死者の埋め方、その反復 スリー・ビルボード
アメリカはミズーリ州の田舎町エビング。さびれた道路に立ち並ぶ、忘れ去られた3枚の広告看板に、ある日突然メッセージが現れる。──それは、7カ月前に娘を殺されたミルドレッド・ヘイズ(フランシス・マクドーマンド)が、一向に進展しない捜査に腹を立て、エビング広告社のレッド・ウェルビー(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)と1年間の契約を交わして出した広告だった。自宅で妻と二人の幼い娘と、夕食を囲んでいたウィロビー(ウディ・ハレルソン)は、看板を見つけたディクソン巡査(サム・ロックウェル)から報せを受ける。
一方、ミルドレッドは追い打ちをかけるように、TVのニュース番組の取材に犯罪を放置している責任は署長にあると答える。努力はしていると自負するウィロビーは一人でミルドレッドを訪ね、捜査状況を丁寧に説明するが、ミルドレッドはにべもなくはねつける。
町の人々の多くは、人情味あふれるウィロビーを敬愛していた。広告に憤慨した彼らはミルドレッドを翻意させようとするが、かえって彼女から手ひどい逆襲を受けるのだった。
今や町中がミルドレッドを敵視するなか、彼女は一人息子のロビー(ルーカス・ヘッジズ)からも激しい反発を受ける。一瞬でも姉の死を忘れたいのに、学校からの帰り道に並ぶ看板で、毎日その事実を突き付けられるのだ。さらに、離婚した元夫のチャーリー(ジョン・ホークス)も、「連中は捜査よりお前をつぶそうと必死だ」と忠告にやって来る。争いの果てに別れたチャーリーから、事件の1週間前に娘が父親と暮らしたいと泣きついて来たと聞いて動揺するミルドレッド。彼女は反抗期真っ盛りの娘に、最後にぶつけた言葉を深く後悔していた。
警察を追い詰めて捜査を進展させるはずが、孤立無援となっていくミルドレッド。ところが、ミルドレッドはもちろん、この広告騒ぎに関わったすべての人々の人生さえも変えてしまう衝撃の事件が起きてしまう──。
ストーリー | 映画『スリー・ビルボード』大ヒット上映中!
(『スリー・ビルボード』日本版予告編(ゴールデン・グローブ賞受賞) - YouTube) |
この映画の特異なところは、人の死が物語の中心にあるにもかかわらず、それに対する普通の対応つまり葬式やお墓参りといったシーン、喪の作業が全く無いことだ。そのために死者は死者として弔われずに、現実の生活の中に残り続けている。そのことがこの映画全体に漂ってホラー映画のような感覚を呼び起こす。(”それ”はITかジョージーか、記憶と想像について IT/イット “それ”が見えたら、終わり。 | kitlog)ここで検討したようにホラー映画では観念の結合の失敗が描かれる。例えば、肉屋の勝手口が自分が昔遭遇した火事の現場のドアになったり、油絵の肖像画が動き出したりする。動かないものが動くものに、ある入口が別の時空の出口になったりしている。『スリー・ビルボード』でも似たような事態が超常現象的ではないかたちで起こっている。この映画の中心には、最初は主人公ミルドレッドの娘の死があった。彼女はレイプされて焼死体として発見されていたが、犯人は見つからずじまいだった。その死を巡っての対応は最初は主に3つに分かれている。それはミルドレッド、ミルドレッドの元夫、その他の町の人々である。
神話的な暴力は、その原型的な形態においては、神々のたんなる宣言である。その目的の手段でもなく、その意志の表明でもほとんどなくて、まず第一に、その存在の宣言である。ニオベ伝説は、これの顕著な一例をふくんでいる。たしかにアポロとアルテミスの行為は、ただの処罰行為と見えるかもしれないが、しかしかれらの暴力は、ある既成の方への違反を罰するというよりは、むしろ一つの法を設定するものなのだ。ニオベの不遜が禍いを招くのは、それが法を侵すからではなくて、運命を挑発するからにほかならない。挑発されたこの闘争において、運命はぜがひでも勝ち、勝って初めてひとつの法を出現させる。(p55)
『暴力批判論』ベンヤミン
ミルドレッドは時が経っても娘を殺害した犯人を見つけられない警察に不信感を持ち、80年代から時が止まり忘れられている広告看板に「娘はレイプされて焼き殺された」「未だに犯人が捕まらない」「どうして、ウィロビー署長?」というメッセージを赤い背景に黒い文字で打ちこんだ。広告看板は再び存在を得た。それは勝手に落書きをしたというものではなく、広告会社から看板の使用料を5000ドルで買って正規の手続きで設置された。警察はそれを取り外させようとするが、正規の手続きに則って看板が設置されているためそうすることができない。ミルドレッドはさらにテレビのインタビューを受けて、看板を設置した経緯などを話しこの問題を公にして警察を動かそうとする。彼女にとってはこの広告看板はその広告の機能、他人何かを告げ知らせることとは別の機能を持っていたと思われる。それは娘の墓としてのそれだ。彼女は時が経つに連れて、そこに花を植え始め、そこで座り込んだりしている。それは周りから見ればただの広告であるが彼女にとってだけそれは娘の墓にも見えている。誰もそれを娘の墓として訪れる人はいない。ある日、そこに一匹の鹿が迷い込んでくる。ミルドレッドは鹿を娘の死を悲しむ何も語らない墓の訪問者、あるいは葬式の弔問客として迎えようと彼女の悲しみを吐露する。
ウィロビー署長は町の人々から慕われ、良い人であると評判である。そのうえ彼は癌を患っていて先が長くないということを町の人はみな知っている。そんなウィロビーに負担をかけるミルドレッドに町の多くの人々は批判的だ。彼を慕う部下のディクソンは「こんな迷ったやつとボンクラしか来ないような道に何をやってんだ」とミルドレッドを批判する。彼らはまるで町で一人の少女が亡くなって犯人がまだ逃亡しているということに関心がないかのようである。町の太った歯医者はミルドレッドに悪意を持って麻酔が必要な治療にそれなしでしようとする。彼女はそれに反抗して歯を削るドリルで彼の親指を削ってしまう。ウィロビーは癌の血液検査の際、採血する医者に「私はあなたのことを応援していますよ」といわれる。それを聞いてウィロビーは憤慨し、採血したあとの注射を投げつける。彼は事件の真相究明や被害者の救済が人々の第一の関心にならずに、ミルドレッド対ウィロビーという構図を敷き、前者が悪、後者が善というステレオタイプで話しかけてくることに苛立っている。彼は事件の捜査をやり直すが、それでも手がかりがまるで見当たらない。
再捜査を言い張るミルドレッドと善悪の構図を決めかかっている町の人々の間でミルドレッドの息子は板挟みなっている。彼が学校でいじめにあっているのを見かねて町の神父が穏便に済ませるよう忠告をしに来る。しかし、ミルドレッドはそれに従わない。彼女は私を黙らせて捜査の邪魔をするならあなたもその犯人と共犯だというような口ぶりだ。
この映画の前半部には、和を乱すミルドレッドに忠告に訪れた神父に対して、彼女が長広舌をふるう場面がある。その出だしは唐突で、80年代のロサンゼルスで抗争を繰り広げた2大ストリート・ギャング、クリップスとブラッズの話題から始まる。そのギャングを取り締まるために新しい法律ができた。彼女の記憶が正しければ、その要旨は、ギャングの一員になれば、仲間が事件を起こしただけで自分がまったく関与していなくても罪に問われるというものだった。
彼女の目から見れば、教会の神父もギャングと変わりがない。もし神父が2階で聖書を読んでいる間に、別の神父が下でミサの侍者の少年に性的虐待を加えていればやはり罪に問われる。だから神父には、彼女の家に来て、つべこべ言う権利はない。そんなことをとうとうとまくし立てて、神父を追い返してしまうのだ。
(中略)
彼女が息子を車で学校まで送ったとき、彼女に反感を持つ男子生徒がドリンクの缶を車に投げつける。そこで車を降りた彼女は、その男子生徒の股間を蹴り上げるだけではなく、隣にいた友だちと思われる女子生徒にも、有無を言わさず同じ仕打ちを加える。
アメリカの縮図という泥沼でもがく人々、映画『スリー・ビルボード』 | 大場正明 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
ミルドレッド、町の人々ともう一人ミルドレッドの元夫チャーリーの娘の死に対する反応はまた違っていた。チャーリーはミルドレッドと同じように娘のことを愛していた。町の人のように無関心ではなかった。けれど、彼は看板を立てることに反対していた。それは娘に対する無関心からではなくむしろ愛情のためである。彼は明らかに死んだ娘の代わりと思われる、娘と同い年の19歳の女とつきあっていた。彼にとっては娘は死んでいると知りつつ死んでいないのだ。娘は娘の代わりとして生きている。しかし、ミルドレッドの広告は娘が確実に死んだものと告げるものだ。彼はそのことが我慢ならない。彼は物語の終盤にミルドレッドの広告に火をつける。
捜査が進まない中でウィロビーの病状は悪化していく。彼は妻と思い出を一つ作ったあとに馬小屋で自殺をする。映画にまた一つの埋められない空白が生まれてしまった。彼は顔に「袋を取るな、通報しろ」とメッセージを添えた黒い布の袋をかぶり、拳銃でこめかみを撃ち抜いて死んでしまう。問題は彼はなぜ黒い袋をかぶって死んだのかということだ。それは真っ黒の焼死体として発見されたミルドレッドの娘の死の再現なのではないか。顔が焼け焦げてそれが誰なのか判別がつかず、目を背けたくなるような捜査資料の写真(実際ディクソンは目を背けていた)が一瞬映り込むが、ウィロビーは黒い袋に「袋を取るな」と書き込み、焼けて顔が見れないのではなく故人の命令で顔が見えない状況を作ることでミルドレッドの娘の死を再現したのではないか。それはおそらく喪の作業をやり直すためだ。しかし喪の作業が行われる前にディクソンはキレてしまい、ミルドレッドが車に缶を投げつけた仕返しに男子生徒の股間を蹴り上げ近くでそれを見ていた女子生徒にもそうしたのと同じように、共犯の論理でミルドレッドの広告に協力した近くの広告会社のレッドをボコボコにし病院送りにしてしまう。ディクソンは警官をクビになってしまう。
S・フロイト(Freud.S)の論文「悲哀とメランコリー」の中に「悲哀の仕事」という概念がある。
(中略)
定義的にいえば、「悲哀の仕事」とは、人間が愛着や依存する対象を失った結果として起こる心の中(精神内界)の変化過程のことである。私たち人間はその過程を経ることで徐々にその愛着対象や依存対象からの離脱をはかり、再び心の安定を獲得して日常生活の平静を取り戻す方へと向かっていく。その心の作業が「悲哀の仕事」である。(P36)
ところが、もし「悲哀の仕事」が円滑に行われず中途半端な状態で悲哀を回避しようとしたり、忘却しようとしたり、また、失った対象に対して奇妙なイメージを作り上げてしまったりすると、その不十分さが、たとえば亡霊に魂を奪われてしまうかのごとく後々まで尾を引き、大問題となる。それが、子どもでは人格形成の上での歪みとなって、うつ状態に限らず種々の精神病や神経症、あるいは問題行動となって現れる。したがって、もう一度「悲哀の仕事」を十分やり直すことが、こういう場合の心の治療につながるのである。(p38)
『子どもの悲しみの世界―対象喪失という病理 (ちくま学芸文庫)』森省二
ウィロビーが死んだあとでも葬式や墓参りの様子が映画として描かれることはない。しかし、ミルドレッドの娘の死と違って自分で死を選んだウィロビーは三人の人物にそれぞれ違う内容の手紙を残していた。一つは妻に、もう一つはミルドレッドに、そしてディクソンに。バラバラに手紙が送られているというのがポイントなのだろう。彼らには情報を共有する手段や場所がない。妻には、弱った自分を見ていてほしくない、自分の冗談にオスカー・ワイルドの引用で答えてくれる君をとても愛していたと綴られていた。ウィロビーの妻はミルドレッドに手紙を手渡しにやってくる。彼女には夫が死んで今後どうしていいかわからず当惑している感じとミルドレッドを恨んでいる様子が伺える。ミルドレッドは手紙を開けるとそこには、広告はとても効果的でわれわれ警察が動かざるを得なくなったこと、事件の手がかりがなく犯罪者がどこかの酒場かなんかで犯罪を自慢するのを偶然聞くといったようなことでしか捜査は進展しなさそうなこと、自分が死んだことをミルドレッドと結びつける人が大勢いるかもしれないがそれは絶対に違うこと、それを示すために広告の延長料金を払ったことが書かれていた。捜査に進展がないのはウィロビーのせいではないが、ミルドレッドはほとんどウィロビーや警察のせいにしていた。同じようにウィロビーが自殺したのはミルドレッドのせいではないが、そう決めつけられるかもしれない。ここでミルドレッドとウィロビーの立ち位置が重なってきている。
ここで広告が燃やされる事件が起きる。その犯人はミルドレッドの元夫だが、ミルドレッドは警察の仕業だと早合点し警察署に火炎瓶を投げ込む。そこにはちょうどクビになったディクソンが来ていた。ウィロビーからの手紙を預かっているから警察署に取りに来るよう言われていたのだ。手紙には、「お前が良い警官になりたいことは知っている、もしそうなりたいのなら怒りではなく愛を持って捜査しろ、愛は冷静さと思考をもたらすからだ。」と彼がウィロビーの死後に行なった怒りに任せた行動が先取りして書かれていた。火炎瓶が窓を突き破り、署内には一瞬で炎が広がる。彼は手紙に従い怒りを中断してミルドレッドの事件の捜査資料を抱えて火事の現場から飛び出してくる。ミルドレッドはそれを見て、自分が勘違いしていたと悟る。ミルドレッドは知り合いのジェームズにアリバイをつくってもらってその場を切り抜ける(無茶苦茶だが)。彼は警官をクビになったにもかかわらずウィロビー署長のようになろうとしているのかもしれない。ディクソンは病院に全身火傷の包帯で運び込まれる。そこで自分がボコボコにしたレッドと同室だった。レッドは素性のわからない彼に優しくする。そして素性がわかって一度は怒るもののディクソンに優しく飲み物を渡そうとストローの位置を調整する。ディクソンは泣いて謝ることしかできない。レッドにも亡くなって信頼してくれていたウィロビー署長にも。
ディクソンは退院後、酒場に入り浸っていたが、偶然そこで昔の犯罪を自慢する人物に遭遇する。それはウィロビーがミルドレッドに手紙で伝えていたような内容の出来事だ。そういうことがあれば捜査は進展するかもしれないという。ディクソンもそのようなことをウィロビーから聞いていなかっただろうか。ディクソンは目立たないように聞き耳を立て、車のナンバーを確認しボコボコにされながらも冷静にその人物のDNAを採取することに成功する。彼はそれまでマザコンとして描かれていたのだが、そこではじめて母親に反抗してみせる。それは同時にそこにはいない彼の父親の役割をすることの拒否でもあるのだろう。彼は辞めた警察署にDNA鑑定を依頼するが、ミルドレッドの事件の犯人とDNAは一致しなかった。おまけにその酒場にいた人物は軍人で事件があった日にはイラクにいたのだという。ディクソンはイラク戦争について何も知らない様子だが、ミルドレッドに電話して違っていたことを伝えると、彼らはひどく落胆する。それはウィロビーが手紙で示したディクソンに良い警官になれるという希望とミルドレッドに酒場で情報が得られるかもしれないと書いたことについての落胆だが、今や彼らは落胆を共有している。
ディクソンはそいつがレイピストにかわりはないとして、ライフルを持って車のナンバーの住所アイダホに向かうことを決める。そのことをミルドレッドに話すと自分もアイダホに行く予定だったという。ディクソンが見つけた人物にミルドレッドは以前会っていた。その人物はミルドレッドの広告を見てミルドレッドの働く店に乗り込んできた。彼はなぜかミルドレッドを脅して看板を取り下げろと言ってきたのだ。ミルドレッドとディクソンは車に乗ってアイダホへ向かう。ミルドレッドはディクソンのライフルを見て「殺すつもりなの?」ときくと彼は「正直気が進まない」という。ディクソンが同じ質問をするとミルドレッドは「行きながら決める」といって映画は終わる。彼らが探している人物は、確かなアリバイとDNAの違いがあるのだからミルドレッドの事件の犯人ではないのだろう。では彼らは何をしに行くのか。ディクソンがレッドをボコボコにしたときのように相手を間違えて暴力をはたらこうとしているだけなのか。ウィロビーがくれた落胆を埋めに行こうとしているのか。あるいは、偶然無知な人物が米軍の戦争犯罪を暴きに行くのか、それならば期せずして彼らは個人的な事件の解決のためにより高次の集団、米軍や国家を相手にしに行くことになる。彼らの進むアイダホへの道が、スリー・ビルボードの道と同じ道、つまりディクソンが最初に言った「迷ったやつとボンクラしか来ないような道」でなければ良いのだが。
事件は2006年3月、バグダッド(Baghdad)南部の町マハムディヤ(Mahmudiyah)で、14歳のイラク人少女Abeer Kassem Hamza al-Janabiさんが米兵5人から性的暴行を受け、Janabiさんを含む一家4人が殺害され、自宅が放火されたもの。軍法会議はスピルマン被告が犯行グループの一員だったと判断した。
イラク少女暴行殺害事件の米兵に禁固110年の有罪判決 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
9/10/2020
更新
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