イメージをめぐって ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書
国家の最高機密文書<ペンタゴン・ペーパーズ>。
なぜ、アメリカ政府は、4代にわたる歴代大統領は、30年もの間、それをひた隠しにしなければならなかったのか―。
1971年、ベトナム戦争が泥沼化し、アメリカ国内には反戦の気運が高まっていた。国防総省はベトナム戦争について客観的に調査・分析する文書を作成していたが、戦争の長期化により、それは7000枚に及ぶ膨大な量に膨れあがっていた。
ある日、その文書が流出し、ニューヨーク・タイムズが内容の一部をスクープした。
ライバル紙のニューヨーク・タイムズに先を越され、ワシントン・ポストのトップでアメリカ主要新聞社史上初の女性発行人キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)と編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、残りの文書を独自に入手し、全貌を公表しようと奔走する。真実を伝えたいという気持ちが彼らを駆り立てていた。
しかし、ニクソン大統領があらゆる手段で記事を差し止めようとするのは明らかだった。政府を敵に回してまで、本当に記事にするのか…報道の自由、信念を懸けた“決断”の時は近づいていた。
ABOUT|映画『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』公式サイト 大ヒット上映中
(The Post | Official Trailer [HD] | 20th Century FOX - YouTube) |
「人の心を動かす力強い物語で、脚本を2年前に読んでいたらそのときに撮影していただろうし、今から2年後に読んだらそのときに撮っていたでしょう。オバマ政権下でもブッシュ政権下でも通用する映画だと思います」
言論の自由は崖っぷちに スピルバーグ、米国のいま語る:朝日新聞デジタル
『国防総省秘密文書』は、「世界の超大国が、実現してもどんな価値があるのかがそもそも疑問とされる問題をめぐって、小国を服従させるために必死に努力する一方で、毎週のように数千人の非戦闘員を殺害したり、重症を負わせたりしているという状況」を詳細に示しています。
この状況は、ロバート・マクナマラ国防長官の慎重に選んだ表現では、たしかに「好ましいものではない」のです。この秘密文書はまた、高潔であるとも、理性的であるとも言えない国防総省という組織を導いているのは、アメリカ合衆国が実際に「地上で最高の権力」であることを世界に納得させるようなイメージを作り出そうとする方針だけであることを、うんざりするほど繰り返しながら、疑問の余地なく証明しているのです。
ジョンソン大統領が一九六五年に野放しにしたこの破壊的で恐ろしい戦争の究極の目的は、権力でも利益でもなく、特定の明確な利益を維持するためにアジアにおける影響力を確保するという現実的なものでもありませんでした(そのためには威信と、適切なイメージが必要であり、それを目的にふさわしい形で行使する必要があったのです)。この戦争は、領土を拡張し、併合するという帝国主義的な政策によるものでもありませんでした。この国防総省の文書で語られている物語から拾い集めるべき恐ろしい真実は、唯一の永続的な目的は、イメージそのものだったことです。これが無数の覚書と「オプション」で、すなわち「シナリオ」とその「観衆」について、議論されていたのでした(これらの用語は演劇の世界から借りてきたものです)。
この究極の目的にとっては、すべての「オプション」は短期的に交換することのできる手段に過ぎず、最後にすべての兆候が敗北を示す時期が訪れると、この役所は優れた知的な人材の総力を上げて、敗北を認めることを回避し、「地上で最強の権力」が無傷であるというイメージを保とうとしたのです。もちろんこの瞬間が訪れると、政府は新聞と正面から衝突せざるをえなくなり、アメリカ合衆国の実際の敵やスパイよりも、腐敗していない自由な新聞記者のほうが、こうしたイメージ作りにとって大きな脅威となることを学ぶことになるのです。新聞との衝突のきっかけとなったのは、『ニューヨーク・タイムズ』と『ワシントン・ポスト』に、『国防総省秘密文書』が同時に掲載されたことでした。これは二◯世紀で最大の新聞スクープでしょう。しかし新聞記者たちが、「印刷するに値するすべてのニュース」を発表する権利を主張しつづけるかぎり、こうした衝突が生じるのは、実際には避けがたいことだったのです。(p474-476)
『責任と判断』ハンナ・アレント
ダニエル・エルズバーグ(マシュー・リス)はベトナム戦争の戦況をマクナマラ国防長官に報告する。映画では米軍が相手の奇襲をうけ苦戦する様子が描かれる。戦況は一進一退の泥沼状態だ。彼がそのことを告げると、マクナマラは「やはりそうか」という感じで納得する。しかし、飛行機から降りたところで待ち受けていたマスコミに対して、マクナマラは「非常にうまくいっている、進展している」などと報告とは違うことをいう。マスコミも「状況は楽観的か悲観的か?」とステレオタイプを促すような質問をしている。
われわれはしだいに、独力で、より大きな環境の多くの面を支配するようになるのであるが、つねに未知の広大な世界が残る。そうした世界についても、なおわれわれは権威ある人びとを通じて関わりをもつことになる。一切の事実が目の届かないところにある場合、真実の報告も、もっともらしい誤報も、同じように読まれ、同じように聞こえ、同じように感じられる。自分自身がたいへんよく知っている数少ない問題を除いて、われわれは真実の報告と虚偽の報告を選別することができない。(p49,50)
ステレオタイプの盲点は、そのような散漫な気を起こさせるようなイメージを退ける。それにつきものの感情とあいまって、目的に対するためらいや意志の薄弱を引き起こしかねないイメージを寄せつけない。その結果、ステレオタイプは忙しい生活のなかで時間を節約し、社会におけるわれわれの位置を守る役目を果たすだけでなく、世界を確実に見つめ、その全体を見わたそうとする試みによって生じるあらゆる困惑からわれわれを守ることにもなるのである。(p156)
『世論(上)』リップマン
そのことを苦々しく思ったエルズバーグは職場のランド研究所からベトナム戦争に関する詳細が書かれた機密書類「ペンタゴン・ペーパーズ」のコピーを少しづつ持ち帰り、その大半をコピーする。彼は職場の出入り口にいる警備員の前で少し立ち止まり声をかけられるが、いや何でもないというふうにその場を立ち去ってしまう。車で移動中、書類は割れ物ではないのだが彼は車の揺れを気にしてそれを大事に抱える。一昔前の大掛かりなコピー機で彼とその仲間は書類を一枚ずつコピーする。そしてこの書類がリークされるのだが、その書類の運命とワシントン・ポスト紙(以下WP)の運命が密接に重なっていることが描かれる。
キャサリンの父で投資家のユージン・メイヤーが1933年にワシントン・ポストを買収し、それ以降同紙はグラハム一家が所有していた。1946年、キャサリンの夫であるフィル・グラハムがメイヤーの跡を継いで発行人となり、調査報道を重視する方針によって同紙を地元の三流紙から全国紙へと成長させた。1963年、深刻なうつ病を患っていたフィルが自殺したことで、当時4人の子供の母親だった46歳のキャサリンが後継者となった。周囲の友人や専門家は経験豊富な人材に会社を任せるよう説得したが、彼女は子供たちや家族の遺産のために自分が経営者になることを決意した。
PRODUCTION NOTE「意外なパートナーシップ:キャサリン・グラハムとベン・ブラッドリー」|映画『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』公式サイト 大ヒット上映中
ペンタゴン・ペーパーズの件で窮地に立たされた時、グラハムはまだ信頼を獲得しようとしている最中だった。ドン・グラハムは次のように語る。「母は非常に自分に自信がない女性だった。メリル・ストリープはその特徴を完璧に捉えていたと思う。会社のCEOや新聞の発行人にはうぬぼれた人物が多いが、母は常に自己不信に陥っていた」
現在ワシントン・ポストの上席共同編集者を務めるキャサリン・グラハムの娘、ラリー・グラハム・ウェイマウスも次のように語る。「専業主婦だった母にはつらかったと思う。それまでは私たちを買い物や公園に連れて行くだけの毎日だったから。慈善イベントを主催したことはあったけど、ジャーナリストの経験はなかった。父が亡くなるまでは仕事をしたことがなかったの。母自身が認めているように、何の経歴も持たない母にとっては非常に困難だったと思う」
PRODUCTION NOTE「意外なパートナーシップ:キャサリン・グラハムとベン・ブラッドリー」|映画『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』公式サイト 大ヒット上映中
ケイは父と夫を亡くし、期せずしてWPの社主となった。当時のWPは家族経営の地方紙で、他の役員はケイについて頼りない、存在感が薄いなどと批判的だった。WPの経営陣は資金確保のため株式を公開しようとしている。ケイは質が利益を保証するとして株の公開価格を高く設定しようとするも、彼女の未熟さのために自分でスピーチをすることができず、代わりに他の役員が彼女の言いたいことを言ってしまう。
一方WPの編集主幹として新しく雇われたブラッドリーはWPを全国紙にしようとニューヨーク・タイムズ(以下NYT)をライバル視していた。彼はNYTの敏腕記者のニール・シーハンが何ヶ月も記事を書いてないことを不審に思い、スクープを用意しているのではないかとインターンにスパイをさせる。インターンはブラッドリーに「これは合法ですか?」ときくと彼は「うちの仕事がどういうものか考えてみたまえ」というようなことをいう。他社にスパイを送ることが合法か違法か、違法だとして法を犯すことが良いか悪いかは別として、法に照らしてどうかということは記者の行動原理にはならないといいたいのだろう。ブラッドリーにとっての行動原理が「徳」なのか「名誉」なのかはわかりにくいが、登場したての彼のそれはそれほど良い理念に基づいたものではなかったように思われる。インターンの男はスパイであることがバレてしまったらどうなっていたかわからない。
モンテスキューが理解していたように、合法性は活動に制限を設けることができるだけであり、活動を鼓舞(インスパイア)することは絶対にありえないのである。(p138)
モンテスキューは三つの活動原理を提起した。すなわち共和制内の活動を鼓舞する「徳」、君主制内の活動を鼓舞する「名誉」、そして専制国家内の活動すべてを導く「恐怖」――要するに、暴君に対する国民の恐怖、国民が互いに抱き合う恐怖、さらに自国民に対する暴君の恐怖――である。手柄を立てて公的な名誉を得ることは君主制下の臣民の誇りであるが、ちょうどそれと同じように、公的問題で同胞市民より際立つことがないようにするのが共和制の市民の誇りであり、彼の徳なのである。これらの活動原理は心理的動機と間違って解されてはならない。それらはむしろ、公的領域内のすべての活動が合法性という単なる制限的=抑止的(ネガティブ)な尺度を超えて判断されるための、道しるべとなる基準であり、支配者と被支配者の活動をともに鼓舞するものなのである。(p139)
『政治の約束』ハンナ・アレント
NYTがスクープを用意しているのが事実だと知り、ブラッドリーは焦る。しかし、NYTが「ペンタゴン・ペーパーズ」について記事にすると、NYTは政府から記事の差止め命令を受け、彼はそれを千載一遇の好機だととらえる。儲けるチャンスだというわけだ。
ニューヨーク・タイムズが出版差し止め命令を受ける中、ライバル紙たちは文書を入手して独自の記事を出そうと奔走していた。ニューヨーク・タイムズのような大手の有力全国紙と比べるとマイナーなローカル紙扱いされてきたワシントン・ポストはすぐに文書の入手に動き、かつてランド研究所でエルズバーグと同僚だった編集主幹補佐のベン・バグディキアンが文書の全コピーを入手した。こうして、文書を公表するか、もしくは見送るかの決断は、当時のアメリカの有力全国紙で唯一の女性経営者だったキャサリン・グラハムに委ねられることになった。激しいプレッシャーの中、新聞社の将来を危険にさらし、株式公開の計画も潰してしまうという反対意見に逆らい、彼女は編集主幹のベン・ブラッドリーに記事掲載の許可を出す。
6月18日、法的措置を取られる可能性がある中でワシントン・ポストは文書を発表。ニューヨーク・タイムズが差し止め命令を受けた後にペンタゴン・ペーパーズを掲載した最初の新聞となった。同日、司法省は同紙に対する禁止命令と恒久的差し止め命令を要求。しかし、連邦裁判所判事は今回は訴えを却下した。一方、ニューヨーク・タイムズの勇気ある決断とそれに続いたワシントン・ポストに触発され、ボストン・グローブやシカゴ・サンタイムズなど多くの新聞が一丸となって文書に関する記事の掲載を始めた。
6月30日、最高裁判所は差し止め命令を無効とした。ペンタゴン・ペーパーズの公表は公益のためであり、政府の監視は報道の自由に基づく責務であるというのが判決理由だった。 PRODUCTION NOTE「What are the Pentagon Papers?」|映画『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』公式サイト 大ヒット上映中
このWPの決断には三つの要素が関わっていて複雑だ。一つは法に関すること、二つ目は友情に関すること、三つ目はWPの存続と伝統に関することである。
この映画ではニクソンは記者に明らかに恐怖を与えようとしている。それは記事を差止めにしようとしたり、記者を出禁にしようとしたりすることでなされている。映画の演出上でも暗がりの中ホワイトハウスでカメラに背を向けて電話で命令している様子はなにか犯罪的な様子を匂わせている。
恐怖は、正確に言えば、共通世界における活動の原理ではなく、反-政治的な原理なのである。伝統的理論によれば、専制体の恐怖は、対等者とみなされている人々の力を限定するはずの法が破綻して、一方の力が他方の力を無効化するに到るような歪んだ民主主義から生まれる。あるいはそれは、専制君主が法の境界線を徹底的に破壊して、暴力手段を強奪することによって生まれる。いずれの場合も、無法性が意味するのは、人間が共に活動することによって生まれる権力はもはや成り立ちえないというだけではなく、無力さ(impotence)は人工的に作られうるということでもある。こうした全般的な無力感から恐怖が生まれ、そしてこの恐怖から他者すべてを征服したいという専制君主の意思と、支配に甘んじようとする国民=臣民の心性が生まれる。(p145)
『政治の約束』ハンナ・アレント
ブラッドリーは最初のインターンの例にもあるように、法に関していい加減な態度をとっていた。しかし、セオドア・ルーズヴェルトのように「我は国家なり」というタイプの大統領があらわれた場合(”セオドア・ルーズヴェルトは、歴代のいかなるアメリカ大統領よりも強固に、「余は国家なりL'état c'est moi」の信条を堅持したが、彼はこの道をさらに前進していった。”『危機の二十年』E.H.カー)法に頼らざるを得ない。法の下でなければ、ニクソンとブラッドリーは平等ではないからである。平等な関係で戦うことができなければ、両者の戦いはブラッドリー側つまりメディア全体に無力感を与えることになるだろう。無力感は恐怖の根源であり、この状況を許せばメディア側はその恐怖にこれから先ずっと屈することになってしまう。彼らはアメリカにおいて専制政治のように法が破壊されていないことを示さなければならない。故にブラッドリーも法を守らなければならない。彼はWPの弁護士を連れて「ペンタゴン・ペーパーズ」に関する記事の公開が何の罪に当たるのか、それを回避するにはどうすればいいのか慎重に検討するように頼む。ブラッドリーはここでは「自由」や「正義」といったような理念を行動原理にしているように見える。それゆえ最後にはスパイを送っていたNYTとも団結することができたのだろう。
1971年に裁判所命令をものともせず、リークされたペンタゴン・ペーパーズ(さまざまな欺瞞の中でも、とりわけアメリカ政府のベトナムでの裏取引を暴露していた)をワシントン・ポストに掲載すると決めたとき、キャサリンは途方もないプレッシャーに晒されていた。それはたまたまワシントン・ポストが株式を公開したのと同じ週の出来事であり、金融機関が彼女の決断を支持してくれるか、まったくわからなかったのである。しかしそれでも、彼女は最終決断を下した。その過程で、彼女が重視したことは二つ。
一つ目は、父や夫から引き継いだこの新聞社の継承者となるのなら、自分はそのためにすべてを賭けるしかないということ。自分は単なる経営者ではなく、信頼を守る番人となること。二つ目、自分がこれを掲載する決断を下さなければ、ベン・ブラッドリーを失うことになる。ニュースがあるのにそれを掲載しないというのは、ベンという人間の存在に全面的に反することだったからだ。
メリル・ストリープが映画『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 』でキャサリン・グラハムを演じるまで。|海外セレブ・ゴシップ|VOGUE JAPAN
ケイにとっては、政府から告訴されるかもしれない記事を出すことは会社を潰しかねないものだった。株式を公開したばかりで問題を起こせば、投資家はWPを見向きもしなくなるだろう。そうすれば資金調達が滞りあっという間に倒産してしまう。しかし、記事を出さなかったとしたらどうなるか。まずブラッドリーは辞職するだろう。そして、他の面々、エルズバーグを発見したバグディキアン(ボブ・オデンカーク)も記事を出さないなら辞職を願い出ていた。ケイは物語の最初から質が利益を保証するといっていたが、もし記事を出さなかったことで彼らがやめてしまったら、質を保証することなどできないだろう。そして大統領の顔色をうかがう新聞というレッテルを貼られてしまう。そうなれば新聞としては遅かれ早かれ消えてしまうしかない。彼女はブラッドリーにこの記事を出すことで米軍が危険にさらされることはあるかと尋ね、彼がノーと答えると、印刷することを決断した。
紙面が期待されるほどには良くなく、向上の余地が多分にあるという考え方を最初に耳に入れてくれた一人に、スコッティー・レストンがいる。彼はグレン・ウェルビーの家に向かう途中、このように言ったのだ。「君は、相続した新聞よりずっと優れたものを次の世代に残したくはないか?」
この質問は、びっくりするには当たらないように聞こえるかもしれないが、当時の私には驚きだった。私は、過去において私たちが成し遂げていたような進歩を、現在は達成していないということ、あるいは私たちが行っていることは、一九六〇年代の現在としては不十分であるということをまったく考えていなかった。
ペンタゴン・ペーパーズ 映画で描かれない「ブラッドレー起用」秘話 | カルチャー | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
最後は友情の問題である。ケイとマクナマラ国防長官は近所(隣?)に住んでいて友人だった。一緒に食事をしたり、パーティーに参加したりしていた。ケイはマクナマラを真の友人だと思っていたが、ブラッドリーは政府について悪く書かないためにそう接しているだけだという。ブラッドリーはケネディ大統領と友人で真の友人だと思っていたが、彼が暗殺されて運ばれた病院に友人として見舞いに行ったとき、家族から「ここで見たことや聞いたことは記事にしないで」と言われたのだという。記者という職業はやはりどこか人と距離があるのだ。距離がない友情で結ばれた関係には、正義がなくなってしまうからだ。そこはある種の無法地帯で、それは権力者との関係においては最も注意しなければいけない。
「いかなる財貨を所有しようとも、友情を知らずに生きようとする者などいない」というのは、友情を正当化する最高の言葉である。もちろん友情の均等化は、友人たちが互いに同じであるとか平等であるということを意味するのではなく、共通世界において平等なパートナーになることを、すなわち共に共同体の一員になることを意味する、コミュニティは友情が成就するものなのである。そして言うまでもなく――ここが論争を呼ぶ点でもあるのだが――この均等化は、市民たちの間に、競技的生活に固有の差異化を果てしなく拡大させてゆくことになる。アリストテレスは次のように結論する。コミュニティの絆とおぼしきものは、正義ではなく(プラトンは正義に関する壮大な対話篇『国家』においてそれは正義であると主張しているのだが)、友情である。アリストテレスにとって、友情は正義よりも重要なのである。なぜなら、友人たちにはもはや正義など必要ないからである。(p70,71)
『政治の約束』ハンナ・アレント
ケイはマクナマラに記事を出す許可ではなく助言を求めた。マクナマラは記事を印刷すれば必ずニクソンや彼の取り巻きがWPを潰しに来るだろうといった。ニクソンにとっては新聞は自分あるいはアメリカを雷神として描くための道具だったのだろう。そのギャップがウォーターゲート事件につながる。(アレントによればニクソンの行動は憲法や法律を廃止しようとするものではなく自分を邪魔するものにはどんな法律も無視するという固い決意からきていると書かれている『責任と判断』p479)
カムフラージュの技術がもっとも実践され頂点に達しているのは、前線ではなく高等司令部においてである。どこにいようと司令官という司令官は無数の宣伝員の忙しい活動により、いまや遠目ではナポレオンとまちがえられるぐらいに色を塗りたくられている。……これらのナポレオンがどれほど無能であっても、罷免することはほとんどできない相談になっている。というのも、失敗は隠したりごまかしたり、成功は誇張したりねつ造したり、そうやってつくり上げられた民衆の大支援があるからである。……このように組み立てられた虚偽のもっとも陰険でもっとも悪い影響は、将軍たち自身にふりかかる。彼らはほとんどが敬虔で愛国心に富んでおり、またほとんどの人たちは軍人という高貴な職業を選んで従っているに違いないのだが、彼ら自身がこうして世間に広がっている幻影にもっとも大きな影響を受けている。毎朝新聞を読んでは、どんなにへまをやらかしてもわれこそは戦争の雷神であり、誤るはずはないと自ら思い込むようになる。そして司令官としての地位を保つことは神聖な目的であるからどんな手段を用いてもよいと信じ込むようになる。
……この大きな欺瞞を最大の欺瞞として、さまざまな状況がついにはあらゆる「参謀幕僚たち」を一切の制約から解き放つ。彼らはもはや国民のために生きているのではない。国民が彼らのために生きるのであり、あるいは死にさえもする。勝敗は一番の関心事ではなくなる。(p69,70)
『世論(下)』リップマン
9/10/2020
更新
コメント