1920年代の精神の危機 ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生

ホグワーツ魔法魔術学校の卒業生ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)は、シャイでおっちょこちょいな魔法動物学者。世界中を旅しては魔法動物を集め、不思議なトランクに詰め込んでいる。そんななか、イギリスにもどって来たニュートは、捕らえられていた“黒い魔法使い”グリンデルバルド(ジョニー・デップ)が逃げ出したことを知る。魔法界と人間界の支配を企むグリンデルバルドを追って、ニュートは恩師ダンブルドア(ジュード・ロウ)やニュートの仲間、魔法動物たちと共にパリへと向かう……。

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 | 映画-Movie Walker
ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生
(映画『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』本予告【HD】YouTube

(映画『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』オフィシャルサイト

舞台はフランスである。

イギリスをヨーロッパの他の諸国と非常に異なったものにしたものは、議会やその自由、その公開性や陪審制などであるよりも、何か特殊で、そしてもっと効果的なものであった。イギリスは、カスト制度を悪化させることなく、有効に打破している唯一の国であった。イギリスでは、貴族も平民も一緒になって同じ公務に従事したし、同じ職業についたのである。そして、イギリスでとりわけ際立っているのは、貴族と平民が通婚したことである。そこではすでに、最大の領主の娘も屈辱を感じないで新しい人間(ブルジョア)と結婚することができたのである。

貴族がある民族においてつくっているカスト・理念・習性・障壁などが決定的に絶滅されているかどうかを知るには、そこでの結婚を考察してみればよい。その結婚を考察してみれば、諸君に欠けている決定的性質がわかるであろう。フランスでは、民主主義への出発後六十年もたった今日でさえ、そこで貴族と平民の通婚という事実をさがしても、しばしば無駄である。(p226,227)

『アンシャンレジームと革命』A.de.トクヴィル

ラパポート法は、アメリカとヨーロッパの魔法界に大きな社会的差異を生み出しました。旧世界においてはノーマジの政府と魔法族の政府はある程度の協力関係を維持していたのですが、MACUSA はノーマジの政府とは一切の関わりを持とうとしませんでした。ヨーロッパの魔法族がノーマジを配偶者や友人とする一方で、アメリカの魔法族はノーマジを敵視するようになっていきました。

北アメリカの魔法界の歴史 - Pottermore

前作の『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(虐待・法・忘却・トランク ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 | kitlog)では、記憶の忘却ということが問題になった。魔法使いとノーマジとの接触は極力禁止されていて、もし接触が起こればその時はノーマジの記憶を消さなくてはならない。それは裏返せば、魔法使いとノーマジとの接触が描かれていたということだ。魔法使いとノーマジとの接触があった、それゆえ記憶は消されなくてはならない。今作『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』では、そのような描写はない。魔法界と人間界はほとんど完全に分かれていて何の接触もしていないかのようだ。前回ノーマジとして活躍したジェイコブ(ダン・フォグラー)にとっては魔法使いが存在しているのは普通になっている。彼の人間界での事情は描かれず、ほとんど魔法界側の人間であるかのようだ。彼は魔法や魔法生物に以前のようには驚かない。

前作で恋人同士になったジェイコブとクイニー(アリソン・スドル)がニュートの家にやってくる。だがジェイコブの様子がなにかおかしいのでニュートがクイニーに尋ねると、クイニーはジェイコブに惚れ魔法をかけたのだという。ジェイコブはクイニーの完全ないいなりになっていて、それではペットも同然である。前作では記憶の忘却が問題になったが、今作では記憶の創造(現実や認識の改変)が問題になっている。ジェイコブは惚れ魔法をかけられて作られた記憶の中を生きている。彼はその状態に置かれて、一瞬でもクイニーを「クレイジー」だと思うことすらできない。クイニーは他人の心が読めるため、ジェイコブになにか余計なことを考えてほしくないのだ。ニュートは動物が不当に拘束されているのと同様にジェイコブの自由が奪われていることに嫌悪感を抱き、彼にかけられている魔法を解除する。我に返ったジェイコブはここはどこだと困惑する。クイニーはニュートに非難されて出ていってしまう。ジェイコブは魔法をかけられていたことを知る。ジェイコブはクイニーに「いつ魔法を解除する気だった?子供が五人できてから?」といいながら、クレイジーだと思ってしまったことが彼女に伝わってしまう。雨が降る中クイニーはそれっきりジェイコブから離れて行ってしまう。

クイニーは二重の困難にいる。一つは制度の問題で、魔法使いとノーマジとの結婚は重罪であると決められていることだ。もう一つは彼女の能力の問題だ。結婚することは誓うことであるが、誓うことそれ自体が、彼女の心を読むという能力によって危険にさらされてしまう。心の中の考えは可能性にすぎず、現実的なものはその可能性の中から出てくる一つのものなのだが、クイニーにとっては心の中のことも全て現実的なものである。誓いというかたちで心の中から現実化したものが簡単に相対化され効力を失ってしまう。彼女の中では、永遠の誓いも一瞬の心の中の雑念も同じように並んでいる。

多くの事象の媒体となる、か弱い紙の解体、病気、結核などという代わりに、今度は、そうした媒体の基盤となる信用性、信頼性、書かれた紙そのものに対する信用、書かれた紙に価値を与える大本に対する信頼がくずれてしまったと仮定しよう。そうした事態はすでにこれまでも起こったが、今日、我々が残念ながら認めざるを得ないような蔓延した形で起こったことはなかった。我々はもはや仮定の域にはとどまらない。厳粛な条約が踏み躙られるのを目の当たりにし、条文が日々実効力を失っていくのを見てきた。国々が、すべての国が、約束の履行を違え、署名したことを否認し、債権者に対して不実な態度を取るという恐怖を与えるのを目にしてきた。(p149)

要するに、信用性の危機、基本的概念の危機、ということは、あらゆる人間関係の危機であり、人間精神によって授受される諸価値の危機である。(p150)

『精神の危機』ポール・ヴァレリー 「『精神』の政策」

クイニーは一人で、あらゆる人間的な価値の危機の現場にいる。彼女は姉のティナに会いにフランスの魔法省にやってきたが、受付に「ティナ・ゴールドスタインはいますか?」と聞くと受付の女性は罫線のみの白紙のノートをめくりながら「いません」という。ティナからの手紙にはフランスに居るとあったのに。クイニーはすでにグリンデルバルドに目をつけられていて、彼は彼女の不安を誘発するように現実に嘘を混ぜ込んでいる(それとも単に手続きの問題なのだろうか)。ティナは本当はフランスに居る。ティナがいないと知って(騙されて)彼女は外をさまよう。すると、今度はジェイコブを見つけたような気がしてその影を追いかけるがそこにジェイコブの姿はない。大勢の周りの人間のわけのわからない声が勝手に響いてきて、彼女はその場で泣き崩れてしまう。そこにグリンデルバルドの手下が現れ、彼女に優しく声をかける。クイニーはグリンデルバルドを初めは警戒するものの、彼の言う魔法族とノーマジとの共存という理想に聞き入ってしまう。それは彼女の理想でもあるからだ。そのことをグリンデルバルドはもちろん知っている。クイニーはグリンデルバルドの側についてしまう。クイニーはそのユートピア的な思想の中で「グリンデルバルドにとっての最善は私にとっての最善であり、私にとっての最善はグリンデルバルドにとっての最善」といったwin-winの関係を考えているのかもしれない。しかし、共存は共存でもグリンデルバルドの共存はノーマジを奴隷にするものである。

社会同義の理論というのは、つねに、自己と全体としての共同体とを同一視し、さらに、自己の世界観を共同体におしつけるために、下位の団体や個人には認められていない便益を持っている最有力団体がつくり出すものである。(p154)

『危機の二十年』E.H.カー

要するに、精神が自分を見失い、――自分の主要な特性である理知的行動様式や混沌や力の浪費に対する嫌悪感を、――政治システムの変動や機能不全の中にもはや見出すことができなくなったとき、精神は必然的にある一つの頭脳の権威が可及的速やかに介入することを、本能的に、希求するのである。なぜなら、様々な知覚、観念、反応、決断の間に明確な照応関係が把握され、組織され、諸事象に納得できる条件や処置を施すことができるのは、頭脳が一つのときだけに限られるからだ。(p390,391)

『精神の危機』ポール・ヴァレリー 「独裁という観念」

似たような嘘はニュートにもふりかかっている。彼が幼馴染のリタ・レストレンジ(ゾーイ・クラビッツ)と結婚したというゴシップ記事のようなものが出回る。クイニーとジェイコブは、ティナがそのことを知って他の人と付き合っていると言いに来たのだが、結局ニュートとティナは会うことができて誤解を解くことができた。それはおそらくノーマジや魔法動物など様々な特徴や行動原理を持つ生物と交流しているおかげだろう。

”様々な人種が存在するのに、人種の純血を言うのは、明らかに、人種が純粋であればあるほど、その人種を構成する個人が互いに似通っているからだ。しかし個人的差異がなければ、全体は受動的になり、みんな同じような行動をし、個々に反応することが不可能になる。そしてその結果、全員が軽信にはしる。それこそ、最もおぞましい計算や企ての温床である。(ミシェル・ジャルティ著『評伝ポール・ヴァレリー』Paul Valery 一○八二頁に引用された仏文の翻訳)”

ここには「人種主義」の批判と共に、怪しげな全体主義の風がドイツを皮切りに、スペイン、ポルトガル、イタリアなどに吹きわたり始めたことへの警戒心がにじみ出ている。自らが「純粋」な人種であるという神話を吹き込まれ、次第に従順な羊の群れにされて、全員が無批判に扇動者の尻についていくようになる……〈独裁者〉の問題である。(p508)

『精神の危機』ポール・ヴァレリー「ポール・ヴァレリーにおける〈精神〉の意味」恒川邦夫

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生
(映画『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』本予告【HD】YouTube

映画の冒頭、グリンデルバルドは拘束を仲間と解き脱走するが、その際おそらくニュートとの対比であろう懐いていたトカゲのような動物を窓から放り投げてしまう。動物が多様性を表しているということはありうるが、グリンデルバルドが気にしているのは動物の象徴としての側面ではないか。もし彼自身が象徴(英雄≒悪魔『世論(上)』リップマンp23)になろうと思うなら、他の象徴は不要だろう。『ハリー・ポッター』の世界にはライオンや蛇などのシンボルが数多く登場するが、平時にはそれらの象徴が競い合っており影響力は限られる(『世論(上)』リップマンp24)。グリンデルバルドはそのような象徴同士が潰し合う状態を望んではいないのだ。象徴は一つでいい。彼はまた幼児も容赦なく殺してしまう。彼らはフランスで拠点を作るためにある家の夫婦を殺して棺桶に入れ、家を乗っ取る。部屋を散策していると、小さい子供が一人いる。彼はそれを部下に殺させる(直接的な描写はないが)。幼児は何も知らずに命令してくるものだ。彼は泣いて何かを訴える。すると親は何かをしてくれる。グリンデルバルドはそれを受け付けない。彼が命令するものだからだ。彼は命令するためにいかに大衆を操作すべきか考える。彼はノーマジの傲慢さを象徴するようなヴィジョン、映像を見せる。魔法族の意見は世界に、民主主義に反映されていない。

そのような批判は、一九世紀の中葉にはもっと感情論の要素がつよく、西ヨーロッパ的教養のふるい古典的伝統、教養なき大衆の支配への教養ある人びとのおそれに起因していた。それは民主主義に対する恐怖であり、その典型的な表現をわれわれはヤーコブ・ブルクハルトの書簡のなかに見いだすことができる。そのような批判にかわって、ずっと前から、政党がその選挙宣伝を行ない、大衆を操作し、公論を支配するところの方法と手段の研究が、行われてきた。(p12)

『現代議会主義の精神史的状況』カール・シュミット

グリンデルバルドはクリーデンスの本当の名を言った。アウレリウス・ダンブルドアだと。それが本当なのかわからない。けれど、純血についての教育はすでにリタ・レストレンジとユスフ・カーマ(ウィリアム・ナディラム)との会話の中で、過去について、純血の一族について、その使命について迫真の表情で語るという形でなされている。ユスフ・カーマは復讐者としてクリーデンスを追いかけてきたが、それは相手が違っていた。しかし、復讐者(復讐すべきものがいない復讐者?)としてはクリーデンスの模範になるかもしれない。

国民は[正しい教育によって、]自分自身の意思を正しく認識し、正しく形成し、正しく表示できるようになる、というのである。そのことは実際上、教育するものが少なくとも暫定的には自分の意思を国民意志と同一視する、ということを意味するにほかならない。言うまでもないことであるが、生徒が欲するであろうところのことの内容がまさしく教育するものによって決められるのである。この教育理論の帰結は、独裁であり、これからはじめて創造されるべき真の民主主義の名における、民主主義の停止である。そのことは、理論上、民主主義を廃棄するわけではない。それどころか、そのことは独裁が民主主義の対立物ではないことを示しているがゆえに、そのことに着目するのは重要なことである。(p26,27)

『現代議会主義の精神史的状況』カール・シュミット

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生
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9/10/2020
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