忘れられた人影たち メリー・ポピンズ リターンズ

大恐慌を迎え暗く厳しい時代のロンドン。バンクス家の長男でありかつて少年だったマイケル・バンクス(ベン・ウィショー)は、今では自らの家族を持つ親となっていた。
かつて父や祖父が働いていたフィデリティ銀行で臨時の仕事に就き、3人の子どもたち、アナベル(ピクシー・デイヴィーズ)、ジョン(ナサナエル・サレー)、ジョージー(ジョエル・ドーソン)と共に、桜通り17番地に暮らしていたが、ロンドンは大暴落の只中で金銭的な余裕はなく、更にマイケルは妻を亡くしたばかりだった。
子どもたちは「自分たちがしっかりしなくては」と躍起になるが上手くいかず、家の中は常に荒れ放題。さらに追い打ちをかけるように、融資の返済期限切れで家を失う大ピンチ!

そんなとき、魔法使いメリー・ポピンズ(エミリー・ブラント)が風に乗って彼らのもとに舞い降りた。20年前と同様にバンクス家の子どもたちの世話をしに来たと言う彼女は、一風変わった方法でバンクス家の子どもたちの “しつけ”を開始。バスタブの底を抜けて海底探検をしたり、絵画の世界に飛び込み、華麗なるミュージカル・ショーを繰り広げる。そんな彼女に子供達は少しずつ心を開き始めるが、実は彼女の本当の魔法は、まだまだ始まったばかりだった…。

作品・キャスト情報|メリー・ポピンズ リターンズ|ディズニー公式

メリー・ポピンズ リターンズ
(Mary Poppins Returns | Official Trailer - YouTube

メリー・ポピンズとバンクス家の子どもたちは割れた壺の表面の絵の世界に入り込む。そこで歌われる歌がある。「本は表紙じゃわからない(A cover is not the book)」だ。表面に見えているものが、その内容を表すとは限らない。老木で枯れているように見える木でも、土の中の根っこは若いかもしれない。王様は詐欺師かもしれない。などと歌われる。表紙がいくらきれいでも、内容はそれと同一ではないかもしれない。ちょうどこの映画には1964年の前作『メリー・ポピンズ』を踏襲してかオープニングクレジットで表紙のようなものがついている。そこにはこれから映画で流れるシーンが油絵のタッチで描かれているのだが、気になるのはどれにも人が黒塗りの影のように描かれていることだ。

これと同じずれは、農民生活のさまざまな情景(村の祭り、収穫をしている農民の昼休み、等々)を描いたブリューゲルの後期の田園絵画にも見られる。アーノルト・ハウザーはこれらの絵画は、真の平民的態度や、労働者階級との交わりとはおよそ無縁である、と指摘している。これらの絵画のまなざしは、農民自身が自分たちの生活に注ぐまなざしではなく、農民たちの牧歌的生活を上から見下ろす貴族階級の外的まなざしなのである。(p205)

イデオロギーの崇高な対象』ジジェク

『メリー・ポピンズ』のオープニングはロンドンの町並みを鳥瞰したような風景からはじまる。その視点はおそらく文字通り鳥瞰、鳥の目のものであると思われる。視点が右から左へゆっくり動いていくと、視点の高さが雲の上と同じであることが明らかになる。そして雲の上に座っているメリー・ポピンズが現れる。ロンドンを上から見下ろす視点はこの映画でもう一度現れる。それは当時のロンドンで最も貧しくきつい生活をしていると思われる、煙突人掃除夫の視点である。彼らは煙突の煤を体中につけて真っ黒である。大道芸人のバート(ディック・ヴァン・ダイク)はバンクス家の子どもたちとメリー・ポピンズを連れて、煙突のジャングルの向こうにこんな素晴らしい風景があるのだとロンドンの町並みを彼らに見せる。オープニングの鳥の視点と煙突掃除夫の視点はこの映画の中で一致している。この一致が映画で歌われる「2ペンスを鳩に」を劇的なものにしている。それはメリー・ポピンズが子どもたちを寝かしつけるために歌った歌だ。ホームレスの老婆が鳩にやるための餌を売っている。映画では子どもたちが持っている2ペンスを銀行に預金するか、ホームレスに渡して鳩の餌にするかという選択を迫られる。当時のイギリスの銀行は預金の50%を海外投資に使っていたとされている。映画では預金すれば、それはアフリカのダムや橋になったりしてそこからのリターンで設けることができると銀行家が歌って説明している。つまり、子どもたちの握っている2ペンスが鳩に渡るか、銀行に渡るかはそのままそれが国内投資されるか海外投資されるかの選択になっている。鳩=煙突掃除夫である。子どもたちは一度は銀行に2ペンスを取られるが、それを取り返す。最後には父を信頼か心配してか2ペンスを父に預けるが、それがどうなったかは『メリー・ポピンズ』の時点では明らかではない。いずれにせよ、ここでは労働者の視点がそのまま描かれている。彼らが真っ黒で匿名的であったとしても彼らから見たロンドンが描かれているのだ。

メリー・ポピンズ リターンズ
(Mary Poppins Returns | Official Trailer - YouTube

『メリー・ポピンズ リターンズ』の最大の問題の一つは、この煙突掃除夫が他のものに変わってしまったことだ。この映画に出てくるのは街灯点灯夫である。両者の最大の違いは、街灯点灯夫が家の中に入れないことだ。それ故、単に外から見る対象になっている。彼らは家の外にある街灯を扱う。当たり前だが煙突は家の中にある。それゆえ、煙突掃除夫の方は家の中に入ってきて、自然に物語の中に入っていくことができるのだ。『メリー・ポピンズ』では、近所のブーム海軍大将に大砲で狙い撃ちされて大勢の煙突掃除夫たちが煙突からバンクス家に入ってくる。彼らは家の中で歌い踊り、家の中が真っ黒になる。銀行家で規律を重んじるバンクス家の父、ジョージ・バンクスはメリー・ポピンズが来てから家の中がメチャクチャだと憤慨する。息子のマイケルは煙突掃除夫と握手をすると幸せになれると信じていて、父が皆と握手をしていったのを見て喜んでいるが、父は子供部屋に戻っていなさいと言って叱る。おそらくここがこの映画の最も魅力的で感動的な場面だが、その父に対してバートが歌って説得しようとする。子どもたちが自立してしまってからは子どもたちを愛することはできない、子どもたちを愛してやることができるのは今しかないのだと、一杯の砂糖があれば水やパンが紅茶やケーキになるのだと。それを聞いたジョージは銀行と同じような規律を家庭に持ち込むのをやめて、同時にメリー・ポピンズが与えてくれた軽妙さを銀行に持ち込むことになる。それは父と子どもたちの和解のきっかけになった。バートは町を見下ろす鳥のように、ロンドンのことをなんでも知っているような存在として描かれている。父親を遠ざけていた子どもたちに、「銀行は絨毯でくるまれた牢屋みたいなものなんだよ、君の父さんは誰よりも孤独かもしれない」といって、銀行家の親子の和解を促すのは最も貧しいバートである。『メリー・ポピンズ リターンズ』ではこの視点がポッカリと抜き取られている。貧しい街灯点灯夫は見られるだけの対象で、単に珍しい動きをする人々に成り下がっている。街灯点灯夫が見ることができるのは、ロンドンを鳥瞰した風景ではなく、小さな火の灯った周囲数メートルだけである。彼らは見る存在ではなく見られる存在だ。それは表紙の油絵のままである。背景と同じタッチの黒塗りの存在でしかない。表紙と内容は一致してしまっている。

バンクス家に弁護士が借金の取り立てやってくる(ここでも弁護士はなかなか家に入れない)。返済期限が近づいている中でマイケル・バンクスは父の残した株券があるはずだといって、それを探すが見当たらない。期限まで必死に探して、やっと見つけるも大事な部分が欠けていて、株券として役に立たない。今まで必死に探していたのは何だったのか。街灯点灯夫たちが返済期限を伸ばそうとビッグベンの時計を戻そうとする、が、届かなくてメリー・ポピンズがふわっと浮いて針を戻す。街灯点灯夫の頑張りは何だったのか。そして、『メリー・ポピンズ』で銀行か鳩(貧しい人々)か、海外投資か国内投資かの選択にさらされていた2ペンスは銀行に預けられていたことが明らかになる。そのお金は貧しい人々のために使われなかったのだ。これは何なのだろう。『メリー・ポピンズ』のような階級間の和解もなく、単にお金があるかないかの話になってしまった。メリー・ポピンズも何の役割を果たしたのか不明瞭だ。無事借金を返済できてマイケルたちは開放された公園で、風船をもらい空へ浮き上がっていく。しかし、『メリー・ポピンズ』では浮き上がることは病気や死を意味していた。前作では最後に家族皆で凧を上げるが、それは風に飛ばされてバラバラにならないよう必死に堪えている姿なのだ。彼らが幸せそうに浮き上がる様子が不気味で仕方がない。同じ風船をメリー・ポピンズは受け取ってすぐに手放し映画が幕を下ろす。

9/10/2020
更新

コメント