メタ 『シン・ゴジラ』としての『君の名は。』

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新海誠監督の長編アニメーション『君の名は。』が、9月10日・11日の土日2日間で約85万2000人を動員し、興行収入約11億3500万円を上げ、興行通信社による全国映画動員ランキングで3週連続1位を獲得した。累計では早くも動員481万人、興収62億円を突破した。
映画『君の名は。』勢い止まらず3週連続1位 累計興収62億円突破 | ORICON STYLE

前提としての『シン・ゴジラ』

『シン・ゴジラ』がヒットした理由はいくつかあると思う。ゴジラのブランド、エヴァンゲリオンの監督がエヴァと似た演出でエヴァのような物語を書いている、震災と似た状況が描かれているなどなど。『君の名は。』に関係があるのは震災と似た状況が描かれていることだ。『シン・ゴジラ』には未曾有の危機に対する日本への願望や理想が描かれているという感想を何度か見たが、おそらくその通りで日本政府はひどい被害にあいながらもゴジラの活動を日本が自らの手で停止するという物語になっている。これは東日本大震災に比べるとどうかというのは微妙な問題だが、おそらく当時の政府よりもうまくやったということがフィクションで描かれているのだと思う。この映画は2011年当時の政府や東電の事態への対処が悪夢だったとして、それをよりマシな夢で書き換えたと言えると思う。ただ、人間ドラマを描いてないことは監督もそういう意図だという風にいってますし、それについて私も最初見て気になりましたが、それが少ないためにキャラクターなどに共感できるところが比較的少ないのが『シン・ゴジラ』だったと思う。

脚本に関して、製作側からは、「もっと人間ドラマを増やしてほしい」など、いろいろな要求があった。だけど、そういうものをすべてそぎ落としたところに、今回の映画があると思っていました。
【シン・ゴジラ】樋口真嗣監督がエヴァンゲリオンの盟友・庵野秀明総監督を語る「破壊しながら前に進む。彼こそがゴジラだった…」(2/4ページ) - 産経ニュース

震災映画と震災映画をつくる人の映画

『シン・ゴジラ』はまさに震災映画だといっていいと思う。最後のゴジラを停止させる演出などは震災を見ていないとすると何か変だなと思うほど異様なものだと思います。では、『君の名は。』は震災映画なのだろうか。『君の名は。』では『シン・ゴジラ』と同じように災害が描かれるのだが、前者は後者と違ってその描き方は抑制的というか、災害自体についてはほとんど省略されてその前後が多く描かれている。『君の名は。』は主人公の瀧が三葉と入れ替わる物語だが、これは単に男女が入れ替わるというだけでなく被災していない人物が被災した人物と入れ替わる物語でもある。そのために瀧は誰にも気づかれずに一人、三年前の被災地になる予定の場所にいて、一人だけ生き残った人物のような境遇に置かれるようになる。サバイバーズ・ギルト(Survivor's guilt)という言葉があるが、瀧は時間を超えてしまったために東京の新宿で一人、災害を生き残った人物のようになってしまう。彼は三葉が三年前に彗星の落下で死んだことを知らず、電話が通じない彼女を探すために自分の記憶を頼りに彼女が住んでいた町並みをスケッチし始める。その後、糸守町を探して瀧はもう一度過去の三葉と入れ替わり過去を書き換えるように三葉や糸守町の人々を救う画が描かれるのだけど、これはちょうど『シン・ゴジラ』が震災について「こうであればよかった」という物語を描いたというのと同じことのように見える。ここでも悪夢を実際よりマシなものに変えようとしているのです。それと符合するように瀧が三葉の口噛み酒を飲んで過去に戻る時に、アニメの輪郭などの線が色鉛筆で誰かが描いたように切り替わる。それは誰かが書き換えたように見えないだろうか。

現在日本のその場その場で生きている私たちは『君の名は。』の瀧のように震災を生き残った人間である。そして震災にあってしまった人をテレビやネットなどのメディアを見て、募金をしたりボランティアに行ったりと何かをしようとかしなければならないとか思った人が多いと思う。それらの人の多くは被災地を元通りにしたいと願ったと思う。『君の名は。』はそういう人が主人公の物語になっている。推測だが、私たちが募金やボランティアなどをするのと同じように、庵野監督や樋口監督は『シン・ゴジラ』をつくったのではないだろうか。悪夢をよりマシな夢に書き換えようと。『君の名は。』はそういう人のことが描かれている。『君の名は。』「こうであればよかった」と願い何かを創作した人、何か行動した人を描く映画になっているのです。震災に関する人間ドラマでこれ以上のもの、これ以上の共感を呼ぶものはないと思う。繰り返しになるが、なぜなら震災を見たほとんどの人が震災の様子、被害の酷さを見て何かをしようと思ったからです。それは『シン・ゴジラ』だけでなくて『あまちゃん』でもなんでも他の震災に関わるような創作物の全てに当てはまるだろうと思う。そしてその何かしたいという気持ちがラブストーリーとして結実するようになっている。

一回のやりなおし

『シン・ゴジラ』では直線的な時間の中でたくさんの情報を詰め込み観客を圧倒することに成功していると思います。ゴジラが成長の段階を踏んで登場しますが、同じように自衛隊の武器使用も段階を踏んで行われます。こういう時に武器を使っていいのか悪いのかからはじまって、武器使用の許可がおりるとわざわざ威力の少ない武器から順々に10㎜から15mm、20mmにいったあとはロケットになるのかとか(数字等適当です)、知識の段階を踏んでいることでそれがあたかも物語上意味のある知識のように思えてくるのです。そのような段階的知識をもとにして『シン・ゴジラ』は物語のリアリティを獲得していくのですが、それはわたしたちが震災の当時放射能に関して知識を得なければいけなかった状況ととても酷似しているように思います。そういう意味で『シン・ゴジラ』は震災映画です。震災に直面させられる映画というか。ただ、それは知識とかモノの側面に限られています。上にもあるように人間ドラマが乏しいのです。

『君の名は。』では同じように震災の「知識」が散りばめられているのですが、それは人間に関するものです。主人公の二人は被災してない人物と被災した人物ですが、彼らが入れ替わったり、入れ替わった先の時間軸がずれていることで、彼らは震災にかかわる様々な人と出会い彼らのなかに様々な人物像があらわれてきます。それは被害に遭ってしまう三葉の視点から見れば、それまで普通に生活をしていたのに死んでしまった人、死ぬとは思っていなかったのに死んでしまった人など、瀧の視点からみると彼は三葉の周りの人物も知っているので上に書いたようなサバイバーズ・ギルトに悩んでいる人、被災地にとりあえず行きたいと思ってる人などなど(この辺は何回か見たら詳しく書けると思いますが)、彼らはお互いに忘れたくなかった人忘れちゃダメな人といった風にお互いを思うのですが、それが共鳴してわたしたちはこの映画にでてきた様々なキャラクターやその感情を思い出し忘れてはいけないと思うようになっています。同時に被災の時点を一回やり直すことで、まるで震災についての人々のすべての感情が描かれているように見えるのではないかと思う。



サバイバーズ・ギルトの救済

われわれは父なる神を殺害してしまったがゆえにかくも不幸なのだ、という洞察。そして、パウロという男が、この真理の一片を、罪を贖うべくわれわれのなかのひとりの男がその命を犠牲として供したゆえわれわれはあらゆる罪から救済された、という妄想めいた福音という偽装されたかたちでしか理解できなかったのは大変よくわかる話だ。パウロの定言においては、もちろん、神の殺害ということは触れられていなかったけれども、犠牲死によって贖わなければならなかった犯罪とは殺人以外にはありえなかったであろう。そして福音という妄想と歴史的な真理との結びつきを確実にしたのが、犠牲となったのは神の息子であったという言明であった。(p225,226)

モーセと一神教』フロイト

殺害された父とは震災の記憶だろう。
9/10/2020
更新

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