アルゴリズムは廃墟に向かうのか シュガー・ラッシュ:オンライン

ヴァネロペとラルフは、アーケード・ゲームの世界で暮らすゲーム・キャラクター。見た目も性格も正反対だけど、ふたりは大親友。レースゲーム<シュガー・ラッシュ>の天才レーサーにしてプリンセスのヴァネロペは、好奇心旺盛で新しいことやワクワクすることが大好き。一方、不器用だけど心優しい悪役キャラクターのラルフは、ゲームの世界の変わらぬ日々を幸せだと感じていた。

ある日、<シュガー・ラッシュ>のハンドルが壊れ、廃棄寸前の危機に!インターネットの世界では何でも手に入れることができると知ったヴァネロペとラルフは、ハンドルを手に入れて<シュガー・ラッシュ>を救うため、インターネットの世界へ向かう。

新しい世界に飛び込んだふたりの前にどこまでも広がるのは、高層ビルがそびえ立つ、カラフルな巨大都市。ゲームの世界しか知らないふたりにとって、見るものすべてが新鮮で刺激溢れる世界だった。戸惑うラルフとワクワクを隠せないヴァネロペは、ほどなくオークションサイトでハンドルを見つけて大喜び。ところが、より大きな数字を言った者が勝つゲームと勘違いして、あり得ないほどの高額で落札し、24時間以内にお金を稼がなくてはならないはめに!

刺激的なインターネットの世界で、<スローターレース>のカリスマレーサーシャンクと出会い、新たな夢を持ち始めたヴァネロペは、この世界こそが自分の本当の居場所なのだと運命を感じていく。一方ラルフは、ハンドルが手に入ったら、親友ヴァネロペと元の世界に戻るのだと当然のように思っていた。次第にふたりの心はすれ違い、思わぬ出来事を引き起こす。

そして、インターネットの世界に崩壊寸前の危険が迫ったとき、ふたりの冒険と友情も最大の危機を迎える・・・。果たして<シュガー・ラッシュ>とふたりの運命は!?

作品情報|シュガー・ラッシュ:オンライン|ディズニー公式

シュガー・ラッシュ オンライン
(Ralph Breaks the Internet: Wreck-It Ralph 2 Official Trailer - YouTube

事情に詳しい5人の関係者がロイターに語ったところでは、アマゾンは優秀な人材をコンピューターを駆使して探し出す仕組みを構築するため、2014年から専任チームが履歴書を審査するプログラムの開発に従事してきた。
……
ところが15年までに、アマゾンはソフトウエア開発など技術関係の職種において、システムに性別の中立性が働かない事実を見つけ出してしまった。これはコンピューターモデルに10年間にわたって提出された履歴書のパターンを学習させたためだ。つまり技術職のほとんどが男性からの応募だったことで、システムは男性を採用するのが好ましいと認識したのだ。

逆に履歴書に「女性」に関係する単語、例えば「女性チェス部の部長」といった経歴が記されていると評価が下がる傾向が出てきた。関係者によると、ある2つの女子大の卒業生もそれだけで評価を落とされた。

焦点:アマゾンがAI採用打ち切り、「女性差別」の欠陥露呈で | ロイター

私は、私たちが漕ぎつけようとしている岸辺の予想よりも、むしろ、後にして来た廃墟の方に郷愁の眼を向けている人たちと不断の戦いを続けなければならないからです。そして、この郷愁の中でも油断のならぬ現代的形式は、知識人の謂わゆる「中立」という口実で、これが有名な象牙の塔というものであります。この塔の特徴は、窓という窓が過去の廃墟の方にのみ開かれているという点にあるのです。(p24)

新しい社会』E.H.カー

ラルフとヴァネロペはともにゲームのキャラクターである。違いは、ラルフの方はゲームの悪役であり、ゲームのプレイヤーの攻略を阻止する邪魔者である。ヴァネロペの方は前作『シュガー・ラッシュ』でバグ扱いだったが、それはゲームを乗っ取ろうとしたものの陰謀で、実際はプレーヤーに大人気のゲームキャラクター、ゲームのプリンセスだった。彼女は記憶を消されていてそのことを知らずに、バグ扱いの自分がプレイヤーに選ばれるキャラクターになることを夢見ていて、ラルフと協力してそれを勝ち取った。彼女に必要なのはゲームの外側にいるプレーヤーだった。一方悪役のラルフもゲームのプログラム上プレーヤーがつくことはないが、自分の外にいるヴァネロペの信頼を得ることで、自分の存在を確かなものにした。ラルフはゲームを攻略されて、他のキャラクターにビルから落とされそうになるときに、その間だけシュガー・ラッシュのゲーム画面にヴァネロペが見える。彼はシュガー・ラッシュでヴァネロペが活躍していることに自分のように喜びを感じている。前作で彼らは小さいゲームセンターの中に依存関係つまり社会関係をつくって映画を終える。

だが、今作でヴァネロペはプレイヤーがゲームをやりすぎて飽きるのと同じように、同じコース同じ仕掛け同じ車の毎日ですべて予測がついてつまらなくなってきたのだという。プレーヤーがいることに飽きたというのだ。前作であれほど求めていたというのに、それをあっさり捨てるという。彼女は何か予測のつかないことを体験したいのだという。それを聞いたラルフは、シュガー・ラッシュのコースに仕掛けをして今までにないコースを作り上げる。ヴァネロペはそのコースを「おもしろそうじゃん」といって挑戦するが、そのコースに脱線するためにプレーヤーのコントロールを奪ってしまう。前作のターボと同じだ。ヴァネロペはそのコースを楽しむが、プレーヤーは「何か変、壊れてる?」といってハンドルを無理に動かし壊してしまう。修理を頼もうにもこのゲームの会社が倒産しているというショッキングな事実を伝えられる。ラルフとヴァネロペはネットオークションサイトのebayなら売ってるという子どもたちの声を手がかりに、代わりのハンドルを得るためにインターネットの世界へ行く。そしてヴァネロペはそこで出会ったオンラインゲームに熱中してしまう。そしてそこが私の生きる世界だと思うようになるのだ。

シュガー・ラッシュ オンライン
(Ralph Breaks the Internet: Wreck-It Ralph 2 Official Trailer - YouTube

彼女が選んだのは「スローターレース」というリアル路線のカーアクションゲームで事故や殺人や血も存在し、ギャングが支配する無法地帯だ。彼女は自由や予測不可能性を求めるあまり極端な方向に進み、ホッブズ的な万人の万人に対する戦いの世界にまで転落させられてしまった。無法地帯とは外在性のない世界、人々は欲求や欲望のみの内在性で動いており、そこでは殺人や強盗を止めるすべは殺人や強盗によってでしかありえない。彼女はそんな世界が素晴らしいのだという。そんなことがありえるだろうか。前作ではゲームセンターのアーケードゲームが多様性を持って幾種類も登場したが、今作はそのスローターレース(虐殺レースあるいは惨敗レース?)のみだ。選択肢がない中で彼女は選んだというよりも選ばされたように見える。それゆえ、ラルフは他にもいろんなゲームがあるだろうというのだが、その訴えは単にしつこいものだとして一蹴される。

アリストテレスやトマスの哲学のパースペクティブでは、自然の秩序は完全性の秩序としてある。社交性は自然の秩序の一部をなしている。ホッブズにとっては、重要なものはもはや完全性の秩序ではなく、欲求と欲望という諸力のメカニズムである。ここから自然権が生じてくるのであり、それは自らの力の及ぶ範囲で自らの欲望を実現することに他ならない。権利こそが第一の、そして自然なものであって、義務はそうではない。この観点によってあらゆる依存が排除されることになる。(p203)

『基礎づけるとは何か』ジル・ドゥルーズ

ヴァネロペとラルフはオークションでハンドルを落札したもののお金がないため、ネットの中で稼がなくてはならなくなった。手っ取り早く稼ぐ方法としてBuzztubeというYoutubeのような動画サイトで有名になればいいというのを聞いてラルフがそれに挑戦する。ラルフが口に風を入れてあごをブルブルさせる動画が一瞬だけバズったがそれだけでは大した稼ぎにならない。それでどうすればいいかとBuzztubeのアルゴリズムに相談していると、ラルフが過去のトレンドの真似をすればいいと言い、アルゴリズムがそれいいねと答えて過去の動画をラルフがパクってネット上で大きく盛り上がる。ラルフはそれを喜ぶのだがそこに何か可能性は含まれているだろうか。現実のシーンでサラリーマンが仕事中に暇つぶしでラルフの動画を見ている。ここには二つ問題がある。

一つは、アルゴリズムに押されてラルフが過去しか見ていないことだ。上のアマゾンの引用では過去に男性の採用が多かったのでアルゴリズムが男性を多くして採用したことが問題になっている。アルゴリズムは過去のデータに左右されるので保守的になりがちで、それを変えるには外在的に例えば人間がパラメータを変えるとか、可能性もデータに投入することが必要になるが、それはアルゴリズムの範囲を超えている。アルゴリズムが外から何らかの目的でデータを選んで取ってくるということは考えにくいからだ。

歴史家は二重の働きをするものであります。すなわち、一つは、現在と未来とは過去から生まれ出るものですから、現在および未来を支配する問題の上に照らして、過去を分析すること、もう一つは、現在および未来を支配する問題の上に、過去の光を投げることです。結局のところ、歴史の目的を決定するものは、歴史の外に源を発する価値でありましょう。なぜなら、これらの価値がなければ、歴史そのものが無意味なものになるからです。――行為のための行為や、変化のための変化の単なる連続になってしまうからです。(p27)

新しい社会』E.H.カー

最近のAIの進化として囲碁AIがよく挙げられるが、あれは過去のデータと次の一手の可能性としての盤面が予め用意されている。囲碁の対局のある局面で過去の人間のデータではA,B,C,D,Eの五通りしか考えられないといった場合でも、囲碁の盤面には人間は打たないかもしれないけどまだ石が置かれない場所がいくつも可能性として残されている。だから、囲碁AIはその可能性を含めて計算することができる。そのためにより有効な一手Fを探すという目的を遂行できるのだ。しかし、この映画ではそのような可能性は隠されたままであるために、ラルフが親友としてのヴァネロペだけを見ているように見え、ゲームセンターで快適に暮らしていた過去だけに縋っているように見える。アルゴリズムも過去のトレンドの通りにやればいいよとしか教えてくれない。一方のヴァネロペが未来を見据えているかというとそうでもない。彼女はプレーヤーに飽きたというが、それは単に前作『シュガー・ラッシュ』で登場したときのようにプレーヤーに選択されないバグに戻りたいといっているだけなのだ。たったそれだけのことなのに、ディズニーおなじみの夢を歌う歌まで披露させられる。そのような選択は前作ならキャンディ大王が仕組んだものと顕にすることができたが、今回はそれがプログラムのアルゴリズムのように隠れていて、原因を誰にも突き止められない。iPhoneを使っていて中で何が起きているかわからないように。あるいは原因を突き止められるのを誰かが嫌がっている。これはストーリーの放棄だろう。

シュガー・ラッシュ オンライン
(Ralph Breaks the Internet: Wreck-It Ralph 2 Official Trailer - YouTube

ストーリーの放棄と関係したもう一つの問題は、薄っぺらいプリンセスたちの登場に関することだ。ラルフはアルゴリズムに過去の動画のトレンドを参考にするよう言われて、流行っているヤギの動画に自分の顔を貼り付けただけのものをアップする。すると、それが盛り上がって同じようなことをいくつも始める。このもともとあるオリジナルのものに外面的なものを貼り付けただけという方法がこの映画ではいくつも採用される。ヴァネロペはOH MY DISNEYでラルフの動画を宣伝したことをスター・ウォーズの帝国軍に見つかり、プリンセスの楽屋に逃げ込む。そこにいるのは14人のプリンセスだが、彼女たちは自分の境遇や役割、映画的演出についてそれぞれ自覚している。彼女たちはヴァネロペの服を見て、この生地やわらかいとかいいながら羨ましがり、みなスウェットの上下のような服に着替えてしまう。全員が一斉に。プリンセスにも普通の一面があるのだといいたいのかもしれないが、メタ的なふるまいも含めてディズニーオタクの人がプリンセスを無理に演じているようにしか見えない。一覧表として集められた彼女たちには当然ストーリーが欠けていてあるのは外面だけだ。そして彼女たちが映画の最後ラルフを救うことになるのだが、そのときもなぜかラルフにプリンセスのドレスを着せるということをやっている。ギャグでやっているのかもしれないが、少しも必然性がなく混乱するばかりだ。ラルフにドレスを貼り付けたものを見て面白いと思うのは、ラルフのヤギ動画を見て微妙に笑っていたサラリーマンのように無料で暇つぶしで見ているときに限られるだろう。

この形式主義は、なんらかの形態が有する本性と生命を概念的に把握し、言明したと言うためには、その形態をめぐって、図式にぞくするひとつの規定を述語として言表すればそれで済むものと思っている。そのばあい「述語」は主観性であれ客観性であれ、あるいはまた磁気、電気等々であれ、収縮であっても膨張であっても、東、西であっても、えらぶところはない〔シェリングの自然哲学に対する批判〕。こういったものは無限にふやしてゆくことができるのであって、それというのも、こうしたやりかたにしたがえば、どのような規定であれ形態であれ、他の規定や形態のもとでは、再び図式にぞくする形式ないし契機として使用されうるからである。規定や形態であれば、そのどれをとっても、他の規定や形態に対して、おかえしに同様の役割をはたすことができるのである。――これは互酬性の循環というものであって、そのような循環によっては、「ことがら自身がなんであるか」も「ひとつのことがらはなんであり、他のことがらはなんであるか」も経験されることがない。(p86)

「あらゆる天上のものと地上のもの」、自然の形態と精神の形態のことごとくに、一般的な図式にぞくして対になっている規定を貼りつけ、そうしたしかたでいっさいに〔くだんの図式のなかの〕序列を与える。こういった方法によって生みだされるものが、宇宙の有機的組織をめぐる「日のもとで瞭らかな報告」〔フィヒテ〕よりも劣っているということはない。それはつまりいちまいの一覧表であって、紙片が貼付された骸骨か、あるいは一揃いの密封された缶が、レッテルを貼りつけられて、香料屋の店先にならんでいるさまと似ている。そのどちらにしても、明瞭ではあるのだ。ただし前者については、その骨からは血と肉が取りさられ、いっぽう後者の場合には、おなじようにこれもまた、もはや生きていない物件が缶のなかに隠されている。それとおなじように例の一覧表も、ことがらの生き生きとした本質を取りさってしまったものであるか、あるいは隠してしまったものなのである。(p89,90)

精神現象学(上)』ヘーゲル

ヴァネロペはこのような薄っぺらで外面的で死んだプリンセスのアドバイスを受けてホッブズ的な自然状態まで転落させられる。自滅的な傾向だけが強調され、スローターハウス以外の選択肢は提示されない。彼女はそれを自分の内在性だと思い込んでいる。道化役者のようなプリンセスたちが演じる喜劇はディズニー・プリンセスそのものの終わりを暗示しているのかもしれない。スローターレースが不具合でダウンしてしまったときにヴァネロペは「私が台無しにしてしまった」と自分を責めるが、それが直後にラルフがウィルスを撒いたせいだと明らかになる。しかし、物語全体の不気味な喜劇調の雰囲気がそれ以前にあらゆるものを台無しにする可能性を含んでいる。それはアルゴリズムとして言い表せるものかもしれないが、物語内のラルフやヴァネロペには理解することができないものであろう。マルクスは”歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として”といっているが、二度目とは同時に最後のことであることも暗示されている。われわれがそれを喜劇として認識してしまったら(例えばあるあるネタとして、よくあることだと認識してしまったら)、それはそこで終わってしまう可能性があるのだ。その終わりの結果、最後のプリンセスが無法地帯のギャングの世界でプレーヤーの邪魔をする悪役のモブキャラとして自由や予測不可能性を享受する少女なのだろうか。(ゼロ成長のイデオロギー お笑いの神話的副作用 | kitlog

近代の旧体制は、もはや、本物の主役たちがすでに死んでしまっている世界秩序の道化役者でしかない。歴史というものは徹底的であって、古い形態を墓へ運んでいくときに、多くの段階を通過していく。一つの世界史的形態の最後の段階は、それの喜劇である。(p79)

ヘーゲル法哲学批判序説『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』カール・マルクス
9/10/2020
更新

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