空想の右手 この世界の片隅に
18歳のすずさんに、突然縁談がもちあがる。
良いも悪いも決められないまま話は進み、1944(昭和19)年2月、すずさんは呉へとお嫁にやって来る。呉はそのころ日本海軍の一大拠点で、軍港の街として栄え、世界最大の戦艦と謳われた「大和」も呉を母港としていた。
見知らぬ土地で、海軍勤務の文官・北條周作の妻となったすずさんの日々が始まった。
夫の両親は優しく、義姉の径子は厳しく、その娘の晴美はおっとりしてかわいらしい。隣保班の知多さん、刈谷さん、堂本さんも個性的だ。
配給物資がだんだん減っていく中でも、すずさんは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日のくらしを積み重ねていく。
ある時、道に迷い遊郭に迷い込んだすずさんは、遊女のリンと出会う。
またある時は、重巡洋艦「青葉」の水兵となった小学校の同級生・水原哲が現れ、すずさんも夫の周作も複雑な想いを抱える。
1945(昭和20)年3月。呉は、空を埋め尽くすほどの数の艦載機による空襲にさらされ、すずさんが大切にしていたものが失われていく。それでも毎日は続く。
そして、昭和20年の夏がやってくる――。
11月12日(土)全国公開 劇場用長編アニメ「この世界の片隅に」公式サイト
観ていて最初のあたりは、皆同じような顔に見えるのでキャラクターが喋り始めるまで、それぞれ少し区別がつきにくいなと思ったのと、主人公のすずが何か失敗した時に「ありゃあ」とか言いながら眼をつぶって笑いながら首を傾げる動作があるのだけど顔に糸が吊ってあって上から上下に揺らしているような不気味さを感じた。どういう表情なのかよくわからなかったからかもしれない。すずは結婚しに行く家の名字や住所も知らないなどどこか抜けていて、それはボーッとしていると自分でも分かっているようだが、それが何でも「ありゃあ」で済まそうという行為にあらわれている。それはこんな時代だけど笑ってられたらいいという思いなのかもしれない。世界が「ありゃあ」で済まない事態に浸されるにつれて、彼女は内省をせざるを得なくなる。物語の初め、すずの嫁ぎ先の母親は「戦争になって大事になると思っていた時が懐かしい」と呟くのだが、それも長くは続かない。
すずは絵を描くことが得意で好きだった。ボーっとしているのはそのことと関係しているのだろう。現実を絵を描こうと思って見る人の視点が違うのは当然だ。すぐ上空で戦闘機が撃ち合いをしていても、それが放つ砲弾の色の付いた煙を見て「今、絵の具があったらなあ」とか考えてしまう。現実を絵のように見ているのだ。戦争中は初めて見るものに溢れている。それは明らかに彼女の好奇心を刺激している。けれど、彼女はそれが単に美しいものだと思っているわけではなくて同時に忘れるべきもの忘れたいもの、なくなるべきものであるとも思っている。結婚したすずは嫁ぎ先から戻ってきた義姉の径子のちょっとした嫌がらせから一度広島に里帰りするのだけど、彼女はそこで広島の絵を描く。そこには今「原爆ドーム」と呼ばれているものも含まれている。彼女は広島を描きながら「さよなら広島」とつぶやく。彼女は広島を絵に描くことで、それが自分の人生でもう存在しないものとして、絵の中でしか存在しないものとして仕立て上げようとしている。また、彼女の夫の周作が家を出て軍人として三ヶ月の訓練に行かないといけなくなったときは、すずは最初周作を描くのを拒む。そうすると忘れてしまうかもしれないからだろう。けれど、やはり彼女は夫の横顔を描いてしまう。そして、夫が訓練に行くのを見送ったあとで「周作さんのこと忘れて見つけられなくなるかもしれないから、この家にいよう」というのだ。明らかにすずは絵を描くことが忘却の機能を担っていることを知っている。知っていても絵を描いてしまいボーっとしてしまうのだ。それは径子の娘の晴美がすずがストレスで10円ハゲができたからそこに墨を塗って「治療」しようとしたことと同じである。
すずは一度、山の上から戦艦の絵を描いているところを憲兵に見つかり、スパイの容疑をうけて注意される。憲兵らが帰ったあと、すずの家族は「こんなボーッとしてる子がスパイって」「ボーッとしてるのが逆に知的に見えたのかも」といって爆笑している。ここは皆が笑って暮らせたらいいというシーンに繋がるのだけど、同時に戦艦に一般人に近づくなという注意でもあった。それは本当に笑って済ませてよかったのかということが後に問われる。すずと晴美は病院に父の見舞いに行った帰りに空襲にあう。広島県呉市は軍事工場がある町で軍艦も多数停泊しており、それが狙われた。呉市に空襲が多いのは周知の事実だった(すずもそのことで広島市に帰りたいと一度言っている)。戦艦が狙われたにも関わらず、晴美が戦艦を見に行きたいといったことに従ってしまい、ちょうど不発弾が爆発して晴美は死にすずは利き手の右手を失ってしまう。すずは絵を描くための右手を失ってしまう。彼女はようやくそこで右手がしてきたことを振り返り、忘れていたことを思い出す。そして、この世界が左手で描いたみたいにぐちゃぐちゃであることに気づくのだ。彼女は絵を描くことではなくて反復された現実(焼夷弾の不発弾)に対抗することで立ち直る。
この映画では古い価値観が支配していて(古いからダメだという意味ではないのだが)、女性とって子どもをつくることが大人になることという風になっている。実際にすずもお嫁に行くときに「これから大人になるんじゃって」みたいなことを言っている。けれど結局のところ彼女はこの映画の時間で子供を産むことはない。代わりに物語の最後、広島で母親を亡くした子どもを引き取る。その子どもの母親も右手をなくしていて、同じ右手がないすずに母親を重ねて近づいてきたのだろう。その子はまるで左手のぐちゃぐちゃの現実から出てきたような格好をしているのだが、それでもすずはその子どもを受けいれる。その子どもを受けいれることは彼女が右手を失ったことを受けいれることでもあるからだ、そしてぐちゃぐちゃの現実も。
9/10/2020
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