人種主義と多文化主義の共犯、ハン・ソロの不在 スター・ウォーズ/最後のジェダイ

伝説のジェダイ、ルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)をついに探し出し、ライトセーバーを差し出したレイ(デイジー・リドリー)は、驚くべき真実を知ることになる。なぜ、ハン・ソロとレジスタンスを率いるレイア(キャリー・フィッシャー)の息子カイロ・レン(アダム・ドライバー)が、ダース・ベイダーを受け継ごうとするのか? そして、レイアやストームトルーパーの脱走兵フィン(ジョン・ボイエガ)、パイロットのポー(オスカー・アイザック)、ドロイドのBB-8らレジスタンスたちの新たなるミッションとは?

スター・ウォーズ/最後のジェダイ | 映画-Movie Walker
スター・ウォーズ/最後のジェダイ
(Star Wars: The Last Jedi Trailer (Official) - YouTube

ー ライアンとJ・J、両者と仕事をしてみて違いを感じましたか?

それぞれアプローチが違ったわ。J・Jは明確なヴィジョンを持って撮影に臨むタイプ。でもライアンはもう少し柔軟っていうか、状況を見ながら撮影を進めていくの。イメージ通りにいかないときは、撮影を中断して「どうするかなー」なんて言ったりすることもあって。そういう時、私は「監督! やる気を出してくださいよ!」なんて言ってた(笑)。もちろん彼にやる気がなかったわけじゃなくてね。

スター・ウォーズ、レイ役のデイジーが語る『最後のジェダイ』

『ダンケルク』(本のない世界で ダンケルク | kitlog)も『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』と同様撤退を描いた映画であるが、そのなかで主人公は狭い場所、例えば沈みゆく船の船室などに閉じ込められるなど、窮屈な思いをすることを強いられる。この撤退作戦は、ドイツ軍の進撃から解放されることが主目的であるが、同時に作戦の中の狭い場所や狭い思考からの開放ということも描いていた。そのような開放を促したのは、ダンケルクへ船に乗って向かう民間人であり、彼らを救いに行く空軍パイロットであった。彼らは、ダンケルクに閉じ込められている陸軍の部隊よりも状況をよく把握しており、そのことが作戦の成功を左右した。『ハクソー・リッジ』(目をつむる、開く ハクソー・リッジ | kitlog)でも窮屈な軍隊が描かれるが、主人公がそして周りもそこから開放されることに役立ったのは主人公が戦場でも手放さなかった聖書だった。彼は聖書を常に持っていることで、戦場とは違う空間や時間に思いを馳せ、善悪や正邪の基準点として戻ることができる場所を、その場の状況とは違うところから調達することができた。二つの映画ともに、主人公の状況とその外側が存在していた。

『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』はとても窮屈な映画だった。上の二つの映画のような外側が存在しないからだ。象徴的なのは、ルークが大事にしていたジェダイの本がただの古いものとして燃やされてしまうことだ(最後の方で何故か復活していたような描写があるが…)。それも師匠のヨーダによって。そのために、彼らは帰る場所、あるいは自分が今いる状況を相対化するための参照点を失ってしまった。ハクソー・リッジの主人公が抱えていたような聖書、戦場で日常の参照点、そうでなくても違う視点を与えてくれるものは燃やされてしまった。過去のジェダイとは会話が不可能になってしまった。そのために作戦はことごとく失敗する。まるでそうなることが宿命付けられているかのように失敗する。ハン・ソロなら”Never tell me the odds.”といって切り抜けただろうが、この映画では個人が何かをするということは徹底的に否定され、組織の論理に従うことが正しいのだということが説教のように示される。

Han Solo: Look, Your Worshipfulness, let's get one thing straight. I take orders from just one person: me.
Princess Leia Organa: It's a wonder you're still alive.

Star Wars: Episode IV - A New Hope (1977)

レイアはこの会話での彼女の考えを濃縮拡大して、組織の長として個人的で勝手なことと思われることをするのは絶対に許さない。ハン・ソロのようなことは誰にもさせない。そのことはレジスタンスの皆も内面化している。冒頭の場面、ポー・ダメロンはレジスタンスのエースパイロットとして一人でファーストオーダーの艦隊に対峙し、彼らを翻弄する。ポーの小回りのきく小さい機体に艦隊は為す術もなく、ポーは戦艦の砲台を一つずつ破壊して戦艦を無力化していく。彼はレジスタンスのエースだということが示される。そこで奇妙なことが起きる。ポーが「今だ!」というと、大量の爆弾を積んだのろまな飛行船が現れる。ポーが無力化した戦艦に大量の爆弾を落とし破壊するという作戦らしいのだが、どうみても足手まといにしかなっていない。それなら、ポー一人か少数精鋭で向こうの戦力を削っている方が良かっただろう。わざわざ作戦を組織的なものにする必要はなかったのではないか。しかし、一人で何かをすることは許されないのだ。

レジスタンスはファーストオーダーの戦艦の一つを破壊したあとその場から脱出した。しかし、彼らの動きはファーストオーダーに把握され、追いつかれてしまい、レジスタンスの戦闘機も破壊されてしまった。レジスタンスの戦艦はただ逃げることしかできない。絶望的な状況を知ってフィンはこの戦艦そのものから逃げ出そうとする、あるいはレイにそのことを知らせようとするが、EP8の新キャラであるローズ(ケリー・マリー・トラン)がそれを許さない。ローズはフィンを脱走兵だと決めつけ、フィンがもしかしたら外から助けを得て戻ってきたかもしれないという可能性を潰してしまう。絶体絶命の状況の中でも現状維持を選んでしまう。それでも、フィンはなんとかしようとファーストオーダーの持つレーダーに関する情報をポーとローズに相談し、それを壊せば逃げ切ることができると作戦を持ちかける。そのためにファーストオーダーの戦艦の中でレーダーの部屋の鍵を開ける人物が必要だということで、彼らはその人物に会いに行く。ここでも、フィンだけで行けばいいような気がするのだが、ただの整備兵で戦闘経験があるのかどうかも不明のローズがついてくる。この作戦はレジスタンスのレジスタンス三人が勝手にやったことで成功はしない。代わりに、レイアが意識不明の間、皆で選んだレイアの代理のホルド中将(ローラ・ダーン)の作戦が行われることになる。彼女はなぜか作戦の概要を誰にも知らせない。

ホルドの作戦も失敗し(なぜ成功すると思ったのかよくわからない作戦だったが、彼女がポーと話し合わないことでそのことは一層強調される)レジスタンスの生き残りは塩の惑星の隠れ家に立て籠もることになる。その隠れ家は分厚い鉄の扉で覆われており安全かと思われたが、ファーストオーダーが小型のデス・スターをもって現れたために、そこを出て立ち向かわざるを得なくなる。レジスタンスは仕方なくスピーダーとよばれるオンボロの飛行機に乗り込み、ファーストオーダーの小型デス・スターを破壊しようと試みる。しかし、装備の弱さを補うものは何もなくレジスタンスのパイロットは次々と撃墜される。そこに、ミレニアム・ファルコンに乗ったレイとチューバッカが現れる。彼女たちはヒーローのようにこの場を切り抜け、状況を打開するだろうと思われた。しかし、ここでも冒頭のポーの作戦と似たようなことが行われる。レイの乗るファルコンは地上でガタガタ揺れながら走っているスピーダーすべてよりも大きな戦力であることは間違いないと思う。それならばファルコンはそれなりの役割を果たすべきだ。具体的にはファーストオーダーと先頭を切り戦うのだろうと思われた。しかし、ファルコンの役割は飛行するタイ・ファイターを引きつけることだった……。ファルコンはタイ・ファイターを引きつけるために戦線を離脱してしまった。ここがこの映画で最も納得がいかない部分だ。なぜ、レイはそこで戦わなかったのか。なぜ実力分の働きをしないのか。レイとチューバッカはファルコンに乗って大きな活躍をできただろう。だが、そこでの主役はレジスタンスの組織に譲られる。

これはアファーマティブ・アクションというやつなのだろうか。英雄だけでなく、みんなに機会を与えようということなのだろうか。その結果として、戦場にふさわしくないような人が戦場に招かれ、レジスタンスはどんどん人員を減らしていく(人員削減)。

「大いなる関与engagement」の時代の後には、「大いなる撤退disengagement」の時代が到来した。高速、高加速の時代、不関与の時代、「弾力性」「人員削減」「外部委託」の時代。(p65)

もし「よき社会 good society」という概念が、「液状的な近代」なる状況下で意味を保ち続けるとすれば、それは「だれにでも機会を与えること」、つまりはそのような機会の提供を妨げる障害物があればそれらをできるだけ取り除くことに関心をもつ社会を意味するに違いない。(p120)

コミュニティ』ジグムント・バウマン

ファルコンが去ってオンボロのスピーダーの群れが残されるが、それらは前進するに従って数をどんどん減らしていく。戦況を変化させるべく現れたと思われたミレニアム・ファルコンは遠くに行ってしまった。これ以上人員を減らすわけにはいかないとポーは撤退を皆に呼びかける。命を大事にというレイアの教えを学んで成長したのだということなのかもしれないが、それならファルコン号が来た時点でスピーダーは邪魔になる可能性が高いのだから撤退するべきだったのではないか。作戦系統がめちゃくちゃだ。フィンはポーの命令に従わず、一人スピーダーに乗って小型デス・スターに向かって突進する。フィンはそのままスピーダーごと小型デス・スターに突っ込むつもりなのか、というところで「命大事に(勝手なことをするな)」と言わんばかりにローズが横から体当たりをしてフィンのスピーダーごと横に吹っ飛ばして助けて(?)しまう。フィンであれば、小型デス・スターにぶつかる寸前に運転席から飛び降りてスピーダーだけぶつけるということも可能だったかもしれない。その可能性はローズの行為を美談として回収することで消去される。ここでも一人で何かやろうとすることは予め封じられる。


ハン・ソロ的な行為はことごとく封じられ、たてられた作戦はことごとく失敗する。これは何を意味しているのか。それはこの物語の対立の構図を温存するためだろうと思われる。ハン・ソロがいたらその対立は解決してしまう。なぜ、それを解決してはいけないのか。一つにはそれがアイデンティティの闘争と関わっているからだ。

アイデンティティの闘争に関わる人々は、敗北の連続よりも完全な勝利を恐れる。アイデンティティの構築は、終わりのない、永遠に未完成の過程である。〔やがてアイデンティティが構築されるという〕約束の実現のためにも(あるいは、約束の実現を信用できるものにしておくためにも、という方が適切である)、そうでなければならない。アイデンティティの闘争を内包する生活政治においては、主として自己形成と自己主張をめぐる競争が行われ、選択の自由が重要な武器であるとともに、最も熱望される賞金となる。完全な勝利ともなれば、一度に競争はなくなり、武装は解かれ、賞金は取り消される。(p99)

コミュニティ』ジグムント・バウマン

ハン・ソロは賞金稼ぎだが、アイデンティティといったような「賞金」を認めないだろう。この物語の対立ファーストオーダーとレジスタンスの対立は、オルトライトや人種差別主義者、白人優位主義者、男尊女卑対リベラル、多様性信者、フェミニストといったような対立に類似している。ファーストオーダーは男ばかり白人ばかりで画一的で軍隊のような組織だが、レジスタンスは女性も黒人もアジア系も宇宙人もいて多様性が表現されている。この映画ではそのような多様性は明らかにレジスタンスの作戦の足を引っ張っているし、ストーリーの足も引っ張っている。しかし、アイデンティティの闘争で完全勝利することはアイデンティティが、権力者が許さない。

対立を解決してはいけないもう一つの理由は、多様性信奉の裏の側面である。

リチャード・ローティは、旧来の分割統治の戦略が今日も健在であることについて、「厚みのある記述」を行っている。

分割統治の目的は、アメリカ人の底辺の七五パーセントと世界人口の底辺の九五パーセントを、民族的紛争や宗教的紛争に忙殺させておくことであろう。……もし時々起こる短期間の血なまぐさい戦争も含めて、メディアが作り出す疑似イベントpseudo-eventが、貧しい者の心を自身の絶望からそらすことができれば、超大富豪にとって恐れるものは何もない。

貧しい者同士が戦うことほど、豊かな者にとって喜ぶべきことはない。受難者たちが協定を結んで、自分たちの苦境を生み出している原因と向き合う可能性がずっと遠のくためばかりではない。それは、過去において分割統治の原理がうまくいった場合にはいつでも生じた事態であるが、今日、豊かな者が喜ぶのには、特別な理由がある。その理由は、グローバルな権力ヒエラルキーのもつ新たな特性に固有のものである。すでに指摘したように、この新しいヒエラルキーは撤退の戦略によって維持されているが、この撤退の戦略はと言えば、新しいグローバルな実力者が容易かつ迅速に移動できるかどうかにかかっている。その際グローバルな実力者は、意のままに、気づかいなく地域への関与を断つとともに、瓦礫の撤去というイヤな仕事を、「地域住民」をはじめとする取り残された人々に押しつけて去るのである。エリートが自由に移動できるのは、おおかた、地域住民が団結して行動できないことや、進んでそうしないことのおかげである。(p156,157)

コミュニティ』ジグムント・バウマン

バウマンはこの文章のあとで”グローバルな秩序が「何も恐れるものがない」のは、無数のローカルな無秩序のおかげである。”と書いている。無数のローカルな無秩序は人々がアイデンティティによってお互いに分割線を引いていることから生じている。アイデンティティの闘争によって団結することができなくなった人々は、”公共の議論から、すべての不公平と不公正の最も深い原因である物質的窮乏の問題を排除”されたことを受け入れ、そのような不公平と不公正さえもアイデンティティという「賞金」を得るための糧としてしまう。フィンとローズはスノークのいる戦艦の鍵を開けることができる人物、DJ(Don't Joinの頭文字だそうだ)に出会う中で、とてもリッチな人々がカジノで遊んでおり、その人々はファーストオーダーとレジスタンスの両方に武器を売って設けていることが暴露される。ここで善と悪の物語はマルクス主義的な世界観に回収されてしまう。許せないのは武器を売っている連中だ、となってもいいところだが、フィンとローズにできたのはカジノでちょっと暴れただけである。彼らはそれを「意味があった」とわざわざ確認し合う。そしてまた、アイデンティティの闘争に戻るのだ。単一性対多様性という権力者が求める戦い(疑似イベント)に。不平等、不公平を覆い隠す戦いに(貧しい人々は戦闘の中でいつの間にか亡くなっている、多様性という生物学の言語と相性のいい自然淘汰が行われている)。

不平等を生まれつきの人種の劣等性によって説明しようとする、かつての図々しくも傲慢な習慣は、まったく不平等な人々の状態をさして、いかなるコミュニティも自らが選んだ生活様式について不可譲の権利をもつ、と表現する一見慈悲深い立場に取って代わられる。この新しい文化主義は、かつての人種主義と同じく、道徳的な良心のとがめを和らげ、不平等の現実との調和を生み出すことを目論んでいる。その不平等を、人間の介在する余地のない状態とするか(人種主義の場合)、それとも、苦境ではあるが神聖な文化的価値が毀損されるといけないから人間が干渉すべきではない状態とするか(新しい文化主義の場合)の違いはあるにしても。

「文化主義的」な世界観が語らずにすませているのは何か。それは、不平等が、この世界観自体の大きな根拠であるということ、そしてまた、不平等が生み出す分裂を、選択の自由の――最大の障害としてではなく――不可分の一部として表現することは、その自作自演の犯行における主要な要素の一つであるということである。(p163)

コミュニティ』ジグムント・バウマン

バウマンによれば、人種主義(ファーストオーダー)を選ぼうが、多文化主義(レジスタンス)を選ぼうがどちらも同じことなのだ。どちらも不平等や不公平を正当化するためのイデオロギーである。つまりこれは不毛な対立で、誰か一人がそれに気づけば終わってしまうような類の対立なのだ。その戦いが虚しいものであることは、カイロ・レンが一生懸命戦ったルークが幻影であったことによってもあらわれている。しかし物語上ハン・ソロのように勝手なことをして対立を解くことは許されない。この世界に表現の自由はないのではないか。

近代知識人の現代的化身たる知識層が、「多文化主義」の呪文を唱えるときには、こう言っているのである。「申し訳ない。いまの窮地からあなたがたを救い出すことはできません」と。(p186)

コミュニティ』ジグムント・バウマン


ハン・ソロはいなくなり、残るのはジェダイであるが、ジェダイはその血から開放されて誰にでもなれる可能性のあるものとされてしまった。ジェダイの規制緩和である。

「規制緩和」は、権力者が「規制」されること――選択の自由を制限されたり、移動の自由を制約されたりすること――を望まないという理由で、人気がある。しかしまた(おそらく第一義的には)かれらが他者を規制する関心をもうなくしていることがその人気の理由である。(p65)

コミュニティ』ジグムント・バウマン

スターウォーズはジェダイに関心をなくしてしまったかのように見える。この件で一番可哀想なのは主人公のレイだ。彼女はこの作品で月並みな役割しか与えられない上に、ジェダイが誰にでもなれる可能性があるとなってしまった結果、彼女の魅力は半減するか激減するかしてしまうだろう。誰でもジェダイになれるなら彼女でなくても良いからだ。誰でもいいのになぜ彼女がジェダイなのか、その問は役を演じているデイジー・リドリーにも襲いかかってこないだろうか。彼女はなぜオーディションで選ばれたのか?しかし、彼女は演技の実力を認められてスターウォーズの主役に選ばれたのだ。今回の物語はそのことを腐らせてしまっているように思う。そして英雄としてのジェダイが薄められてルークも死んでしまった。だれにでもなれるのなら、ジェダイは英雄ではなく有名人ではないのか。

英雄崇拝の習慣、また英雄を一生懸命捜し求めたり、英雄尊敬に喜びを見いだすこと――これらの行為は、今でも存続しているが、英雄そのものは消え去ってしまった。我々の意識のうちに住んでいる有名人は、少数の例外を除けば、少しも英雄ではなくて、人工的な新製品、すなわちわれわれの飽くことのない期待にこたえて生まれたグラフィック革命の産物なのである。有名人がたやすく作り出せるようになって、その数が増せば増すほど、彼らはわれわれの尊敬に値しなくなる。われわれは名声を製造することができる。意のままに(通常はたいへんな費用をかけて)一人の男あるいは女を有名にすることができる。しかし彼を偉大にすることはできない。有名人を作り出すことはできても、英雄は決して作り出すことができない。今日ではほとんど忘れ去られてしまった意味において、英雄はみずからを作り出した人なのである。(p58)

『幻影の時代』ブーアスティン

ジェダイが有名人(セレブ)になってしまった以上、スターウォーズにルークの居場所はない。セレブという”あたらしい「英雄」もはやわれわれに目的を与えてくれる存在ではなくて、われわれ自身の無目的性をそのなかにそそぎ込むための容れ物である。彼らは、拡大鏡を通して見たわれわれ自身以外のなにものでもない。それゆえ、芸能有名人の伝説は、われわれの視野を広げてはくれない。(p70,71)”それが誰でもジェダイになれるということだ。スターウォーズ神話は終わってしまった。ルークが死んでしまったからスターウォーズ神話が終わってしまったのではない。スターウォーズ神話が終わってしまったためにルークはその虚しさ故に死んでしまったのだ。下の部族民のように。

昔から大多数の民衆は、彼ら自身の象徴を常に現実のものとして受け入れてきました。額面通りに解釈されてきた象徴形態が、かつてはいつも彼らの文明を支え、彼らの道徳的秩序を、理念の一貫性を、生活力を、想像力を支えていたのです。いや、実は現在でもそうなのです。そういう支えを失ったあとには、不確実性のゆえに不安が生じ、不安に伴って動揺が生じます。ニーチェとイプセンがよく知っていたように、人間生活には生命を支える幻想がどうしても必要だからです。幻想がすべて払拭されたならば、すがりつく基盤がなくなる。道徳律は失われ、堅固な物はすっかり消えてしまう。例えば、白人の文明によって乱された原始的な部族がどうなったかを、私たちはよく知っています。「おまえたちの伝統的なタブーは無価値だ」と教え込まれた部族民は、たちまちバックボーンを失い、精神的に解体し、悪徳や病気におぼれてしまいました。(p24)

『生きるよすがとしての神話』ジョーゼフ・キャンベル

ジェダイはいなくなった。神話の崩壊は不確実性と不安をもたらした。

権力者は、何も恐れるものがなくなって、もはや費用と手間のかかるパノプティコン式の「服従の工場」の必要性もほとんど感じることはない。不確実性と不安定性のなかでは、規律(というよりも、むしろ「他の選択肢がない」状況に甘んじること)は自動推進式、自己再生式となり、その確保が恒常的に図られていることを職長や伍長を使って監視せずともよい。(p66)

コミュニティ』ジグムント・バウマン

『ワンダーウーマン』(神話から戦争、再び神話へ ワンダーウーマン | kitlog)では、神話が戦争に置き換えられワンダーウーマンは戦争の中で自分にはできることがないと当惑させられたものの、物語は最後には再び神話へと戻ったが、『スターウォーズEP9』はどうなるだろうか。

下手をすれば、今日の米国の――前世紀の混乱期に自由な民主主義の存続を確実にした、あの米国の――目立った特徴になってしまっている「金権ポピュリズム」が拡大する恐れがある。

そうなれば未来は、大半の人々がばらばらに分裂した御しやすい状況を何とか維持する、安定的な金権政治のものになってしまうかもしれない。

民主主義国を脅かす不平等 下手をすれば金権ポピュリズムか独裁へ――マーティン・ウルフ | JBpress(日本ビジネスプレス)
9/10/2020
更新

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