子どものいない女たち マッドマックス 怒りのデスロード

資源が底を突き荒廃した世界、愛する者も生きる望みも失い荒野をさまようマックス(トム・ハーディ)は、砂漠を牛耳る敵であるイモータン・ジョー(ヒュー・キース・バーン)の一団に捕らわれ、深い傷を負ってしまう。そんな彼の前に、ジョーの配下の女戦士フュリオサ(シャーリーズ・セロン)、全身白塗りの謎の男、そしてジョーと敵対関係にあるグループが出現。マックスは彼らと手を組み、強大なジョーの勢力に戦いを挑む。
映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』 - シネマトゥデイ

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マッドマックス 怒りのデスロード
(映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』予告4【HD】2015年6月20日公開 - YouTube

Toast: What are you doing?

The Dag: Praying.

Toast: To who?

The Dag: Anyone who's listening.

とても面白かった。観ながらとてもニヤニヤしてしまった。棒高跳びの成り損ないみたいな攻撃方法とか頭悪すぎるよちょっと(褒めてます)。不満があるとすれば、3dのための演出かな。個人的に嫌いなのかもしれない3dが。何かが飛び出すぞって時にモノが演技しているような気がして気持ちが悪い。とはいえ二時間とても楽しめた。良い映画には敬意を表さねばなるまい。

だが、この作品に不満をもつ集団がある。主人公のマックスと女戦士フュリオサが、武装集団を率いるイモータン・ジョーに囚われた5人の女性を連れて逃れるというあらすじに、「Men’s Rights Activists」(男性の権利擁護活動家:MRA)が激怒しているのだ。

彼らは、本作品にはフェミニストのプロパガンダが込められており、ハリウッドのリベラル派がまたしても、伝統的な「男らしさ」の概念を損なおうとしていると主張している。

「MRA運動」の拠点である「Return of Kings」のサイトでは、投稿者のアーロン・クラリーが次のように述べている。「米国や世界の男性たちは、爆発シーンや竜巻状の火炎、砂漠の襲撃者といったシーンに惹かれて、フェミニストのプロパガンダでしかないのが明らかなこの映画を観に行くのだろうか。そして、侮辱されたうえに、たぶらかされて、米国の文化の一部が台無しにされて目の前で権利が書き換えられるのを目にするのだろうか」

クラリーはまた、マックスが映画のなかで脇役扱いされ、「フェミニズムにへつらうかのように、現実にはありえない女性キャラに主役を取って代わられている」と主張している。
『マッドマックス』新作に、「男性の権利擁護活動家」の怒りもマックス « WIRED.jp

そう明らかに、マックスよりもフュリオサのほうが目立っている。マックスはトラウマを抱えところどころで過去の記憶がフラッシュバックしてくるが、それが何なのかわからない。マックスは何をしている人物なのか何が目的なのか、この映画だけでは良くわからない。それに比べてフュリオサには目的がある。過去に見た「緑の地」を探しにひたすら東へ向けて逃げること、イモータン・ジョーに捕らえられていた女たちと共に逃げることだ。そしてその目的は今作では叶えられない。「緑の地」もまた環境汚染から自由ではありえなかった。その目的の地をそれと知らずに通りすぎたあとで、そうと知った時のフュリオサの絶望は深い。が、彼女はすぐに決断をする。さらに東へと進むのだという。何が待っているのかも分からないが、とにかく東へ。「何かがある」と思って前へ進むのと、「何かあるかどうかわからない」がとりあえず進むのとでは、精神の負担がまるで違う。そこに何かがあるかないかが生存と直結していればなおさらだ。フュリオサはいいかもしれない。しかし、他の女たちはどうだろう。何があるとも知らず進み続けることができるだろうか。ほとんど死にに行くような旅路を続けることができるだろうか。

塩湖の跡(?)を東に進む女たちにマックスは現実的な提案をする。「戻れ」と。イモータン・ジョーが追ってきている今なら、そいつらよりはやく砦に戻り途中の道を封鎖すれば、砦の資源を独占し平和に暮らすことができると。女たちはそれに賭ける。マックスは批評家である。彼は外から状況を見ている。マックスの提案は成功する。女たちを捕らえに外に出ていたイモータン・ジョーをはじめとするウォーボーイズ等の男たちを退けて、フュリオサたちは砦に帰ってきた。フュリオサたちはイモータン・ジョーらが独占していた水資源を砦に残っていた者達に分け与える。砦には男たちはいなくなってしまった。マックスも去った。マックスは砦に戻る時にこう言っている。「砦に残っているのは、老人と子どもだけだ」と、そうつまり砦に残っているのは老人と子どもと女、そして障害者(マックスらが帰ってきた時に映る)だけなのだ。それからどうやって彼女らだけで暮らしていくのだろうか。地下水を汲むシステムを作ったのはおそらく男たちだろう。メンテナンスはできるだろうか。車はどうだろうか。男たちが持っていた技術的知識等は全て失われてしまったのではないか。男がいなくなったところで次世代はどうなるのだろう。この映画はそのことに誰かが気づく前に砦が弱者のユートピア化したところで終わっている。

フュリオサたちは東へ向かった先で「鉄馬の女たち」という集団に出会う。高齢の女性たちの集団だ。彼女らが「緑の地」がすでに汚染されてしまったことを教えてくれた。彼女らがラストで描かれた砦のユートピアの将来像のような気がしてならない。健康な女性たちだけが生き残る未来。とはいえ、希望もある。「鉄馬の女たち」からもらった植物の種、これは砦の水と反応して奇跡を起こすかもしれない。それと生に対する祈りだ。この映画では二つの対照的な祈りが描かれる。一つはウォーボーイズ、ニュクスの死に対する祈りだ。ウォーボーイズは放射能の影響で余命が少なく、若くして死ぬことが運命づけられている(そういう洗脳でなければ)。彼は死んだあとに「英雄の館」に呼ばれること祈っている。そこに行くためにイモータン・ジョーの前で派手に役に立つやり方で死を選ぶ(ニュクスはある出会いによって自分の生の目的を選ぶのだが)。もう一つは、冒頭で引用したダグ(アビー・リー)の生に対する祈りだ。塩湖から引き返し、イモータン・ジョーを出し抜いて砦に向かう道中で彼女だけが生に対して祈る。「何やってるの」「祈ってるの」「誰に」「これを聞いてる誰かに」彼女はなぜ祈るのか。それは彼女だけがお腹に子どもがいるからだ。そして彼女だけが「鉄馬の女たち」が示した植物の種に関心を示すことができた。祈りとは将来に対して行うものであり、将来子供が産まれるということは将来に何かを残さないといけないから将来について何かを考えなければいけない。何かの約束がなければいけない。この世界において植物の種は将来そのもの約束そのものである。

ミラー:本作は「視覚的な音楽」といった映画にしたかったんです。無声映画のように言葉がなくても理解できる作品ですね。だから台詞もあまりありません。そういった点から、伝統的な言葉で書く方法よりも、絵で描くほうがふさわしい作品だと思いました。

ブレンダ・マッカーシーは特に『マッドマックス2』が好きで、以前『マッドマックス』の美しい絵を送ってくれたんですね。そのブレンダンの絵からは『マッドマックス』の世界への情熱が感じられました。

そこで、3,500の絵コンテを壁に張り出して、ブレンダン・マッカーシーを招き、他の2人のアーティストとともにみんなで映画全編を描いていったんです。ただ、それは表面的な部分に過ぎなくて、そこからさらに一つ一つのキャラクター、車両、武器、ギターといったものが、「どうして本作の世界に存在しているのか?」の背景やロジックを作り上げていきました。

例えば、「V8」のサインもそうです(本作に登場する、トップ画像で監督がしているハンドサイン)。ハンドサインというのは世界中にありますし、文化によって意味も違いますよね(笑顔でピース、そして中指を立てるなどのハンドサインを見せながら)。そういったものの背景もきっちり作りこみました。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ジョージ・ミラー監督にインタビュー | コタク・ジャパン

シンクタンクの経済協力開発機構(OECD)の予測によれば、ひとり親家庭の絶対数は、今後もほぼすべての先進国で増え続けるという。父親のいない家庭 で育つ男の子は、そうでない場合に比べて、永続的な人間関係を築くのに苦労するケースが多い。こうして、男性の機能不全の連鎖が生じる。

こうした問題に対して、何ができるのだろうか? 解決策の一端は、文化的姿勢の変化にある。

過去数十年で、中間層の男性は、子育てに参加する必要性を学び、自分たちの行動を変えてきた。労働者階級の男性も、それに追いつく必要がある。女性は、女らしさを捨てなくても外科医や物理学者になれることを学んだ。

男性も、従来の肉体労働がもう戻ってこないことを受け入れ、男らしさを捨てなくても看護師や美容師になれるのだと理解しなくてはならない。
激変する社会:男性受難の時代 | JBpress(日本ビジネスプレス)
9/10/2020
更新

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