虚構は如何に守られるか ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち
フロリダで生まれ育ったジェイク(エイサ・バターフィールド)は、周囲に馴染めない孤独な少年。そんな彼の唯一の理解者である祖父が、謎めいた死を遂げる。祖父の遺言に従って小さな島を訪れたジェイクは、森の奥で古びた屋敷を発見。そこには、美しくも厳格なミス・ペレグリン(エヴァ・グリーン)と奇妙な子どもたちが暮らしていた。やがて彼らと心を通わせ、その不思議な能力を知るジェイク。しかもなぜか、彼らは毎日、1940年の9月3日を繰り返していたのだ。ジェイクがその事実と理由を知った頃、目に見えない脅威が屋敷に迫っていた。だが、ジェイクには解明しなければならない疑問があった。誰が現実に存在し、誰を信じられるのか。そして、自分がこの世界に送り込まれた役割とは何なのか。真実が明らかになったとき、永遠に続く1日と奇妙な子どもたちに訪れる大きな変化。そして、自らの身体に宿る力に気付いたジェイクは、屋敷に迫る脅威に立ち向かってゆく……。
ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち | 映画-Movie Walker
Fiction was useful as a reminder of the truths under the surface of what we argue about every day and was a way of seeing and hearing the voices, the multitudes of this country.(中略)
And perspective is exactly what is wanted. At a time when events move so quickly and so much information is transmitted, the ability to slow down and get perspective, along with the ability to get in somebody else’s shoes — those two things have been invaluable to me. Whether they’ve made me a better president, I can’t say. But what I can say is that they have allowed me to sort of maintain my balance during the course of eight years, because this is a place that comes at you hard and fast and doesn’t let up.(中略)
And that’s why seeing my daughters now picking up books that I read 30 years ago or 40 years ago is gratifying, because I want them to have perspective — not for purposes of complacency, but rather to give them confidence that people with a sense of determination and courage and pluck can reshape things. It’s empowering for them.
Transcript: President Obama on What Books Mean to Him - The New York Times
ジェイクは奇妙なこどもたちと出会う。彼らはループと呼ばれる同じ日、1943年の9月3日を繰り返す。それはペレグリンの時間を操作する能力によって成立している。ループをつくる能力と鳥になる能力を持っているもの(なぜこの組み合わせなのだろうか)はインブリンと呼ばれる。なぜ彼女がループをつくるのかというのは敵から奇妙なこどもたちを守るためである。敵はどういった存在か?彼らもループによって同じ時間を永遠に過ごしていたが、それに飽きてしまい現実の世界で永遠に生きることを求めるようになった。彼らは時間を操作することのできる能力者を材料に実験を行い永遠に生きようとしたが、失敗してしまった。その結果、彼らはホローガストと呼ばれる眼が無く手足の長い奇妙な怪物に変化してしまった。ある日、彼らは奇妙なこどもたちの眼を食べればホローガストから人間の姿に戻ることができると知り、奇妙なこどもたちのいるループの入り口を探し捕らえては眼を食べるということを繰り返していた。彼ら敵のリーダーがバロン(サミュエル・L・ジャクソン)でペレグリンは彼らからこどもたちを守っている。
奇妙なこどもたちにはそれぞれ変な能力が備わっている。それぞれの能力は役に立ちそうなものもあり立たなそうなのもありという感じである(映画『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』オフィシャルサイト)。彼らはループのなかで同じように時を過ごしている。特にペレグリンは同じ日の同じ時間に必ずホローガストがやってくるのでそれを同じ時間に矢で射るということを続けている。それだけは時計を正確に合わせて正確に行わなければいけない。彼らは虚構的な存在でありながら同時に虚構そのものをあらわしているように思われる。ループとは物語のはじめと終わりのことだろう。彼らは同じ物語を演じ続けている。そしてこどもたちが目を奪われることが彼らが虚構そのもの(虚構の概念)であることを証しているように思われる。眼とは何か。
哲学は人間のいとなみのうちもっとも崇高なものであると同時にもっとも瑣末なものである。それはごくささやかな片隅で働くが、またもっとも広大な眺望を展開する。よくいわれるとおり哲学は「一片のパンをも焼きはしない」、しかし哲学はわれわれの心を鼓舞することができる。疑ったり反駁したり、詭弁を弄したり弁証したりするその仕振りは一般人には往々厭うべきものではあるが、しかし哲学が世界のパースペクティブの上に投ずる遥かかなたをを照し出す光線なくしては、われわれは誰ひとり生きてゆくことができないのである。(p11)
『プラグマティズム』ウィリアム・ジェイムズ
眼は視点や視線のはじめにある。それは何よりも遠くを見るものだ。人々は遠くを見るが簡単にはそこにたどり着くことはできない。例えば、私の家からは立山連峰を望むことができるが、そこに簡単に辿り着くことはできない。そこに行くことはできないが、そこを想像することはできる。もしもその遠くの場所が死者の国であればそれは宗教になるかもしれないし、遠くの場所が虚構の世界であればそれは映画になるだろう。そしてその初めには視点、眼がある。そしてわたしたちは映画を観ている。上のジェイムズの引用の哲学を物語や映画に替えてもいいだろう。ホローガストはそのような眼を摘みにくる。奇妙なこどもたちが虚構そのものだとしたら、ホローガストは何だろうか。ホローガストは眼をたくさん食べて生き永らえようとする。
哲学者はものごとの原因にまで遡り、様々な技芸の規則を打ち立て、それらの中に深く秘められたことを解き明かし、それを広く教えることをとおして多くの具眼の士を育てあげる。しかし、こうした技芸の中でも想像力を必要とする部門に注目しながら考えてみると、哲学者は、自分たちが学問sciencesの進歩に貢献したのと同じように技芸artsの進歩にも寄与してきた、などと自惚れることはできなくなる。むしろ反対に、哲学者は技芸の進歩の邪魔をしてきたようにさえ思われるのである。すなわち、こうした様々な規則の知識に関わる心配りや、そういう規則について無知だと思われてしまうのではないかという不安が、想像力の火を弱々しいものにしてしまうのである。というのも、この[想像力という]働きは、全てを関連させ計算し尽くそうとする反省によって御されることを苦手とするのであって、それよりもむしろ、生き生きとした感情や印象の赴くままに突き進むことを好むものだからである。(p193)
『人間認識起源論(下)』コンディヤック
たくさん食べるということは数が問題になっている。上には「規則」とあるが、ただひとつの事柄から「規則」をつくることはできない。例えば、誰がやっても鉄球は投げると下に落ちることから、その沢山の事実を集めて自然の規則を作ることができる。しかし、それと同じように虚構を扱うと規則の当て嵌めのなかで虚構における想像力の火が弱々しいものになってしまうと書いている。ホローガストは眼を食べつくすことで最後には眼は残らないか一つになってしまうだろう。それは規則にとっては正しいが虚構にとっては貧困ではないだろうか。”この[想像力という]働きは、全てを関連させ計算し尽くそうとする反省によって御されることを苦手とするのであって、それよりもむしろ、生き生きとした感情や印象の赴くままに突き進むことを好むものだからである。”これは奇妙なこどもたちがループを抜け出て冒険することに対応していないだろうか。エマ(エラ・パーネル)がループを抜け出したあと、肺から大量の空気を吐き出して沈没船を浮上させたときに何故か鳥肌が立ったのだが、そのことは想像力についての文と対応しているような気がする。
それから主人公のジェイクである。彼は自分が能力者ではないというが、能力者でなければループに入ることはできない。映画の中盤に明らかになるが、彼だけがホローガストを見ることができるのだ。他の能力者たち、インブリンも奇妙なこどもたちも皆ホローガストを見ることができないし、存在に気づくことすらできない。彼だけが奇妙なこどもたちを襲うホローガストを見ることができ、そのため彼だけがこどもたちを守ることができる。ではこの主人公は一体何なのだろう。上記の推論に従えば、こどもたちを守るということは虚構を守るということである。そしてホローガストから守るということは規則、単一性から守るということである。象徴的なのは最後の場面で、唐突にバロンがジェイクの姿に変身し二人のジェイクがあらわれ、どちらが本物のジェイクなのかわからなくなる。唐突にと書いたのはバロンがそうする意味がよくわからなかったというか、バロンならジェイクも奇妙なこどもたちも簡単に制することができたはずだからだ。だから別の意図があるだろうと考える。つまり、ジェイクとバロンは紙一重で同じような存在なのだ。上の例にならってバロンが規則を打ち立てる哲学者だとすれば、ジェイクも哲学者なのだ。しかし、それはバロンのとは別の意味の哲学者であり、それはウィリアム・ジェイムズが言っているような哲学者(遠くを見る哲学者?ヴィジョン)ではないだろうか。それはおそらく虚構に対する主知主義と主意主義の違いであり、それらの違いが愛であるのは物語の結末が語っている。
哲学者たち自身も、人類全体を唯一不可分な愛のなかに包む神秘主義者が存在していなかったならば、これほどまで確信を持って、万人が高度な本質を等しく分有しているという、通常の経験にほとんど適合しない原理を措定しただろうか。だからこの場合、友愛の観念がまず構築されて、その後、それが理想となったのではないのだ。(p321)
『道徳と宗教の二つの源泉』ベルクソン
9/10/2020
更新
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