『映画とは何か』 アリスのままで

ニューヨーク、コロンビア大学で教鞭をとる50歳の言語学者アリスは、講義中に言葉が思い出せなくなったり、ジョギング中に自宅までの道がわからなくなるといった事態が続く。やがて若年性アルツハイマー症と診断され、家族の介護もむなしく、アリスの記憶や知識は日々薄れていく。そんなある日、アリスは記憶が薄れる前に自らパソコンに残したビデオメッセージを発見し、自分が自分でいられるために、画面の中の自分が語ることを実行しようとする。
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アルツハイマーと関連がある映画であることを知らずにこの映画を観ることはできなかった。渋谷のシネパレスで予告を見てしまったのだから仕方がない。アリス(ジュリアン・ムーア)がアルツハイマーになることは分かっている。あとに残るのは、彼女がいかにアルツハイマー病になるかである。いかに、というのは徐々になのか急速になのか途中で病気の進行が和らいだり急に速まったりするのかということだ。

演劇は人間がいなければありえないものだが、映画におけるドラマは俳優なしでも成り立ちうる。パタンと閉じる扉や風に舞う木の葉、浜辺に打ち寄せる波、これらはそれだけでドラマチックな力をもちうるのだ。(中略)確かジャン=ポール・サルトルがいっていたように〔サルトルが一九四九年に行った講演「演劇の様式」を指すか〕、演劇では俳優からドラマが生じるが、映画ではドラマは背景から人物へと進んでいく。

映画とは何か(上) (岩波文庫)』アンドレ・バザン p260,261

この映画の場合、画面の深さは観ている人を不安にさせる。いつもの習慣通りにジョギングに出かけたアリスは、そのコースは自分の働いているキャンパスなのだが、自分がどこにいるのか分からなくなり迷ってしまう。不意に画面が深くなり、背景がぼやけて、息切らしたアリスの焦点の定まらない顔だけが映しだされる。彼女はとにかく何かを見失っているようだが、その最中彼女がアルツハイマーだと知っている私に時間が与えられる。ぼやけた背景でアリスの顔が異なる視点で何度も映し出される。与えられた時間の中で私は思う。もう症状がかなり進行してしまったのだろうか。彼女は帰り道を思い出すだろうか。それとも、強制シャットダウンでもされたみたいにこのまま何もかも突然忘れてしまうのだろうか。

画面の深さはイメージの構造の中に曖昧さをふたたび導入する。必然的にそうだとはいえなくとも(ワイラーの映画には曖昧さはほとんどない)、少なくとも可能性としてはそうなのである。画面の深さを用いない『市民ケーン』は想像できないといっても過言でないのはそのためだ。精神的問題を解く鍵がどこにあるのか、どう解釈すべきなのかについての不確かさは、まず第一に、映像の構図そのものから由来する。

映画とは何か(上) (岩波文庫)』アンドレ・バザン p127

画面がぼやける演出は眠りから覚める途中、眠ってしまう寸前などに用いられるのをよく見る。もちろん、アリスはランニングの途中で眠ってしまおうなどと思っているはずがない。彼女の意志とは無関係に精神が眠ってしまうのだ(実生活では眠れないのだが)。背景をぼかしているのはカメラであり、それはアリスの状態、顔の表情、身体的な表現とは無関係である。それ故、彼女の意志とは無関係に到来し、その継続も自分の意志とは全く関連がない症状について不安を抱かざるをえない。彼女の顔には何ら事態が改善する様子が伺えず、ただ背景がずっとぼやけていてそれがそのまま続くのかどうかその時になるまで分かることがない。

劇中でも告げられるが、アルツハイマーは治療することができない。アリスはどんどん病状が進行し、元あった記憶を忘れ知性をはじめとして以前にはあったあらゆるものを失っていく。彼女の記憶が薄れるとともに、彼女は自己記憶の人ではなく外部記憶の人になっていく。彼女は自分のことを何も覚えておらず、かかりつけの医者に嘘をついて強めの睡眠薬をもらい自分が自分でなくなったらそれを大量服用して自殺しようとしていた自分のことも覚えていない。自分のことを覚えているのは、自分のスマホであり他人であるが、最後になると自分のことという概念もなくなったかのようになってしまう。他人の記憶が彼女の記憶になってから、彼女の身近な他人がいなくなってしまったら、彼女はもう彼女ではないだろう。何も思い出せないし、自分について何を思い出してくれる人もいないのだから。自分の生活や家族の経済的な問題のために、ほとんど仕方なくアリスから皆離れていくのだけれど、次女のリディア(クリステン・スチュワート)だけがアリスのもとに残った。そのためにアリスのアイデンティティは失われなかった。

Lydia: Mom... Can you tell me what the story was about?
Alice: ...Love!
Lydia: That's right mom... It was about love.

映画が人々への愛に負っているものについて、ここで手短かに述べておきたい。ロバート・フラハティ、ジャン・ルノワール、ジャン・ヴィゴ、そしてとりわけチャップリンの芸術を完全に理解するには、彼らの作品が、どういった特色のある優しさ、どのような肉体的、感情的な愛情と映し出しているのか、あらかじめ知っておかなくてはならない。映画は他のすべての芸術にまさって、愛にふさわしい芸術であると私は思う。小説家であれば、登場人物との関係において愛よりも知性を必要とする。小説家の愛し方とは、何よりも理解することだからだ。チャップリンの芸術を文学に置き換えたとしたら、やはりある種の感傷主義に堕するだろう。そのために、まさに文学者らしい文学者で、映画的な詩情にはまるで縁がないアンドレ・シュアレス〔一八六八―一九四八年。フランスの作家〕のような作家が、チャップリンの「卑しさ」を云々するのも仕方あるまい。しかし、映画においてはその「卑しさ」こそが神話的な気高さに結びつくのである。

映画とは何か(下) (岩波文庫)』アンドレ・バザン p189

アリスは知性を失っていくが、最後に愛に至る。この映画は原作に小説があってそれを映画化したものだが、小説が知性を描くもの映画が愛を描くものだとしたら、この映画はアリスの病状を通して小説が映画になる過程を描こうとしているように見える。

Lydia: Night flight to San Francisco; chase the moon across America. God, it’s been years since I was on a plane. When we hit 35,000 feet we’ll have reached the tropopause, the great belt of calm air - as close as I’ll get to the ozone. I dreamed we were there.

ほとんど何も分からなくなってしまったアリスにリディアは戯曲『エンジェルス・イン・アメリカ』を朗読するが、最後のこのシーンは遠い世界で宇宙の果てで偶然再会した親子のように見えた。
9/10/2020
更新

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