映画ーミニオンズ=動く絵本 グリンチ

つぶらな瞳が愛らしい超キュートな幼少期を過ごしながらも、すっかりひねくれた大人に成長したグリンチ。今では洞窟の中で暮らし、愛犬マックスの献身的な振る舞いにもぶっきらぼうな対応。さらには、山麓の村人たちにいじわるをして楽しむという“超”がつくほどのひねくれ者に。不機嫌で孤独なグリンチはやがて、とんでもない計画を立てる。村のみんなが大好きな“クリスマス”を盗もうというのだ。小さい頃はあれほど可愛かったグリンチに、大人になるまでの間、一体何があったのか……?そして、彼のとんでもない計画の行方は……?

グリンチ | 映画-Movie Walker

『Yellow is the New Black』ミニオンたちは刑務所で労働をしている。何かをプレス機で加工している。が、彼らはすぐにいたずらを始めてプレス機にバナナを入れてぐしゃぐしゃにしてみたり、自分の顔を挟んでうへーという顔をし他のミニオンを笑わせてみたりする。すると刑務官がやってきて彼らに注意をし警棒を向ける。ミニオンたちはその警棒もプレス機にかけて、「HAHAHA!」と笑っている。彼らはより監視や管理のきつい場所へ移動させられる。そこで他の人物の脱獄に巻き込まれることになる。

ひとは論理学において、一切を運動にもたらすための推進力として否定的なるもの〔ダス・ネガティヴェ〕を使用している。ともかく彼は論理学のなかで、どうなろうと、よかれあしかれ、運動をもたないでは承知できないのである。さて否定的なるものは助けてくれる、そうして否定的なるもので旨くいかない場合には、洒落や空語が登場してくることになる、否、否定的なるもの自身が洒落に転化するのである。いったい論理学のなかではいかなる運動の生成も許されないはずのものなのである。論理学はある、そうして一切の論理学なるものはただあるというだけなのである。論理的なるもののほかならぬこの無力が論理学をして生成へと移行せしめるのであり、そこで現存在と現実性が出現してくるのである。それ故に論理学がもろもろの範疇の具体化へと沈潜するとしても、それは始めからあったものを明るみに出すだけのことなのである。一切の運動(ちょっとの間だけこの言葉を御使用になりたければ)は、ここでは内在的な運動でしかない。換言すれば、それはより深い意味においてはいかなる運動でもないのである。運動という概念それ自身が、論理学のなかではいかなる場所をも見出しえないところの超越的なるものであることに思いいたるならば、このことは容易に納得せられうるであろう。(p17,18)

『不安の概念』キルケゴール

ミニオンたちは人間ではない。彼らは人間と同様に牢屋に入れられている。彼らが動物であったなら、保健所かそれに類するところに入れられているだろう。彼らは人間扱いされているが、当然人間ではないのだ。それゆえ彼らは人間だったらあまりやらないようなことを好奇心から平気でやってのける。それは自由を求める運動のようにも見えるが、現状の秩序に挑戦しようとする悪にも見える。彼らは人間が何をなしうるかということを超えている。そのため彼らは牢屋に入れられている。彼らは現状の人間性を陽気に否定することで運動をしているのだ。そしてキルケゴールが言うように否定こそが論理学における運動である。ミニオンたちは否定によって物語を進め、自分でページをめくる。彼らの運動が物語をわけのわからない方向へ展開させる。

『グリンチ』ではそのようなページをめくる役割をナレーションに負わせている。「フーの村はこういうところなのです」「グリンチの過去にはこんなことがあったのです」「グリンチの心が……」などと場面が展開するときに、誰かの絵本の読み聞かせのようなものが聞こえる。絵本の読み聞かせは聞いている側が必ずしも絵を見ている必要がない。親が絵本を読んでいて子供がそれを聞いているなら、子供が親のすぐそばにいない限り絵を見ることができないだろう。親が絵本を自分の目の前において読んでいるのだから。ミニオンではなく親がページをめくっている。そうして映画が読み聞かせと同一視された場合、絵の魅力が蔑ろにされることにならないだろうか。誰かがページをめくっていることがほのめかされている。

グリンチ
(The Grinch - Official Trailer [HD] - YouTube

『グリンチ』の映画は白い鳥が雪山の斜面をスキーのように滑り降りるとことから始まる。そのような雪の斜面も物語を動かす要素ではあるが、それは環境の一要素としてシーンの中にとどまっている。またイルミネーションは『ペット』や『SING/シング』など動物のキャラクターが魅力だが、『グリンチ』の動物はそれらの映画のように人間みたいにしゃべることはなく、ほとんど動物のようである。番犬が不審者に吠えて追いかけたり、犬がグリンチの言うことを聞かずに店のソーセージをかじり始めたりと、動物として環境の一部になっている。動物であればこうするであろうということでシーンの一部になっている。シーンの面白さに貢献はするが(絵本の一ページにはなる)、シーンを展開するほどではなくなっている。哲学においてはヘルダーが哲学者が人間と動物を混同するのを批判しているが物語においてはどうだろうか。

映画の全体を貫いているのはグリンチがクリスマスを否定していることだ。それをナレーターは説明する。彼はクリスマスソングに耳をふさぎ、クリスマスに浮かれている村の人々に謂れのない嫌がらせ、いたずらをする。ナレーターが言うのだが、彼は子供の頃に孤児院に入れられていて、クリスマスも一人だった。村のキラキラしたクリスマスを見ると、子供の頃の思い出が蘇ってきて気分が悪くなるのだという。彼は自分のイライラを解消するために村のクリスマスを盗むことを計画する。クリスマスを盗むというが、実際にやろうとしたことはクリスマスプレゼントを届けるサンタとは逆にクリスマスプレゼントその他クリスマスの飾りを村から取り上げることだ。彼はそのために自分のサンタの衣装、トナカイ、ソリまで用意する。誰もサンタのことを見たことがないのに、このこだわりはなんだろう。この映画はナレーターがグリンチがひとりぼっちだったことが彼のクリスマスに対する考えに影響していると説明しているが、彼のサンタへのこだわりから、子供の頃サンタのことを信じていてサンタが来なかったことに、そしてもしかしたら自分のところにだけサンタが来なかったのではないかということにショックを受けているのではないだろうか。グリンチにとって「サンタが来る」とはどういうことなのだろう。

グリンチ
(The Grinch - Official Trailer [HD] - YouTube

フー村のシンディ・ルーはサンタに手紙を渡そうとしていた。彼女の母のドナはシングルマザーで三人の子供を育てて忙しく生活している。シンディ・ルーはサンタに「ママが楽に生活できるようにしてほしい」と頼もうと思っている。彼女はクリスマスの日に罠を仕掛けてサンタをつかまえて、自分の思いを伝えようとする。けれど、シンディ・ルーがクリスマスの日に捕まえたのはサンタの格好をしたグリンチだった。グリンチはシンディ・ルーの願いを聞いて困ってしまう。もちろん彼はここにクリスマスを盗みに来たのだから、シンディ・ルーの願いを聞く必要がないのだが、シンディ・ルーの願いはグリンチが盗むことができないものだった。シンディ・ルーは自分の願いを言っているように見えて、自分の欲しいものを言っていない。彼女は自分を無いことにして母親を助けたいと思っている。ここでは、同時に子供がいなくなれば親は楽になるかという問題が横たわっている。グリンチがなぜ孤児院に入れられていたのかわからないが、親に捨てられた可能性はあるかもしれない。ドナはシングルマザーで小さい子供を三人抱えていて、子供が少なくなれば自分の大変さは減るかもしれない。けれど、ドナはシンディ・ルーに向かって違う仕方で「それはあなたのせいじゃない」という。シンディ・ルーは村でクリスマスの飾りやプレゼントが無くなっているのを見て「私のせいだ」という。「私がサンタさんを捕まえたから、怒って持っていっちゃった」のだという。それを聞いてドナは「あなたのせいじゃない」という。おそらくグリンチもその言葉が欲しかったのではないか。彼は村で無意味に見えるいたずらをするが「それはあなたのせいじゃない」と誰かに言ってほしかったのではないか。そして彼が孤児でいたことも「あなたのせいじゃない」と。そう言われることが彼にとって「サンタが来る」ということではないか。グリンチがクリスマスを盗んだあとでも「サンタが来て」クリスマスが行われている村を見て彼は心を動かされることになる。彼は嫌いなクリスマスを自分なりにやってみること(否定)でようやく自分を具体化したのだ。彼は自分には必要のないものを盗んだことを恥じて、それを村に返しに行く。そして、シンディ・ルーは「それはあなたのせいじゃない」と言っているかのように、グリンチをパーティーに誘いにやってくるのだ。
9/10/2020
更新

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