うように律儀にモーターボールで優勝しようとしているアリータに違和感を覚えた。そこまで見ていて他の手段で対抗しようという風にならないだろうか、というあたりでキャラクターに人格が備わっているのか疑問に思ってしまった。彼女は交換可能な物としか映されていないのではないか。
湖の中をアリータが歩くシーンにも苦労しました。なんと言っても、水中でサイボーグがどう歩くのかというのがわかりませんでしたからね(笑)。そこで私たちは、水中で6分間息を止めていられるフリーダイバーを雇って、彼女にアリータと同じくらいの重さになるように重しを付けて水中を歩いてもらい、それを撮影して身体や髪の毛などの動きの参考にしたんです。
『銃夢』を「実写版のマンガ」に変貌させた映像の舞台裏。映画『アリータ:バトル・エンジェル』VFXスーパーバイザーにインタビュー! | ギズモード・ジャパン
彼女はずっと水の中にいたのかもしれない。
9/10/2020
更新
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