リュークの余裕 デスノート Light up the NEW world
デスノートを駆使して世の中に野放しになっていた凶悪犯を次々と死に追いやったキラこと夜神月と、命をかけてキラを食い止めたLとの天才同士の対決から10年。再び死神が地上にデスノートをばらまき、世界中が大混乱に陥っていた。だが亡くなった夜神総一郎の跡を継ぐべく、警視庁内にはキラ事件に精通した三島創(東出昌大)や七瀬聖(藤井美菜)といった捜査官たちを中心にデスノート対策本部が存続していた。ロシア、ウォール街そして渋谷でのデスノートによる大量殺人が行われる中、世界的私立探偵にして“Lの正統後継者”竜崎(池松壮亮)が加わり事件解明に当たる。やがて地上には6冊のデスノートが存在する事が判明。その矢先、キラウィルスと呼ばれるコンピューターウィルスが世界中に拡散される。そのメッセージには「他の所有者に告ぐ。速やかに私に差し出せ」とデスノートの提出を呼びかけていた。6冊のデスノートを全て手にした者が地上を制する。キラ復活を望む者、そしてそれを阻止する者たちとの究極の争奪戦の幕が切って落とされた……。
デスノート Light up the NEW world | Movie Walker
かく言う私もデスノート対策のために顔と名前が一致しないよう最新の注意を払っているわけですが(フィクションとはいえ同じ名前を書かれるのは気分が悪いだろう)、もしも10年前にデスノートが存在していたらFacebookはサービスとして登場しなかっただろうということは容易に想像できる。10年経ってデスノートの秘密が公になっていればの話だが、この映画の世界はどういう世界だろうか。
映画のは洋画風のシーンから始まる。最初にデスノートを拾うのはロシア人の医師だ。寝たきりと思われる老人の訪問看護だろうか、老人は苦しそうで医師に「楽にしてくれ」と細い声でつぶやく。医師はその言葉をまともに受け取らないが、とっさにさっき拾ったデスノートを試してみることを思いつく。「どうせ子どものいたずらか何かだろうが」そう思いながら彼はペンを取り老人の名前とともに「安らかに眠れ」と書き記す。老人は寝息を立てて眠っている。「やはり冗談か」そう思いかけたところで老人の寝息が途切れる。老人は死んでいる。医師はそのノートが本物であることを知る。医師は自殺志願者や周囲の患者(おそらく安楽死を望んだもの)を次々とデスノートで殺していく。
「馬鹿だなコイツ」モニターが並んだ部屋で世界中のニュースを眺めながら男がつぶやく。モニターには死亡者とその死因、死んだ場所、友人関係、職場等が表示されている。デスノートのルールを知っていれば不審死が急に増えた地域でその存在が怪しまれるのは当然のことだ。男はモニターを眺めながらその異変が起こるのを待っていた。もちろん不審死情報の統計を取るなどの作業はプログラムを組んで自動で通知が来るようにしてもいいのだが、彼はモニター越しではあるがその存在が死者の共通点として現れる瞬間に立ち会いたいのだ。そしてこう言いたいのだ。「馬鹿だなコイツ」と。彼はロシアへ向かう……。もちろんこんなシーンは映画にはない。医師は単に良い人風な感じで死んでしまう。
今春公開された『レヴェナント』(復讐は創造主の手で:密室と荒野 レヴェナント:蘇りし者|kitlog)の世界にも神は存在していた。それは次のような神だ。
隠された、見つからない、目撃者のない苦しみを世界から一掃し、立派に否定しえんがために、あの時代の人たちは神々を案出し、また種々の中間的存在の階統を案出することを殆んど余儀なくされた。つまり彼らは、隠された場所をもさまよい歩くもの、暗い場所でも眼の見えるあるもの、興味ある痛ましい光景を容易に見遁すようなことはしないあるものを案出することを殆んど余儀なくされた。要するに、こうした案出の助けによって、あの時代の生活は、自己を正当化したり自己の「災禍」を正当化したりすることをいつも見事にやってのけるあの芸当を会得したのだ。(p77)
『道徳の系譜』ニーチェ
対比としてほとんど同じ時期に公開された『ヘイトフル・エイト』では、その中で起きる犯行が密室でなされたために、そこにはもはや上のような神が存在する余地はないのだった。では、『デスノート』の世界ではどうか。出てくるのはただの神ではなく死神だが、彼らは人間に道具を渡してそれを使う人間を見て「おもしれえ」とつぶやく神である。
残忍な観物の愛好者と考えられた神々――おお、この古色蒼然たる観念そのものが今なおわれわれのヨーロッパ文明のうちへ何と深く入り込んでいることか!(中略)諸君は一体、ホメーロスがその神々にどういう眼で人間の運命を見下ろさしめたと思うか。トロイア戦争やそれに類似の悲劇的事件は、実際いかなる究極的意義をもっていたか。疑いの余地もなく、これらの事件は神々のための祝祭劇という意味をもっていた。そしてまた、そのことに関して詩人が他の人々より一層「神的な」天性をもっているかぎり、これらの事件は恐らく詩人たちのための祝祭劇でもあった…… 後にギリシァの道徳学者たちが、道徳的苦闘の上に、有徳者の英雄主義や自己苛責の上に注がれる神の眼というものを考えたのも、やはりこの同じ見方からしてであった。「義務のヘーラクレース」〔ヘーラクレースはギリシァ神話における最大の英雄、神託によって課された十二の功業を成し遂げた〕は舞台の上にいた。彼はそれを意識してもいた。目撃者のない徳行といったようなものは、この役者民族にとっては全く考えることもできないものであった。当時ヨーロッパにとって初めての発明であったあんなに思い切った、あんなに宿命的な哲学者的発明、すなわち「自由意志」の発明、善悪における人間の自発性の発明は、人間に対する、人間の徳行に対する神々の興味が尽きることは決してありえないという思想を理由づけるために、特に工夫されたのではなかろうか。この自由意志という地上舞台では、本当に新奇な事件、真に前代未聞な緊張や葛藤や破局に事欠くような試しはかつてなかった。全く決定論的に考え出された世界であれば、それは神々にとって先の見え透いたものであり、従ってすぐに飽きがくるということにもなるであろう。(p78,79)
『道徳の系譜』ニーチェ
死神がおもしれえとつぶやくのは人間の自由意志に対してである。それがあらゆる決定論を回避して予測不可能性を提示しているようにみえるからだ。10年前の『デスノート』ではその予測不可能性はキラとLという二人の天才によってもたらされていたが、今回の『デスノート Light up the NEW world(デスノートLNW)』では予測不可能性が群像劇のように分散して配置されていて、それは登場人物の誰も彼もが意外な行動をするという驚きに留まるものだった。結局それらの群像劇は人間の間での争いにすぎず、死神が脅かされることがない。なぜデスノートの作者を脅かしにいかないのか。死神が死ぬ場面もある、しかしそれは人間に出し抜かれたためではなく死神が人間の方に「下りて」きてあまりに人間的な理由のために消滅する。6冊のデスノートを一箇所に集めて封印することが目標にされているが、デスノートの墓を掘るのではなく死神の墓を掘るべきだった。なぜ死神大王を引っ張り出さないのか。リュークが余裕な顔をして笑っているかぎり、いくら登場人物がおもしれえといったところで本当に面白くはならない。後半に国家が介入しデスノートが単なる力ではなく権力であることが分かりやすく示される。しかし、実際のところこの映画でデスノートを使い権力を得ているような人間は見当たらない。皆デスノートの奴隷だった。
「主人道徳」(上から見られた「よい」と「わるい」)と「奴隷道徳」(下から見られた「善」と「悪」)との区別、並びにそれに対応する上昇的な生の道徳と下降的な生の道徳との区別、――ニーチェによるこの区別のうちには、ヨーロッパの意志の疾病と陰鬱を診断する唯一の可能性ばかりでなく、同時にその治療薬も含まれている。ニーチェは結局、全自然現象の相互の間の力の動きを「力への意志」、従って「主人道徳」という標識のもとに立つものと認めた。――「生きようとする意志」(ショーペンハウアー)ではなくしてより高く生きようとする意志が、「生きるための戦い」(ダーウィン)ではなくしてより強く生きるための戦いが、「自己保存の衝動」ではなくして自己増大への衝動が、あるいは「愛と憎」ではなくして勝利と優勢のための闘技が、ニーチェにとってあらゆる生起の本質であった。(p214 解説より)
『道徳の系譜』ニーチェ
11/23/2020
更新
コメント