愛のしるし 怒り
ある夏の暑い日に八王子で夫婦殺人事件が起こった。
窓は閉め切られ、蒸し風呂状態の現場には、『怒』の血文字が残されていた。犯人は顔を整形し、全国に逃亡を続ける。その行方はいまだ知れず。
事件から一年後。千葉と東京と沖縄に、素性の知れない3人の男が現れた。
千葉――3か月前に突然家出をした愛子(宮﨑あおい)が東京で見つかった。彼女は歌舞伎町の風俗店で働いていた。愛子を連れて帰った父・洋平(渡辺 謙)は、千葉の漁港で働く。8年前に妻を亡くしてから、男手一つで娘を育ててきた。
愛子は、2か月前から漁港で働きはじめた田代(松山ケンイチ)に出会った。
東京――大手通信会社に勤める優馬(妻夫木聡)は、日中は仕事に忙殺され、夜はクラブで出会う男と一夜限りの関係を続けていた。彼には末期がんを患う余命わずかな母がいた。ある日、優馬は新宿で直人(綾野 剛)に出会った。
沖縄――また男と問題を起こした母と、夜逃げ同然でこの離島に移り住んできた高校生の泉(広瀬すず)。ある日、無人島でバックパッカーの田中(森山未來)に遭遇した。
殺人犯を追う警察は、新たな手配写真を公開した。
その顔は、出会った男に似ていた。
いつしか交際を始めた愛子と田代。
二人の幸せを願う洋平であったが、前歴不詳の田代の過去を信用できず苦悩する。
同居を始め、互いの関係が深くなっていく優馬と直人。しかし直人の日中の不審な行動に優馬は疑いを抱く。
ある事件をきっかけに心を閉ざした泉と彼女を救えなかったことに苦悶する同級生の辰哉(佐久本宝)。
親身に支える田中であったが、無人島で暮らす彼の素性を誰も知らない。
愛した人は、殺人犯だったのか?
それでも、あなたを信じたい。
そう願う私に信じたくない結末が突きつけられる――。
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本作の編集が巧みなのはフラッシュフォワードだけではなく、意識的に記号や感情で繋げたことだろう。例えば犯行時に犯人が被っているキャップの次のカットは、繁華街で娘を探して歩くキャップを被った渡辺謙である。宮崎が聴いている音楽をイヤホンで渡辺に聴かせると音楽が大きく鳴り響き、新宿二丁目のゲイパーティへと移行する。コンビニ弁当を食べる松山ケンイチ→コンビニでおにぎりを手に取る綾野剛もそうだが、記号による接続で無関係なエピソードが観客にとっては繋がりを持ち始める。
(3ページ目)映画『怒り』は妻夫木聡らの実力をいかに引き出したか? 演出と編集の見事さを読む|Real Sound|リアルサウンド 映画部
このようにシーンが連続するよう編集されているので、最初はもしかしたら三人の誰も犯人ではないのではと思った。不信の種はバラ撒かれているが、それらは連続した編集によって連続し連結しひとつになるような感覚を覚える。私が抱いている不信はAに対する不審なのかA,B,C全員に対する不信なのか分からなくなる。そのような綯い交ぜな不信の中で、三人共を疑うことになる。
これも『何者』と同じ冷笑系の嫌な奴が出てくる。二面性や多面性は誰しもが有するものだと思うが、そこに危険な異常性を隠している人もいるという意味では『何者』の彼が実は殺人犯だったらという話ともとれるかもしれない。殺人犯は沖縄の小さな島に潜伏している田中なのだが、彼については彼の言う「何マジになってんの、ウケる」というセリフが象徴している。彼は何でもウケると思ったことを書き残さずにはいられない性質らしく彼が逃亡して空になった部屋には、それらを書き記したチラシがびっしり壁に貼られたり机に置かれたりしていた。その島で偶然知り合った泉が米兵にレイプされる事件が起きるのだが、それについても「米兵にヤラれてる女、見た/知ってる女だった/女気絶 マジウケる」と石の壁に彫ったようににして書き残している。もし彼の落書きにそういう傾向があるとしたら、「怒」と書かれた血文字は「何怒ってるの? ウケる」という意味だったのかもしれない。殺人犯のビラが撒かれて、そいつと働いたことがあるというかなり信憑性の高い証言をする男が現れて、そいつはプライドの高いやつでいつも他人を見下していたというのだけど、それゆえに「怒ってる自分ウケる」と書けずに「怒」だけを残すことになってしまったのではないだろうか。もし自分のことを自分で笑うとしたらそれは自己批判や自己否定でプライドの高い彼にはそこまではできなかったが、書く衝動だけは抑えられずに「怒」だけになったのではないだろうか。
最大の悪者とは、自分のしたことについては思考しないために、自分のしたことを記憶していることのできない人、そして記憶していないために、何をすることも妨げられない人のことなのです。(p157)
『責任と判断』アレント
そんな田中を信じていたのが、沖縄で親が民宿を経営していて県外から引っ越してきた泉と友だちになった辰哉だった。田中と泉が離島で偶然知り合って、辰哉は那覇で泉が田中を偶然見つけたことから知り合うことになる。その時の田中は画面上からは泉の相談にのる良い奴に見える。辰哉は泉と映画を観るために那覇に来たのだが、那覇では米軍基地に対するデモ行進が行われていて辰哉の父親もそれに参加しているのだという。辰哉は泉に対して(休日にデモなんかやってて)申し訳なく思うと同時に「あんなことして何になるんだろうね。」とデモからは距離をおいている様子だった。ただその後、泉が米兵にレイプされる事件に遭遇し助けられず何もできなかったこと、それから泉に拒絶されるようになったこと、「泉が本気の怒りを感じているが、本気のそれは目に見えないし、それを分かってあげられない。泉にどう接したらいいのかわからない。」という風に悩み、沖縄の問題を自分なりに考え直しているような様子だった。そのことを田中に相談し田中は「沖縄の問題にどうこうは言えないけど、お前の味方にならなるよ」と言って辰哉を励ます。けれど、それは嘘だった。田中はその後自分も現場にいて辰哉と同じように足が震えて何もできず「ポリース、ポリース」と叫ぶのが精一杯だったと語る。それも嘘だった。彼はわざわざ自分の棲家にそれが嘘だった証拠を書き残していた。辰哉は田中が自分の嘘を自ら暴露しても信じようとしなかったが、石壁に事件のことが書き込まれているのを見て嘘を確信した。泉が「誰にも言わないで」と泣きながら訴えていたにも関わらず、彼はそれを書き残していたのだ。辰哉はそのことに憤慨し足元にあるハサミで田中を刺してしまう。その後テレビで警察の聴取の様子が放送され辰哉は「信じていたから許せなかった」と話していると泉は知る。泉は田中の棲家へボートで行き「米兵にヤラれてる女、見た/知ってる女だった/女気絶 マジウケる」の石壁の文字が消されているのを見つける。
外界にわざと簡単な目印をつけることは、書くという作業の原始的な先駆であり、情報蓄積専用の周辺システムを外界につくりだす第一歩である。この画期的な方法は、体系的な言語による目印でなくても成り立つことに注目していただきたい。必要なときにきちんとその意味を思い出せるなら、いかに間に合わせの目印でも有効なのである。(p219)
『心はどこにあるのか』デネット
善をなすのが可能なのは、自分が善をしているのを了解していない場合にかぎられます。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」のですし、「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」のです(『マタイによる福音書』六章二~三)。善をなす場合には、わたしはいわば自己から不在でなければならず、わたしが自分の善を目撃しないことが望ましいのです。(p192)
『責任と判断』アレント
泉が辰哉が田中を刺殺したというニュースを見て辰哉を信じようとしなかったならば、離島に何かを確認しに行こうとは思わなかっただろう。東京編で直人が「信じようとしない人には何を言っても無駄」だといい、パートナーになった優馬を何が何でも信じる姿勢を見せるが、何か特別な理由がない限り一旦信じてみることでしか信じあうことはできないのだ。何か主観的な理由で○○だから信じるとか○○だから信じないというのは信じることとはまるで違うことである。泉のように一旦信じてみなければ辰哉が信じていたことの隠された「しるし」を見つけることはできない。
キェルケゴールはこう言った――賢明で善良だという理由でキリストを信仰することは恐ろしい涜神だ。反対に、信仰という行為そのものだけが、キリストの善と叡智にたいする洞察力を与えてくれるのだ、と。たしかにわれわれは、信仰や宗教的命令への服従を裏づけてくれるような、理にかなった理由を探さねばならないが、もっとも重要な宗教的体験は、その理由が、すでに信仰をもっている者にのみ明かされるということである。われわれが、その理由がわれわれの信仰を証明していると思うのは、われわれがすでに信仰をもっているからである。信仰のためのじゅうぶんな理由が見つかったから信仰する、というものではないのだ。(p75)
『イデオロギーの崇高な対象』ジジェク
9/10/2020
更新
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