映画が観客を見なくなるまで ボヘミアン・ラプソディ

レディ・ガガが“史上最高の天才エンターテイナー”と讃え、ケイティー・ペリーが“今も最も影響を受けている”と語るミュージシャン。それが伝説のバンド“クイーン”のリード・ヴォーカル、フレディ・マーキュリーだ。その名を知らずとも、『ボヘミアン・ラプソディ』、『伝説のチャンピオン』、『ウィ・ウィル・ロック・ユー』といった名曲をほんのワンフレーズ耳にしただけで、たちまち誰もが心浮き立ち、歌い出さずにはいられない。いかにしてフレディは、世間の常識や既成概念に逆らい、従来の音楽を打ち破り、世界中から愛されるエンターテイナーとなったのか?なぜ愛と孤独、プレッシャーに引き裂かれたのか?そして、崩壊寸前に陥ったバンドを立て直し、永遠のレガシーを確立できた理由とは……? 20 世紀最大のチャリティコンサート“ライブ・エイド”で、音楽史に残る史上最高のパフォーマンスを披露した彼らの華やかな活躍の裏には、誰も知らない物語があった……。

ボヘミアン・ラプソディ | 映画-Movie Walker
ボヘミアン・ラプソディ
(映画『ボヘミアン・ラプソディ』日本オリジナル予告編解禁! - YouTube

『ボヘミアン・ラプソディ』がより深い領域に踏み出すことは決してなく、フレディ・マーキュリーとバンドメンバーがうまくいった理由へのしっかりとした理解も提供してもくれない。与えられるのは基礎的な知識であり、クイーンのメンバー(フレディ、ギターリストのブライアン・メイ、ドラマーのロジャー・テイラー、ベーシストのジョン・ディーコン)の最も称賛に値する部分の描写である。しかし、それぞれのバンドメンバーが学校で何を習ったかというような知識はトリビアであり、キャラクター描写ではない。時にはフレディの移民としての体験、父親との難しい関係性、フレディが受けた差別などに光を当てる、短くも重要なシーンが登場するが、大体の場合、一人の人間としてのフレディの描写に近づいたかと思いきや、映画はすぐにパフォーマーとしてのフレディに興味を移してしまう。

本作はフレディの同性愛者としての生活よりも、彼がゲイとしてカミングアウトする前に婚約していたメアリー(ルーシー・ボイントン)との関係性に重点を置いている。メアリーはフレディにとって心の支えとなっていた人物であり、本作で描かれるように、彼女との別れはフレディに強いインパクトを与える。一方、1991年にフレディがHIV感染合併症による肺炎で亡くなるまで続くジム・ハットン(アーロン・マカスカー)とのロマンスは、メアリーとの関係ほど丁寧に描かれていない――ジムの描写は「ちょうど良い時期にフレディの人生に現れた良い人」以上には進まず、映画はフレディとジムの関係が花開こうとするところで終わってしまう。「Love of My Life」、「Somebody to Love」のような曲を作った男の映画にしては、『ボヘミアン・ラプソディ』はフレディが愛を見つけるまでの表面的な道のりに集中しており、その後のことには興味を示していない。

ボヘミアン・ラプソディ - 映画レビュー - Bohemian Rhapsody Review

作中にフレディの最初の恋人メアリーと最後の恋人ジムが登場するが、フレディの遺書により、映画でも登場するロンドンの一等地ケンジントンにある「ガーデンロッジ」と呼ばれる室数28もの大邸宅(30億円)は、メアリーさんが相続していて、今もそこに住んでいる。ほかにもメアリーさんは当時の為替換算で20億円以上を相続しているのに対して、最後の恋人で2010年に60歳でガンで亡くなったジムさんの遺産は1億円程度だった。

話題沸騰『ボヘミアン・ラプソディ』、その知られざる裏側。 ( page 5 ) | VOGUE JAPAN

クイーンのメンバーは映画を見る限りトントン拍子で成功を収める。彼らはBBCの音楽番組に出演する。そこで番組スタッフから口パクでやってほしいと頼まれる。フレディ(ラミ・マレック)はそのことに反発するが、BBCではよくあることだからということで渋々了承する。撮影が開始され、マネージャーたちはパフォーマンスに満足しているようだ。副調整室ではカメラがフレディの股間のアップを撮っているのが見える。ディレクターは「カメラを上げろ」「カメラを切り替えろ」「ご飯時だぞ」といって注意している。『ボヘミアン・ラプソディ』自体もこのように進んでいるように見える。異性愛か同性愛かは問わず、フレディの股間つまりセクシャリティの問題がクローズアップされたかと思うと、音楽のパフォーマンスへと映像は切り替わる。そこではBBCのカメラマンの覗き見的なやり方のようにゴシップ的な趣味が世界観を構成しているように見える。しかしクイーンのもともとの音楽が素晴らしすぎるために、そのことはどうでも良くなってしまうのだ。

ボヘミアン・ラプソディ 猫
(映画『ボヘミアン・ラプソディ』日本オリジナル予告編解禁! - YouTube

映画はあるいは以下のように進む。クイーンがアルバム発表の記者会見に臨んでいる。そこで記者から質問されるのは、フレディのプライペートなことばかりだ。本当の出身はどこだとか、宗教はどうなってるとか、そしてまたしても執拗にセクシャリティの問題が質問される。アルバムについての話をしたいのにというメンバーの声は虚しく消え、焦点の合わなくなったようなクローズアップが質問する女性記者とフレディを交互に映し出す。フレディはじっと黙っている。セクシャリティの問題とアルバムの創作については関係があるのだろうか。全く関係ないとは言えないだろう。程度の問題だとしたら、それはどれほどなのだろうか。

フレディは新しくマネージャーになったポール・プレンター(アレン・リーチ)を解雇する。この映画ではフレディはクイーンから離れてソロ活動をするのだが、ポールも彼の連れてくるスタッフもフレディのことを気にかけることなく周りに集まって群がっているだけで、フレディの創作活動に何の役にも立っていなかった。その上、ポールはフレディ宛にあった連絡をすべて自分のところで遮断して、外の情報を何もフレディに伝えようとしなかった。メアリーが心配して電話していることも、ライブ・エイドの出演オファーが来ていることも隠して、ポールはフレディをコントロールしようとしていた。しかし、ポールに何の権限や能力があってそんなことができるのか。彼は人為的に孤独な状態に置かれているが、それは創作に必要なのだろうか。フレディはポールを解雇する。すると、ポールは逆恨みからかテレビ番組に出演しインタビューを受け、フレディのことについて嘘を話している。彼には数え切れないほど愛人がいたとかいうことをまことしやかに言っている。

これらの場面はいずれもこの映画でテレビや新聞など他のメディアが介入してくる場面だが、この映画の撮影のあり方をメタ的に規定しているように思われる。いずれも何かがずれているのだ。そして映画のラストではライブ・エイドでの何万人もの観客を前にしたライブが行われる。クイーンのメンバーはオリンピックより大規模の衛星放送で15億人の人々がライブを見るということにとても興奮している。ライブが始まる。フレディの掛け声に観客が応じ会場は熱狂で溢れかえる。けれど、ここで気になるのはクイーンと観客との一体となった近さよりもむしろ遠さである。フレディはソロ活動を試みるが失敗し、やはりクイーンが必要だ、気軽に批判してくれるクイーンのメンバーが家族のように必要だ、と彼らが再び結束する様子が描かれる。ライブ・エイドのシーンは映画の冒頭はフレディ一人で登場するかのような演出がなされるが、最後のライブ・エイドのシーンではクイーンが集まって登場する。彼らは家族として結束したのだ。そうすると、彼らと向かい合う観客は一体何なのだろうか。ライブ・エイドで描かれる砂粒のような観客は一体何なのだろうか。彼らはズンズンチャとかドンドンパッといったような手拍子や足踏みをしてくれるかもしれない。従順に。しかし、映画の中でフレディは一度そのような従順な人々を創作の役に立たないと切り捨てているのだ。ポールとの件だ。そしてクイーンを選んだ。そうすることでクイーンは家族という殻に閉じこもったのではないか。観客は見えなくなっていく。フレディはもう外の誰とも目があうことはない。

ライブ・エイドには元恋人のメアリーも来ていた。まだ空港でバイトをしていたフレディは他のバンドのライブ会場で彼女と出会い自分に似合うスタイルを見つけ、初めてライブのステージに上がる。観客は誰も知らない砂粒のような人物ではなく、そこにはメアリーがいる。彼女がクローズアップされる。フレディは彼女と目が合う。フレディとメアリーの視線の交差は映画館の観客と映画の視線を交差させる。このような幸福な関係は、ライブ・エイドでは訪れない。メアリーは舞台袖にいて、フレディを見守るだけだ。フレディとメアリーの視線は合わない。舞台の上には家族がいて音楽が鳴り響いている。舞台の外はまるで演劇映画を見るように、そこから切り離されてしまっている。

人間の集合体のこのような形姿と相貌は、個人主義的な諸芸術においては、従来けっして眼に見えるものにはならなかった。それは技術的理由によるだけではない。社会それ自体が現代ではますます意識されるようになり、その相貌がますます眼に見えるようになる。それゆえに、それはどちらかというと映像によって描出されるべきものなのである。(p91,92)

群衆の生き生きした相貌、集団の顔の表情の動きを、優秀な監督はクローズ・アップの中でのみ見せることができるだろう。つまり、彼はクローズ・アップによって、個々の人間の姿が完全に消されたり忘れられてしまったりすることのないようにするのである。そういう場合には、集団は石ころや溶岩流のように鈍重で生命のないものにはならないだろう(監督が何らかの理由で、意識的に集団にそのような性格を与えようとする場合は別として)。(p93)

『視覚的人間』ベラ・バラージュ
9/10/2020
更新

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