音楽と映画 『君の名は。』のメモ
いずれにせよ、動画に音と立体感を付け加えようと考えない発明家はほとんどいなかった。エジソンの場合であれば、彼の個人用キネトスコープ〔エジソンが一八九四年に発明した動画鑑賞装置〕はイヤホン付き蓄音機と組み合わされるはずだったし、ドゥメニは「語る肖像写真」〔一八九二年、ドゥメニは二十四枚の分解写真をもとに発話時の表情を再現した〕を考案した。ナダールさえもが、シュヴルール〔一七八六―一八八九年。フランスの化学者〕を相手に最初のフォト・インタビュー記事を実現する少し前にこう書いていた。「私の夢は、雄弁家の話すことばを蓄音機で録音するのと同時に写真によってその物腰や表情の変化を記録することである」(一八八七年二月)。そこで色彩のことに触れられていないのは、三原色法が最初に実現されるのがもう少しあとになってからだからである。しかし、レノーはすでにずいぶん前から小さな人物像に彩色を施していたし、メリエスの初期の映画にはステンシルを用いて色が塗られていた。今日においてもなお実現からはほど遠い、生命の完全な錯覚を与える綜合的映画について、かつての発明家たちが多かれ少なかれ熱に浮かされた調子で語っている文章は山ほどある。(p29,30)
『映画とは何か(上)』アンドレ・バザン
『映画とは何か』でアンドレ・バザンは絵画と写真の対比から論を始めている。それらはリアリズムの文脈で共に現実の錯覚を作り出すことを目指しているが、絵画は写真の登場によってそのリアリズムを放棄し象徴主義の方向へ進む。美術史にそれほど詳しくないのだが、印象派やシュールレアリスム、それ以降の作家たちがそれにあたるだろうと思う。なんにせよ、絵を描くことは現実をそのまま写し取ることではなくなった。写真は現実の時間を防腐処理を施したミイラのように切り取り、絵画は主観的な精神的現実が込められたオブジェとなった。それらが動くのが映画であるのだが、いずれにせよ問題であるのは、はじめに画面ありきであるところだろう。上にもあるように、初め映画は動く写真でそれに音楽や声をつけることは技術的に発明を要するものだった。このような音と映像の技術的な遅れは歴史的、偶然的なものだが、その偶然が映像を主人に音楽をその従者にという構図やイメージをもたらしていないだろうか。映画の先駆者たちが”想像の中で、彼らは来るべき映画の観念を、現実の完全かつ全体的な表象と結びつけ、音、色彩、立体感を備えた外部世界の完全な錯覚の再現を目論んだ(p29)”にも関わらず。
ここで引き合いに出したいのはニーチェの『悲劇の誕生』である。この本は正確なタイトルが『音楽の精神からの悲劇の誕生』であり、ギリシア悲劇が舞踏や言葉ではなく「コーラス」から発生したものであるということを論証しようというのが主目的だ。ニーチェによれば悲劇においては主人公の葛藤や苦悩を通して世界をつまり生を現象させることだという。それは、主人公の生だけでなく悲劇のあとにも様々な生が続いていくことで生の尊厳や芸術による人々の救済があらわされるのだが、その生をかきたてるのが音楽なのだという。音楽が生をかきたてるというのは、音楽が意志を模倣しているということだ。
もともと気になっていたのは、『君の名は。』の音楽(ここでは概ねボーカル曲のことをいう)がシーンとずれていることだ。それは製作者も意識していることのようで。
桑原「『前前前世』は、ムービーヴァージョンをレコーディングした後に、新海誠監督から『(追加で)歌詞がほしい』とオーダーがありまして」
野田「レコーディングした後だったから、“あろうことか! そんなことがあっていいのかい!”……ってなったんだよね(笑)。
で、そこから作ったヴァージョンが別にあるんですよ。しかもその歌詞をやたら監督は気に入ってくれてね。映画ではセリフまでカットしてそこの歌詞を聞かせて。だから映画を観た人はたぶん余計に耳に残ってるんだよね」
武田「そうだね。後ろで流れているというかは、前に居るもんね」
野田「その歌詞が未来をちょっと予兆しつつこの先なにが起きるのか、波乱を含みながらも希望に満ち溢れてる感じが、たぶん監督としては嬉しかったのかなと思って。せっかくそこを作ったので、アルバム『君の名は。』にはちょっと間に合わなかったんですけど、オリジナルアルバムには入れようということになりました」
RADWIMPS 映画「君の名は。」の音楽制作裏話 - TOKYO FM+
音楽が予兆としてあるので、それはシーンからずれて前にある。それも意識的にそうある。こういう映画は以前にあっただろうか。音楽と映画といえば、大ヒットした『アナと雪の女王』が思い出されるが、あれは主人公が自分の心情をそのまま歌っているいわばオペラやミュージカルのような形式である(ニーチェはギリシア悲劇と比較してオペラを解説的な音画だといい音楽を現象の模倣として貶めるものだといっている(p163))。他にもこのブログで紹介したものでいうと『ジャージー・ボーイズ』、『オデッセイ』、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』『シング・ストリート』など、音楽がそれぞれその場面の主人公の心情や願望などを主人公に重ねたり主人公が歌ったりすることで使われる。音楽が映し出されているものと同時刻の印象のものとして観られる。しかし、『君の名は。』では一部ミュージックビデオであるというような批判がされたように、音楽がシーンとずれているために独立したものとして存在している。ミュージックビデオというのは映画を批判するときに有効なのか、そのとき音楽は何を意味しているのか。
合唱隊席が舞台より前に位置していたということも、われわれにはつねに謎であった。しかるに今や、われわれにはすべてがはっきり理解できるにいたったのである。舞台場面は、そして同時に役者の演技は、もとをただしてゆけば、結局はたんに幻影として考えられていたにすぎないものであり、唯一の「現実」はコーラスにほかならないのである。コーラスが自己の内部から幻影を生み出し、その幻影について、舞踏、音調、言語という象徴法のすべてをつくして表現するのだ。(p64)
『悲劇の誕生(中公文庫)』ニーチェ
『君の名は。』における音楽をギリシア悲劇のコーラスと類似したものだと仮定すると、それには次のような効果がある。一つは、音楽が自然に対する防波堤をつくり自然法則から隔てられその中では考えられないものでも起こり得ると思わせること、もう一つは、観客が事前に音楽があらわす意志を心に模倣し、そこで出来上がった個人的なキャラクターを映画上のキャラクターと重ねること(出会うはずのない二人が出会う)ができることだ。
彼はコーラスを生ける城壁とみなした。悲劇は、コーラスによって現実の世界から純粋に遮断され、その理想的な地盤と、その詩的自由をとを守るために、自己の周囲にコーラスという城壁を張りめぐらしたのだ、というのである。
シラーはコーラスという彼の主要兵器をひっさげ、「自然的なもの」という卑俗な概念に対し、劇文学においてはこれが一般に必要だと考えられている錯覚に対し、戦うのである。シラーの言うところによれば、舞台の上では、日そのものが人工的な日にすぎず、建築も象徴的な建築にすぎず、韻をふんだ言語も反現実的な性格をおびている。(p52)
コーラスは悲劇作品の中に、幾組かに分けられて編みこまれているが、このコーラス部分が、対話(ダイアローグ)と称される劇の残りの部分全体の、いわば母胎なのであり、言いかえれば、舞台世界全体の母胎、本来のドラマの母胎なのである。(p63)
なんらかの情景、行動、事件、環境にふさわしい音楽がかなでられると、音楽はこれらのものの秘められた意味をわれわれに解き明かすように思われるし、音楽はこれらのもののもっとも正確で明瞭な注解としての役割をはたす。これと同じように、交響楽に感銘してすっかりそれにひたりきっている人には、あたかも人生や世界のありとあらゆる出来事が身辺を通りすぎて行くさまを目に見るような思いがする。しかし、ひとたび正気にかえってみれば、目の前に浮かんで見えた事物と音楽との間には、なんらの類似点をもあげることができないだろう。なぜなら、すでに述べたとおり、音楽は現象の模写ではなく、より正確にいえば意志のしかるべき客観性の模写ではなく、直接的に意志そのものの模写であり、したがって音楽は、世界のいっさいの形而下的なものに対しては形而上的なものを、いっさいの現象に対しては物自体を表現するという点において、他のあらゆる芸術とは異なっているからである。(p132)
『悲劇の誕生(中公文庫)』ニーチェ
断っておくと、ギリシア悲劇が素晴らしいがために(実物を見ることはできない?ニーチェは紙上でしか体験できないと書いているが)比較しているのではなく、単に類似の表現があり、それがジャンルの一表現として重要ではないかということである。また、それが悲劇かどうかについて、最後に悲劇が起こるか途中に悲劇が起こるかということには、それほど重要ではないのではないかと思う。『君の名は。』では途中に悲劇が起こる。『悲劇の誕生』によれば、ギリシア悲劇は登場人物が人間であってもそれはデュオニソス(神)が仮面を被って人間の顔をしているということらしく、基本的にはそれは神々の苦悩である。悲劇は一人の悲劇ではなく多数の人間の悲劇の重ね合わせを一人の人物に表現したものである。だから、それが神に背負わさられる。一人では背負いきれないものを神が背負う。(メタ 『シン・ゴジラ』としての『君の名は。』|kitlog)ここで書いたが、瀧というキャラクターには震災以降の人々の願いのすべてが賭けられていて(その過剰さ故にそのことを覚えていることができない)、それがラブストーリーとして成就するという形になっている。
9/10/2020
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