木を見て森も見てプーも見る プーと大人になった僕

少年クリストファー・ロビンが、“100エーカーの森”に住む親友のくまのプーや仲間たちと別れてから長い年月が経った──

大人になったクリストファー・ロビン(ユアン・マクレガー)は、妻のイヴリン(ヘイリー・アトウェル)と娘のマデリンと共にロンドンで暮らし、 仕事中心の忙しい毎日を送っていた。ある日クリスファー・ロビンは、家族と実家で過ごす予定にしていた週末に、仕事を任されてしまう。会社から託された難題と家族の問題に悩むクリストファー・ロビン。そんな折、彼の前にかつての親友プーが現れる。

プーに「森の仲間たちが見つからない、一緒に探してほしいんだ」と頼まれたクリスファー・ロビンは、子供の頃プーたちと過ごした“100エーカーの森”へ。何一つ変わらないプーやピグレット、ティガー、イーヨー、カンガとルーの親子。仲間たちとの再会に喜びと懐かしい日々を感じながらも、仕事に戻らなければならないことを思い出す。「仕事って、ぼくの赤い風船より大事なの?」と、悲しむプーたち。急いでロンドンに戻ったクリストファー・ロビンは、森に会議の重要な書類を忘れてしまう……。

一方、クリストファー・ロビンの忘れものに気づいたプーと仲間たちは、マデリンの助けを借り、親友のため、初めて“100エーカーの森”を飛び出し、ロンドンへと向かう。クリストファー・ロビンが忘れてしまった、本当に「大切なモノ」を届けるために──

作品情報|プーと大人になった僕|ディズニー公式

プーと大人になった僕
(Christopher Robin Official Trailer - YouTube

僕がミルンの本を読んでいて面白いなと思ったのは、クリストファーは少年なのに、プーや森の仲間たちの“父親的”な存在になっていること。物語の中で何か問題が起こると、プーたちは“クリストファーにいえば解決してもらえるよ”っていうんだ。でも、よく考えてみると、この本は父親であるミルンが息子に読み聞かせている物語なのに、物語の中で息子はプーたちの“父親”になっているんだ(笑)。そこが面白い部分だよね

“くまのプーさん”が実写化! ユアン・マクレガーが語る『プーと大人になった僕』|ニュース|映画情報のぴあ映画生活(1ページ)

クリストファー・ロビンは大人になって顔にもシワがあり、妻と娘の三人で暮らしている。彼は寄宿学校に行ってから、父が早くに亡くなり、その後戦争を兵士として戦地で経験した。多くの死そして父という特別な存在の早すぎる死を目にしてきて、彼もそうなるのではないかと怯えているせいだろうか、彼は仕事漬けの生活をしている。仕事が中心の生活で妻や娘とはまともに話もしていないし、遊びに誘ってくれる隣人をできるだけ避けようとしている。彼は妻のイヴリンに家族に仕事ばかりしてないで家のことも考えてと言われるのだが、「僕は家族の将来のことを考えているんだ」といって聞かない。彼は死ぬ前に多くのものを残そうとしている。彼は父や戦死した仲間のように早くに死んでしまうのだろうか。

クリストファーは週末に家族でサセックスに里帰りする予定だった。しかし重要な仕事が急に入り行けなくなってしまう。彼は旅行カバンの販売部門の責任者で、売上が低迷している旅行カバン部門を立て直すプランを週明けまでに考えなくてはならない。彼の上司は社員のリストラを提案する。「君は沈みかかった船とともに沈むのか、それとも自分で泳いで助かるのか」と犠牲が避けられないような言い方をする。上司の考えはクリストファーに伝染し、そのリストラをするという結論ありきで会社の書類とにらめっこをしている。しかし、そこにある数字を眺めていい成果が出ているのかはわからない。そんなときに、子供の頃に遊んでいたぬいぐるみのプーが現れる。クリストファーはプーと再会したことで、旅行カバン部門を立て直す斬新なアイデアを思いつく。プーはクリストファーに何をもたらしたのだろうか。

有用性の観点はつねに狭い観点である。われわれが今日の化学において、実用上重要な物質にたいする行きすぎた関心をもたなかったとしたら、今以上にどれほど多くのことが知られたことであろう。そして、低温状態でのみ存在する希少な元素や化合物が、その有用性が確保する権利に比例した割合でしか関心が払われなかったとしたら、いかに今以下の知識しか得られなかったことであろうか。

何ごとであれ全身全霊を捧げなければ成功はおぼつかないというのは、残念ながら誰もが認めざるをえない真実である。それゆえ、理論と実践という二人の主人に同時に仕えるということはできない相談である。諸事物の体系を観察するために要求される完全に均衡のとれた注意力は、人間的な欲求が介入すればまったく台無しにされてしまうのであり、その欲求が宗教心や倫理感など、高級で神聖なものであればあるほどその被害も大きいのである。(p27,28)

『連続性の哲学』パース

プーとの再会で重要なことは「何もしない」とはどういうことなのかということだ。クリストファーの上司は「何もしないと何も生まれない」といい、プーは「『何もしない』が最高の何かにつながる」という。「何もしない」というのはもともと少年時代のクリストファーが100エーカーの森で「したいこと」一番好きなことだった。しかし寄宿学校に行くことで「何もしない」ができなくなった。それからクリストファーも「何もしない」を嫌悪するようになる。クリストファーはロンドンでプーと再会するも、家の中をはちみつだらけにしたり、家の中のものをめちゃくちゃに壊したりするので、プーを100エーカーの森へ送り返そうとする。プーはハシゴだと思ってキッチンの棚に登ろうとし、棚をすべて壊してしまう。クリストファーにとっては迷惑なシーンだし、いきなり家のものを壊されたら誰だって不快だろうが、プーが棚をハシゴと読み替える重要なシーンだ。解釈を変えるとそのものは壊れてしまう可能性があるのだ。

クリストファーはプーを抱えて駅へ向かう。その途中でプーは風船が欲しいと言い出す。クリストファーは「風船なんか何に使うんだ」というとプーは「風船を持っていると幸せな気持ちになる」という。なにか特別なものを所有していると幸せな気持ちになるということはあるかもしれない。この場合はそれだけではない。クリストファーは切符を売り場で買うのだが、プーの風船が邪魔になってなかなか財布からお金を取り出せない。このとき確かに風船は邪魔になっている。しかし切符を買ったあとプーが迷子になると、クリストファーは背の低いプーを探すのに人混みの中でプーを探すのではなく赤い風船を探している。風船は明らかにプーの延長、目印として「使えて」いる。風船が使えるかどうかは他のものとの関係で変わってくるのだ。クリストファーはここで自ら風船に貼ったレッテルを知らずに剥がしている。しかしそのことを通常人は「何かをした」とは言わない。クリストファーは物語の最後の方で風船を自分がサセックスに来たことの目印として自転車に縛っていく。そのあとすぐ娘に見つかってしまうのだが。

推理は分析と抽象を含んでいる。単なる経験的思考者は、ある事実をその全体において漫然と眺め、もしそれが何ら接近あるいは類似のものを暗示しなければどうすることもできずに行き詰まってしまう。これに反して推理者は事実を分解し、それのもつ諸属性のあるものに注目する。この属性を彼は自分の眼前にある全事実のの本質的部分と見る。この属性は種々な特質や結果をもっている。そしてそれらの特質や結果は、発見されるまではその事実に備わっていると分からなかったが、いまやその属性の含まれていることが認められるに至っては、その事実が持っていなければならない属性なのである。(p173,174)

重要な特質は人により、また時により絶えず変化する。したがって同一事物に対してさまざまな呼称や概念があるのである。しかし多くの日常使用する物――紙、インキ、バター、オーバーコートのようなもの――はきわめて恒常不変的な重要性をもち、また非常に固定した名称をもっているので、ついにわれわれはこのように理解することが唯一の真実な理解の仕方であると信ずるようになるのである。しかしこのような理解の仕方が他に比べて真実に近い理解の仕方ではない。それらはただ、われわれに役に立つことが多いというに過ぎない。(p180,181)

『心理学(下)』ウィリアム・ジェームズ

汽車に乗り込むとクリストファーは会社の書類に目を通し仕事をしているが、プーは風景を眺めてそこに見えたものの名前を呼ぶゲームをしている。クリストファーはプーが「木、羊、犬を連れた女性」などとずっと独り言を言っていて気が散って仕方がない。クリストファーはプーが邪魔で無駄なことをしているとして静かにするようにいう。役に立たないと思われているプーが実際にしていることは風景をその要素に分解することだ。「風景を見た」というだけでは何にも注意したことにはならない。しかし、もしそこで何かに注意を払うとしたらその人はそれに興味や関心があるのだ。人はそこで仮説形成や推理の過程に入り自己を訂正していく。

観察とは結局のところ何であろうか。経験とは何であろうか。それはわれわれの生の歴史において外から強制される要素である。われわれは、自分が眺め思念している対象のなかに具わった隠れた力によって、それを意識するべく制約されるのである。観察という行為は、そうした不可抗力を前にしたわれわれの自発的な自己放棄である――われわれは自分が何をしようとも、結局はその力によって打ち負かされることを予期して、自分から降伏するのである。われわれが仮説形成において行う降伏は、ある観念の側からの自己主張に対する降伏である。(p59)

『連続性の哲学』パース

プーがクリストファーを訪ねてきた目的は、100エーカーの森の仲間たちがプーの前からいなくなってしまったので一緒に探してほしいというものだった。クリストファーは森の入口でプーと別れようとするが、プーの寂しそうな背中を見て渋々仲間探しにつきあうことにした。100エーカーの森ではズオーという怪物がいるという噂が空間を支配していた。ピグレットやティガーたちはそれに怯えて隠れているのだ。しかしクリストファーが途中で出会ったイーヨーと原因を探ってみると、壊れた風見鶏が奇妙で恐ろしい音を発し続けているというだけだった。ズオーがいるというのは彼らの思い込みだ。クリストファーは暗い穴に隠れている動物たちに「ズオーはいない、壊れた風見鶏の音だ」というが彼らはそれを信用せず、クリストファー相手に「おまえがズオーだな」といって防御的になり、穴から出てこようとしない。彼らはプラトンの洞窟の比喩のような状態にいて、ズオーがいると思いこんでいるだけだ。そこで、クリストファーはその思い込みを退治しようと、イーヨーと協力してそこにはいないズオーを退治しようと試みる。クリストファーは「ズオーがいたぞ」と言ってその穴から少し遠くに離れていって、自分の仕事用のカバンを叩きつけてズオーを退治したと見せかける。動物たちは穴から出てこないから、クリストファーとイーヨーが何をしているかは実際には分からないが、遠くから見聞きできる彼らの大げさな動きや実況で彼らはズオーが退治されたと思いこんで穴から出てきた。ここでクリストファーが他人の思い込みを取り払ったことで、同時に彼も自分の思い込みを意識することを学ぶのだ。例えば、ズオーが存在しないのと同じように、忙しく働く必要もないのではみたいに。

推論の第一の規則であり、ある意味では唯一の規則でもあるものとは、人が何かを学ぶためには学ぼうと欲しなければならず、初めから心が傾いている考えに満足してはならない、ということである。(p64)

『連続性の哲学』パース

クリストファーは100エーカーの森で寝過ごしてしまい、急いでロンドンの会社に戻らなくてはならない。彼は自分の身なりは確認せず、妻と娘の様子を少し見に行ってもと来た汽車に乗ってロンドンへ戻っていった。彼は風景の中で目についたものの名を呼んで他の乗客に不審がられていた。クリストファーが行ったあとで、プーたちはティガーからクリストファーのカバンにとても大事なものを入れておいたことを聞かされる。代わりにティガーは大事な書類をいただいて、イーヨーの鞍にしている。プーは「これは大事なものなんだ」といってクリストファーに届けようとする。プーたちは娘のマデリンと出会って一緒にクリストファーの大事なものを会社に届けようとする。クリストファーが会社に到着して会議のプレゼンのためカバンを開けると、そこに書類はなく代わりに森の小枝やイーヨーのしっぽが入っていた。また邪魔かと思われるかもしれないが、これも読み替えである。ティガーが書類の代わりに小枝やしっぽを入れたことで、その仕事用のカバンは100エーカーの森の思い出を詰めた旅行用のカバンに変わったのだ。もともとクリストファーは週末の里帰りのために旅行カバンが必要だったが、仕事のために不要になっていた。けれど、プーにつきあうことでそれが結果的に旅行になり旅行カバンが必要になったのだ。新しいアイデアまでもう一歩である。娘のマデリンはクリストファーに書類を届けようとするが、もう少しのところで、書類の大半が風に飛ばされて失われてしまう。娘に「これしか届けられなかった」と渡された書類の断片を見て、クリストファーはある考えを思いつく。それはその書類だけから導き出されたものではなく、それはきっかけで彼のこの映画内で経験すべてがそのアイデアを後押ししている。彼の考えは「何もしないと何も生まれない」=「リストラをする」から「何もしないが最高の何かを生む」=「労働者に休日を与えて、旅行に行ってもらう。そうすればカバンの需要ができる」へと転換する。結局「何もしない」の「何」のところには何でも代入可能なのだ。クリストファーはリストラという思い込みを蔓延させた上司をヒータチという森の怪物になぞらえて批判した。会議にいる他の人には意味がわからなかっただろうが、その上司は他の名前で呼ばれるだけのことをしていたのだ。

鉄道旅行が生み出したものについて、ヴォルフガング・シベルブシュというドイツの歴史家・社会学者が『鉄道旅行の歴史――十九世紀における空間と時間の工業化』(加藤二郎訳、法政大学出版局)というなかなかおもしろい本を書いています。(中略)鉄道はかつて有閑階級の文化的な特権だった旅を、労働者階級の娯楽に変えていきます。日帰りの旅行が可能になったからでしょう。労働者階級にとって泊りがけで行く旅行は、当然その分働けなくなるわけですから、日曜日に日帰りで帰ってこられるような条件が設定されないと旅行を自分たちの楽しみにするわけにはいかなかった。当時のイギリスではロンドンから日帰りできるようなところにさまざまな有名な保養地ができます。プライトンという海辺の都市などは、その一つの典型でしょう。(p145)

『〈景観〉を再考する』松原隆一郎、荒山正彦、佐藤健二、若林幹夫、安彦一恵

クリストファーがマデリンに週末サセックスに一緒に行けないといったとき、マデリンは「寝る前に本を読んで」といった。マデリンは読んでもらいたい本を用意してたのだが、クリストファーは手近にあったイギリスの歴史の本を読み始めた。すると、マデリンはうんざりしたように眠くなってきたといって打ち切ってしまった。彼女が読んでほしかった本は『Treasure Island(宝島)』という冒険小説だった。今作では「何もしない」という世界観に合わせるために休暇のための旅行を提案するという意味合いが強かったが、旅行カバンを売るために冒険としての旅行を提案することも考えられるかもしれない。
9/10/2020
更新

コメント