「ありえない」を封じた「しょうもない」世界観あるいは介護 花のち晴れ
原作は人気漫画家・神尾葉子が手掛ける累計発行部数6100万部突破の大ヒットコミック「花より男子」の新シリーズとなる「花のち晴れ〜花男 Next Season〜」(1〜8巻。集英社「少年ジャンプ+」連載中)。「花より男子」での牧野つくしと道明寺司率いるF4が繰り広げた“ド貧乏女子高生とスーパーセレブのシンデレララブストーリー”は日本中に“花男”旋風を巻き起こした。映画版でシリーズの幕を閉じてから10年の時を経た今、もうひとつの新たな“花男”がこの『花のち晴れ〜花男 Next Season〜』となる。
物語は、F4が卒業してから10年後。落ち目になった英徳学園を舞台に、人に言えない“ヒミツ”を抱えた新世代のキャラクター達が巻き起こす「自分らしく生きる」ことがテーマの痛快青春ラブコメディー!!
火曜ドラマ『花のち晴れ〜花男 Next Season〜』|TBSテレビ
牧野つくし(井上真央)は、貧乏ながらも、超金持ち名門高校・英徳学園に通う高校2年生。両親の強い希望で、幼稚園から大学までエスカレーター式の英徳学園に、高校から入学したが、周囲の人たちとは育った環境があまりにも違いすぎて、全くなじめない。
つくしは、元来は正義感が強く、中学までは常にクラスのリーダー的存在だったが、高校に入ってからは、平穏無事に暮らすために、自分を殺して、地味に過ごしてきた。天下無敵の野獣プリンス・道明寺司(松本潤)を筆頭に、花沢類(小栗旬)、西門総二郎(松田翔太)、美作あきら(阿部力)ら、学園を牛耳る御曹司4人組は、抜群の容姿に加え、全員筋金入りの超金持ちのお坊ちゃま。自らを「花の4人組」=「FLOWER4」、略して「F4」と称している。
花より男子
(宇多田ヒカル 『初恋』(Short Version)TBS系 火曜ドラマ「花のち晴れ~花男 Next Season~」イメージソング - YouTube) |
前作の『花より男子』では「ありえないっつーの」が主人公・牧野つくしの口癖だった。彼女は貧乏な家に生まれたが、親から玉の輿になってこいと金持ちだけが登校している英徳学園に入学させられる。そこの生徒はリムジンやフェラーリで登校したり、身につける時計やカバンが高級なものばかりで、それを見て彼女は内心で「ありえないっつーの」とつぶやく。英徳学園ではF4が気晴らしで生徒に赤札を貼るという「あそび」が行われており、赤札をロッカーに貼られたものは全校生徒からいじめの対象になる。学校の中は独裁者の楽園のようだ。教師に影響力はないし、親も出てこない。彼女はその様子を見て、誰もいないと思われる非常階段へ飛び出し、「ありえないっつーの」と叫ぶ。
今作の『花のち晴れ』のほうでは主人公・江戸川音の口癖は「しょうもない」である。彼女はもともとセレブな家庭に育ったが、親の事業の失敗で貧乏な生活をしている。しかし、馳天馬という幼馴染でセレブの高校生と婚約しており、彼女が英徳学園を卒業すれば彼らは結婚を親から許される。彼女の母親は娘が馳天馬と結婚すれば、またもとのような裕福な生活を送ることができると期待をかけている。そのために、馳家に迷惑をかけずに娘を英徳学園を卒業させることが至上命題だ。江戸川音は貧しさをごまかすためなのか、婚約した馳天馬以外の人物に関心を持たないためなのか、周囲のお金持ちに対して妙に達観しており、それが「しょうもない」という言葉にあらわれている。
「ありえない」と「しょうもない」はどう違っているのか。「ありえない」という言葉は、状況に対して使われる。「ありえない」の主語は、「生徒が皆ブランド物を身に着けている」や「生徒が全員でいじめに参加している」といったような状況である。牧野つくしはそのことに驚いているからその言葉を使うのだ。それは彼女の日常とはかけ離れたものである。逆にそのようなことに驚きを感じない江戸川音にとっては、学校での金持ちの行動のあれこれが取るに足らない「しょうもない」ものなのだ。「ありえない」という言葉のいいところは、それが良い意味で「ありえない」ということも悪い意味で「ありえない」ということも両方あるため、その「ありえなさ」の振れ幅でドラマが動いて見えることだ。道明寺が学校のいじめを仕切っていて悪い意味で「ありえない」こともあれば、牧野つくしに強引に約束をして大雨の日の恵比寿ガーデンプレイスで一日中待っているという良い意味で「ありえない」こともある。キャラクターの心情の変化が「ありえない」の意味の変化(それは状況に対するものなので状況の変化でもある)にあらわれるようになっている。
それに対して「しょうもない」という言葉は人に対して使われる。江戸川音はF4の後継のC5のリーダー・神楽木晴が実はヘタレで占いグッズにすがっているのを見て「あんたって、しょうもない」という。彼女は馳天馬と神楽木晴の間を迷って行ったり来たりして、両方を傷つけている自分対しても「わたしってホントしょうもない」という。「しょうもない」という言葉の意味はくだらないとかそういうものだが、この言葉には「ありえない」のような二面性がない。「しょうもない」は単に何かの価値を下げる言葉でしかない。だから、「しょうもない」という言葉が使われるたびにキャラクターの価値というか好感はどんどん下がらざるを得ない。このドラマにはおそらくそれをフォローする言葉がない。だから、キャラクターは「しょうもない」が示す下降線のなかで、次第に圧迫されてしまう。
「ありえない」と「しょうもない」の違いは登場人物の設定にもあらわれている。『花のち晴れ』のほうでは、あらゆる面で親の存在が重しになっている。江戸川音は馳天馬と結婚するよう親から縛られているし、神楽木晴は親から出来損ないだと過小評価されている。二人とも親の存在のために「こうしなければならない」という鉄の掟のようなものを常に突きつけられている。「ありえない」ことはあってはならない。親の期待に答えなくてはならない、親の言うことを聞かなくてはならない。それはまるで介護のようですらある。
『花より男子』では親の存在はほとんど無いに等しい。F4自体が力を持っているし、彼らを注意するのは彼ら自身だから彼ら自身に存在感がある。彼らは牧野つくし・道明寺司の外に存在し彼らを彼ら自身のやり方で支えることができる。また、彼らより少し高みにいる外の人物、道明寺の姉やフランスにいる静の存在は、ドラマの「ありえない」出来事に対して、それでも大丈夫だと親がするようなものとは別のやり方で背中を押す役目を果たしている。一方のC5のほうはといえば、ほとんど存在感がない。その上彼らには学校とは別の交友関係がほとんどみえない。このドラマで外からやってくるのはすごい人ではなく有名人だけである。だから、C5はほとんど存在してないも同然で(特に男性のキャラクター)、その存在感のなさのために江戸川音や神楽木晴、馳天馬の関係は親どうしの関係と直結せざるをえない。なので「ありえない」を吸収する中間の関係がなく「しょうもない」ことにならざるをえない。どんな「ありえない」ことも親の許可が必要なのだから。
誰か「ありえないっつーの」と言わないのだろうか。
英雄崇拝の習慣、また英雄を一生懸命捜し求めたり、英雄尊敬に喜びを見いだすこと――これらの行為は、今でも存続しているが、英雄そのものは消え去ってしまった。我々の意識のうちに住んでいる有名人は、少数の例外を除けば、少しも英雄ではなくて、人工的な新製品、すなわちわれわれの飽くことのない期待にこたえて生まれたグラフィック革命の産物なのである。有名人がたやすく作り出せるようになって、その数が増せば増すほど、彼らはわれわれの尊敬に値しなくなる。われわれは名声を製造することができる。意のままに(通常はたいへんな費用をかけて)一人の男あるいは女を有名にすることができる。しかし彼を偉大にすることはできない。有名人を作り出すことはできても、英雄は決して作り出すことができない。今日ではほとんど忘れ去られてしまった意味において、英雄はみずからを作り出した人なのである。(p58)
『幻影の時代』ブーアスティン
(人種主義と多文化主義の共犯、ハン・ソロの不在 スター・ウォーズ/最後のジェダイ | kitlog)主人公たちが前の世代のオタクという意味で『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』と似ている。
6/2/2019
更新
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