映画が現実で動き始める ジュラシック・ワールド/炎の王国
ハイブリッド恐竜“インドミナス・レックス”とT-REXの死闘により崩壊したテーマパーク“ジュラシック・ワールド”が存在するイスラ・ヌブラル島。この島で、火山大噴火の予兆が観測されていた。危機的状況が迫る中、人々は恐竜たちの生死を自然に委ねるか、自らの命を懸けて救い出すか、究極の選択を迫られる。救出を決意した恐竜行動学のエキスパート、オーウェン(クリス・プラット)は、テーマパークの運営責任者だったクレア(ブライス・ダラス・ハワード)と共にすぐさま行動を開始。ところが、島に向かったその矢先、火山が大噴火を起こす。こうして、生き残りを賭けた究極のアドベンチャーが幕を開ける……。
ジュラシック・ワールド/炎の王国 | 映画-Movie Walker
(映画『ジュラシック・ワールド/炎の王国』公式サイト )
(『ジュラシック・ワールド/炎の王国』7/13公開!<最終予告> - YouTube) |
この映画で最も重要な点は、メイジー・ロックウッド(イザベラ・サーモン)の存在だ。彼女はこの映画の中で異質なものどうしを媒介する役割を果たしている。それは、恐竜と映画である。彼女の内面においてそれら二つが結び付けられ、それら両方の意味も変わってしまった。どういうことか。
メイジーはロックウッド家の孫娘ということになっているが、実際は交通事故死したベンジャミン・ロックウッドの娘のクローンであるということが明らかになる。ロックウッド家の家政婦は孫娘は母親によく似ていると説明していたが、彼女たちは「よく似ている」を超えている。まんま同じなのだ。メイジーはベンジャミンがいつも大事に抱えている分厚いノートに挟まっている写真を盗み見て青ざめた表情をする。そこにある古ぼけた写真に写っている人物と自分の顔が全く同じなのだ。クローンなのだから当たり前だろうと思われるかもしれない。しかし、クローンのメイジーとその写真が鏡のように対照に置かれることによって、メイジーはクローンなのではなく写真が動いているのではないかと思わされる(メイジーという名はイメージと似ているが)。ベンジャミンが娘が存在したことの記念に思い出の喚起のために大事にとってある写真、それそのものが動いているのだ。写真が、思い出が動いている。動く写真、思い出とは映画のことだろう。メイジーは一つには映画と結び付けられている。
映画史家ジョルジュ・ポトニエは次のように主張することさえできた。「写真の発明ではなく、ステレオスコープ〔二枚の写真を同時に見ることで立体感を生じさせる装置〕の発明(一八五一年に動画写真が初めて試みられる少し前に商品化された)が、探求者たちの目を開かせたのである。人物の映像が空間内でじっと動かない様子を見て、それが生命の似姿、自然の忠実な複製であるためにはそこに動きが欠けていることに写真家たちは気づいたのだ」。いずれにせよ、動画に音と立体感を付け加えようと考えない発明家はほとんどいなかった。(p29)
『映画とは何か(上) (岩波文庫)』アンドレ・バザン
ジュラシック・ワールドでは恐竜もまたクローンである。メイジーはこっそり部屋を抜け出して、地下にあるイーライ・ミルズ(レイフ・スポール)の秘密の研究所に向かった。彼女はロックウッド財団を運営するミルズを怪しんでいた。彼女はそこでオーウェンがブルーたちラプトルをしつけたり、行動を研究したりした成果を集めた動画を発見する。動画の中でオーウェンが弱ったふりをすると他のラプトルは噛み付いてくるが、ブルーはオーウェンに共感して彼のことを心配し頭を寄せてきた。オーウェンは恐竜にも好奇心があり、他のものに共感し心配する能力があると報告している。メイジーはその動画を見ながら、首を横に静かに振っている。それは動画の中でブルーが好奇心を示している時にする仕草で、彼女はそれを無意識に真似している。彼女の存在は恐竜にも結び付けられている。
メイジーは映画にも恐竜にも結び付けられ、彼女を媒介として映画と恐竜が結び付けられた。ミルズはクレアやオーウェンに恐竜の保護のために新しい島を用意して、そこに人間の入れない恐竜だけの自然の島をつくると約束していた。恐竜たちに思い入れのあるクレアやオーウェンはそれに賛同し、火山が噴火して壊滅しそうになっているジュラシック・ワールドから恐竜を救出することにした。しかしそれは嘘だった。ミルズの目的は、資産運用のために恐竜たちを金持ちに売ることだった。彼にとって、恐竜は単なる売り物だ。しかし、恐竜自体がそれに「ノー」といい、そのオークション会場を飛び出し暴れだすのだ。恐竜は単なる売り物として留まってはいない。そして恐竜は映画である。主人公たちは物語のラストにある選択を迫られる。研究所内のシアン化水素ガスが漏れ、恐竜たちのいる檻を汚染しようとしている。クレアは恐竜たちを死なせたくないと思い、檻のロックを解除する。そして研究所の扉を開放して外に逃がそうとして、オーウェンに「そのボタンを押すともう戻れなくなる」と制止される。クレアはボタンを押すのを思いとどまって、悲しさと悔しさの入り混じったような顔をしてガスに覆われようとしている恐竜たちをじっと見ている。ジュラシックワールドにいた多くの恐竜が火山の溶岩に沈んでしまったことを、この研究所でも再現しなければならないのか。そうしているとふと扉が開き始める。メイジーがボタンを押したのだ。ブルーが人間に共感するように、彼女は恐竜に共感していた。映画への共感が新しい扉を開くのだ。
諸探求の収斂という現象は、技術や発明の歴史において他にも例を見出せるだろうが、ただし科学の進歩や産業上(あるいは軍事上)の必要性から生じる探求と、明らかにそれらに先立つ探求は区別して考えなければならない。かくして、いにしえのイカロスの神話は、観念的な天空から降りてくるためにはエンジンの発明を待たなければならなかった。だがその神話は、人類が飛ぶ鳥を眺めたそのときから、あらゆる人間のうちにすでに存在していたのである。(p33)
『映画とは何か(上) (岩波文庫)』アンドレ・バザン
恐竜は現実世界に飛び出してしまった。それは映画もそうであろう。映画は単に見られるだけではない。映画は写真や思い出と結び付けられたが、それは記憶を喚起するものだ。そして記憶を喚起するということは恐竜を現実世界に呼び出すこと(夢の物質化)と同じことなのだ。恐竜によって広げられた平面(ジュラシック・ワールド)によって、人々は新しい行動を開始するのかもしれない。それは「まず行動せよ」と訴える人々が、暗に「習慣に従え」という時(ベルクソンによれば記憶は習慣と対立している。)の行動とは別のものであろう。
脳の状態は想起に、それが想起に付与する物質性によって、現在への取掛かりを与える。(p342)
行動の平面――この平面でわれわれの身体はその過去を運動性の習慣に凝縮した――と、過ぎ去った人生の場景のすべての細部をわれわれの精神がそこで保存するような純粋記憶の平面とのあいだに、われわれは連合論とは逆に、相異なる無数の意識平面を、われわれの生まの経験全体の無数の反復――各々が成全的だが多様な――を看取したと信じた。想起をより人格的な細部によって補完することは、この想起に数々の想起を機械的に併置することではまったくなく、より大きく広がった意識平面に移動し、夢の方向へと行動から遠ざかることである。(p344)
『物質と記憶』ベルクソン
9/10/2020
更新
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