音、中間のメディア クワイエット・プレイス

音に反応して人間を襲う“何か”によって、人類が滅亡の危機に瀕した世界。リー(ジョン・クラシンスキー)とエヴリン(エミリー・ブラント)の夫婦は、3人の子どもと共に、あるルールを守って生き延びていた。“決して、音を立ててはいけない”。その“何か”は、呼吸の音すらも聞き逃さない。“何か”に一瞬でも聞かれたら即死。手話を使い、裸足で歩き、道には砂を敷き詰め、静寂と共に暮らす日々。だが実は、エヴリンは出産を目前に控えていた。果たして一家は、最後まで沈黙を守ることができるのか……?

クワイエット・プレイス | 映画-Movie Walker

クワイエット・プレイス
(『クワイエット・プレイス』本予告 - YouTube

アボット家族はホームセンターで生活に役立つものを漁っている。世界に危機が訪れてから、環境音以上の音を立てることができなくなった。そうすると謎の生命体が音を立てた人物を襲いに来るからだ。彼らは歩くときも慎重に歩き、物を探すときにもそれを落とさないよう最新の注意を払っている。物音は人間と物とが接触することで生じる。物と最も接触している身体の部位は足の裏である。足の裏は常に足の下にある物、床、小石、小枝、葉っぱ、アスファルトなどと接触している。足の裏による物音を防ぐために、彼らは歩く場所に砂を敷いている。人一人分歩ける幅に砂を敷いて、アボット家族はそこに縦に一列になって歩いて移動する。そうするともう一つ問題が出てくる。音が出るのは人と物との間だけでなく、人と人との間でも起こる。例えば、後ろの人が転んで、前の人に手をついてしまった時、前の人は驚いて声を上げてしまうかもしれない。そういった不幸な偶然を防ぐために彼らはお互いに不自然な距離をとって、前後に間を空けて歩いている。それだけでなく彼らは他の家族との近所付き合いもトラブル回避のため避けているように見える。それも人同士で何らかの声なり音なりが発生するのを避けるためだろう。彼らはお互いに遠く離れて暮らしているが、お互いの生存確認のために火を灯すことだけは習慣になっているようだ。それは音を発しなくても見える。彼らは音の気軽に出せるわれわれには気づきにくい不自然な仕方で、危機後の世界を生き延びている。

Come a little bit closer

Hear what I have to say

『Harvest Moon』Neil Young

ホームセンターで一番下の子のボー(ケイド・ウッドワード)がロケットのおもちゃを持っていこうとする。それは音を出せない窮屈な世界からロケットで逃れるのだという彼の願望の象徴だった。父親のリーが近づいておもちゃを静かに取り上げて中の電池をとる。そしてボーと顔を間近にして"Listen to me.Too loud."と小さな声でいう。彼ら家族は娘のリーガン(ミリセント・シモンズ)が耳が聞こえず、両親は彼女と手話で不自由なく会話できるが、小さいボーはそうではない。ボーは手話を完全には理解していない。だから、リーはボーに対して口で注意をした。おもちゃが音が鳴るので置いていくように言った。当たり前だが、それをリーガンは少しも聞くことはできなかった。ジェスチャーで「おもちゃを置いていけ」というのは分かったかもしれない。けれど、それが電池で音が鳴るおもちゃだと耳の不自由な彼女にわかっただろうか。そもそも、耳の全く聞こえない彼女に音の出るおもちゃというものが存在するという知識があっただろうか。彼女は物が落ちたら音がするということはわかる。ボーがおもちゃを落としそうになって彼女がそれを必死にキャッチするシーンでわかる。しかし、それ自体で音を発するものが存在するということは分からなかったのではないか(これが原因でか、アンプなど機械のある家の地下室へ入れされてもらえない)。リーガンはそれをただのプラモデルのようなものだと思ったのか、内緒でボーに「持っていっていいよ」と合図をする。ボーはおもちゃと一緒に電池も持っていってしまう。家に歩いて帰る途中、ボーはそれのスイッチを入れてしまう。リーは慌ててボーのもとへ駆け寄ろうとする。おもちゃをボーから引き離せばまだなんとかなるかもしれない。しかし、彼らはもともと上のルールのように離れて歩いていたし、ボーはおもちゃに夢中で少し歩くのが遅れていた。リーがボーに追いつく前に「何か」が画面を横切り、ボーは命を落としてしまう。

聴覚が人間の感覚諸器官の中間器官だというのは、外部からのものを知覚する可能性の範囲に関してのことである。触感はあらゆるものを自分の内部で、またその器官の中でのみ感じ取る。視覚は我々を自分からかなり遠く離れたところまで放り出す。聴覚は伝達可能性の程度という点で中間に存在している。それは言語にどのような効果をもたらすのか?一つの被造物を想定してみよ。それが理性をもつ被造物だとしても、それにとって触覚が主要感覚器官なのだとしたら(そんなことがありうるなら、だが!)、その世界はいかに小さいだろうか!また、聴覚によって世界を感じ取らないので、昆虫のように巣を張りめぐらせることはできても、音によって自分のために言語を創ることはないだろう!はたまた、全身が目であるような生き物―それが熟視する世界は何と無尽蔵であることか!なんと計り知れないほど遠くまで自分の外部に投げ出されてしまうことか!何という無限の多様性に分散されてしまうことか!その言語は(我々にはおよそ想像できないが!)果てしなく細かい無言劇のようなものになり、その文字は色と線による代数学になってしまうだろう―しかし、音の響く言語には決してならないのだ!我々、耳で聞く被造物は、その中間にいる。我々は見、我々は触れる。しかし、見られ触れられる自然は音を響かせている!それは音によって言語に至るための師匠になる!我々は、すべての感覚器官を通して、いわば聴覚になるのだ!(p87,88)

『言語起源論』ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー

ヘルダーは聴覚が中間的な感覚だと述べている。触覚は直接的すぎて狭いし、視覚は遠く広くまで届いて多様すぎる。それらの感覚は極端である。この世界ではその極端なものだけが保存されて中間が禁止されている。だからこそ観客はその極端なものの振幅で驚かされることになる。人々は見させるか触れるか、あるいは触れられる位の距離で小声で話すかしないと思っていることを伝えられない。見るべきものについて、何か目印で決まりごとを多く作っておかなくてはいけない。手話をするにもそれが相手に見られていると確信している必要がある。相手の背中に向けて手話を繰り返しても何も伝わらない。音がないものに注意を向けるのはとても難しい、偶然目に入らなければ不可能に近い。だから、相手に何かを伝えるときは急にその人に触れなければならない。食事前のお祈りのシーンは家族が円になって皆を見て手をつないでいて、この世界のコミュニケーションで最も理想的なものだろう。この世界の人は驚かせるつもりもないのに音もなく近づいて、人に何かを伝えなければならない。序盤のリーがボーを救おうとするシーンは、おもちゃに行っていたボーの注意、視覚の方向を変えるためにリーはボーに音もなく近づき直接触れて危険を知らせなければならなかったのだが、敵のほうがはやかった。彼は最後に息子の名前すら呼んでやることができなかったのだ。

クワイエット・プレイス
(『クワイエット・プレイス』本予告 - YouTube

それからのシーンは、危機後の世界のなかで家族が喪の作業をすすめていく。『スリー・ビルボード』(死者の埋め方、その反復 スリー・ビルボード | kitlog)と違って、この映画にはきちんと墓がある。それは喪の作業の方向を散乱させずあるべき場所に定める。エヴリンはボーの部屋に佇みながらボーの代わりの子をお腹に抱え、生まれた赤ん坊がボーと同じ男の子であることに特別な意味をもたせている。リーはリーガンのために補聴器を試行錯誤しながらつくっている。あの時、ボーの一番近くにいたのはリーガンで、彼女の耳が聞こえていれば、すぐに異変に気づいてボーとおもちゃを離すことができたかもしれないと考えているのだろうか。リーは失敗から学んで同じことがないようにと考えているのかもしれないが、リーガンは自分が責められているように感じてしまう。彼女はボーの墓に何度も通っている。マーカス(ノア・ジュプ)は姉が自分を責めていることを心配している。マーカスは父に「姉は自分のことを責めてる、姉のこと嫌い?」とストレートに尋ねるとリーは驚いた顔をして「そんなことはない、愛している」というとマーカスは「なら直接そう言ってあげて」という。エヴリンとリーは今度は何としても絶対に見捨てず子供の命を救おうとする。その中で彼らは謎の生命体の弱点を発見し希望を得る。長過ぎる黙祷のあとで彼らは耳を澄まし新しい言葉・目印を発見したのだ。彼らは彼らの囮になって死んだ動物のように無残に潰されはしないだろう。蜘蛛の巣のようなセンサーを家の周り中に仕掛けて、ただじっと怯えて待っている(悪い環境に適応する)ということはしないだろう。

ミツバチの蜜房やクモの巣を作ることだけに制限されていないさまざまな表象力を人間がもっていて、その範囲の中では動物の技能の能力に劣るとしても、まさにそのことによって、その表象力はより広い展望を得る。人間には改善の余地がないほど完璧に作れる作品が何一つない。しかし、人間には多くのことに関して鍛錬したり、みずからをたゆみなく改善したりするための自由な空間がある。思考内容はどれも自然による直接的な産物ではないが、まさにそのことによって、それは人間自身の所産になる。(p42)

『言語起源論』ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー

クワイエット・プレイス
(『クワイエット・プレイス』本予告 - YouTube

(余談だが、聴覚が中間的な感覚器官であるというのはおもしろい。われわれは見ているようでそれに触れていたり、それを聞いていたりするのかもしれない。それによって人は視覚の無限の多様性を認識可能なものにしている。それが単に「言葉にすること」以上の意味を持つとすれば、音声認識が画像認識を助けるということもあるのかもしれない。)

9/10/2020
更新

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