主観と客観の戦い ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス

“スター・ロード”ことピーター・クイル(クリス・プラット)をリーダーに、凶暴なアライグマのロケット、マッチョな巨漢ドラックス(デイヴ・バウティスタ)、ツンデレ暗殺者ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)など、偶然出会って勢いで結成された宇宙のはみ出し者チーム“ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー”。小遣い稼ぎに仕事を引き受けた彼らは、なぜか“黄金の惑星”の艦隊から総攻撃を受け、宇宙船ミラノ号は壊滅寸前に。間一髪、ガーディアンズを救ったのは、“ピーターの父親”を名乗る謎の男エゴ(カート・ラッセル)と、触れただけで感情を読み取れるマンティス(ポム・クレメンティエフ)だった。仲間からの忠告にも関わらず、次第にエゴに魅了されていくピーター。その姿を目にしたチームの間には、亀裂が生じてゆく。そこへ、ピーターの育ての親ヨンドゥ(マイケル・ルーカー)率いる宇宙海賊の襲撃が。さらに、銀河全体を脅かす恐るべき陰謀が交錯してゆく。果たして、ピーターの出生に隠された衝撃の真実とは?ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーは、失われた絆を取り戻し、銀河を救うことが出来るのか? その運命の鍵を握るのは、チーム一小さくてキュートな、ガーディアンズの最終兵“木”グルートだった……。
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス | 映画-Movie Walker

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス
(Guardians of the Galaxy Vol. 2 Teaser Trailer - YouTube

クイルの父親はセレスティアルと呼ばれる神に近い存在だった。父親の名はエゴで月ほどの大きさの惑星の創造主である。エゴは惑星のなかで一人孤独で暮らしていた時に他の生命に出会いたいと思ったという。そして彼は宇宙を旅する。最初にある生命に出会って彼はがっかりしたという。そして宇宙を作り変えることを思いつく。それが今回のガーディアンズの敵だ。彼のいうがっかりとはおそらく下のような思考から来ている。

合理論的な心の人は、純粋ではあるがしかし非現実的な体系を作ってこれに満足するのであるが、この満足感には確かになにか少し不気味なものがある。ライプニツは合理論的な心の人であったが、多くの合理論者とは比較にならぬほど事実にたいする絶大な興味をもっていた。けれどももし諸君が皮相な見解の権化ともいうべきものを求められるならば、あの魅力豊かに書かれている彼の『弁神論』を読まれさえすればよい。この書において彼は神の人間にたいするやり方の正しいことを弁明し、われわれの住むこの世界はありとあらゆる世界のなかでもっともよき世界であることを証明しようと試みているのである。私のいおうとするところの見本を次に引用しよう。

ライプニツの楽観主義的哲学の障害となるものはほかにもなお数々あるのであるが、その一つとして彼は永久に神に呪われた者の数に思い及んでいる。われわれ人類にあっては、救われる者よりも地獄に落とされる者の数のほうが無限に大きいという神学者たちの見解を前提として仮定し、それから次のように論を進めている。それにしても、と彼はいう、

「もしわれわれが神の国のほんとうの広大さにひとたび思いいたるならば、この世の悪は善に比べてほとんど無に等しいと思われるであろう。コエリウス・セクンドス・クリオは『天国の広大さについて』という小著をものしたが、それが少し前に再販になった。しかし彼は天国の広さを測り誤っている。昔の人々が神の御業について有する観念は小規模なものであった。……彼らにはわれわれの地球にのみ人間が住んでいるものと考えられ、地球の反対側に人が住んでいると考えることさえ彼らは躊躇したのである。この世界以外の部分は彼らにとっては、若干の輝ける天体と二、三の球状体からなるものであった。しかしこんにちにおいては宇宙にたいし限界を認めるにしても拒むにしても、我々は宇宙内に無数の天体の存することを認めざるをえない。しかもこれらの天体はわれわれの地球と同じ大きさであるか或いはそれよりも大きいものであって、この地球と同等の権利をもって理性的な居住者を有すべきものである。(中略)この地球はもろもろの恒星間の距離に比べると単なる一点に過ぎないものであるから、物理学的点よりも比較にならぬほど小さいものになるであろう。このようにわれわれの知っている宇宙のこの部分は、われわれに知られてはいないけれどもしかもわれわれがその存在を許容せざるをえない部分と比較すれば、ほとんど虚無に等しいものとなってしまう。そしてわれわれの知っているすべての悪は、このほとんど無に等しいもののなかに存在しているのである。したがってもろもろの悪は、宇宙の包含するもろもろの善に比べるとほとんどなきに等しいといえる。」(p23-25)

『プラグマティズム』ウィリアム・ジェイムズ

ほとんど無限とも思える時間を過ごしたエゴにとっては、あらゆることがちっぽけに見えてしまうのだろう。地球も宇宙全体からしてみれば点のようなもの、点にすらならないかもしれない。彼は生命を不完全なものと見てがっかりし、作り変え支配しようとする。彼にたいする批評は”合理論的な心の人は、純粋ではあるがしかし非現実的な体系を作ってこれに満足するのであるが、この満足感には確かになにか少し不気味なものがある。”で十分だろう。彼は合理的な体系を作ろうとしているのだ。ここで注意したいのは「広大さ」という空間の比喩についてである。

空間の観念性ということをもっとも明快かつ単純に証拠だてているのは、われわれは空間を、ほかのすべてのもののように、取りはらって考えることができないという事実である。それをただ空虚にするだけならば、われわれにもできる。およそありとあらゆるすべてを、空間の中から取りのぞいて考え、消滅させてしまうことはできるし、また、恒星の間の空間は絶対的に空虚であるという具合に想像することもできる。ただその空間そのものだけは、どうしても追いはらうことができない。どうしてみても、どこに身をおいてみようとも、空間はそこにあって、表象の第一条件になっているからである。このことがまちがいなく証拠だてているように、空間はわれわれの知性そのものに属し、それの本質を構成する一部分であり、しかも、知性の織物の第一のよこ糸を出す部分であって、多彩な客観世界はこの織物の上に盛られるのである。というのは何かある客観を表象しようとすればすぐに空間が現れてきて、そのあとでは、ちょうど私が鼻にかけている眼鏡が私のからだのあらゆる運動にともない、あるいは影が物体につきまとうように、直観する知性のあらゆる運動や転回や試みにしつこくつきまとうからである。(p76,77)

『知性について』ショーペンハウエル

「広大さ」という空間の比喩をつかったときから、そこには客観性や合理性が存在しそれが体系を作り不気味なものを生じさせる。すべての客観的なものは空間的なもので、すべての主観的なものは時間的なものである。
She hears him say " Brandy, you're a fine girl" (you're a fine girl)
"What a good wife you would be" (such a fine girl)
"But my life, my lover, my lady is the sea"

『Brandy (You're a Fine Girl) 』 - Looking Glass
エゴは1980年に地球で地球人の女と恋をする。その時に上の曲が流れ、その後何度もエゴは口ずさむのだが、「私の人生、恋人は海だ」といい、ここでもやはり海という空間の比喩が使われている。エゴは自分が宇宙を征服する力を得るための協力者をつくるために、地球人のメレディスに近づきクイルを産ませる。エゴはそれがたった一回しか起こり得ないちっぽけなものとして、クイルの母親に腫瘍を植えつけ殺し、クイルの思い出のウォークマンを破壊する。エゴはクイルの時間を否定する。

悲劇を悲劇たらしめたのは、このようにくり返すことのできない一回性です。構造は反復されます。悲劇の悲劇性は、それが反復しうる構造ではないものに直面していることにあるのです。それを「歴史」と呼んでいいいかもしれません。ただし、それはいわゆる歴史ではなく、構造や理念に回収されないような、いわばその外部としての出来事です。(p9)

『柄谷行人講演集成 1985-1988 言葉と悲劇』柄谷行人

エゴの「空間」に対してクイルは時間で対抗する。それを象徴するのがクイルがヨンドゥの死に際して言った、「広大な宇宙のなかで一番大切なものが一番近くにいた」という最後の言葉だろう。

映画を通してギャグが少ししつこいと思うシーンが幾つかあったが、それにも理由をつけられるかもしれない。”歴史は繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として”という言葉があるが、ギャグはおそらく反復されたもの(二度目のもの)であり観察可能(それが反復されたと誰かが観察しなければ反復されたとはいえない)なものであり空間化可能(反復されたものは点で結ぶことができる)なものなのだ。そうすると、ギャグのポジションが今回の敵であるエゴのそれと重なっていることになってしまう。人は皆死ぬが、だれもヨンドゥの死に対して「よくあることだから」とはいえない。それを喜劇にするつもりがないのなら。
9/10/2020
更新

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