RU f- kidding me? or RU f- kidding me? オデッセイ



火星での有人探査中に嵐に巻き込まれた宇宙飛行士のマーク・ワトニー(マット・デイモン)。乗組員はワトニーが死亡したと思い、火星を去るが、彼は生きていた。空気も水も通信手段もなく、わずかな食料しかない危機的状況で、ワトニーは生き延びようとする。一方、NASAは世界中から科学者を結集し救出を企て、仲間たちもまた大胆な救出ミッションを敢行しようとしていた。
映画『オデッセイ』 - シネマトゥデイ

「痛ってててて」と思わず口から漏れそうな場面、アンテナが刺さった自分の腹部に自分で救急処置をし腹の中に残ったアンテナの部品を取り出すワトニー(マット・デイモン)は青白い顔をしているが彼の物語はそこから始まる。最初に刺した針のない注射のようなものは麻酔だと思うが、麻酔をしても処置中には血が染み出してきてホッチキスで傷口は強引に塞がれ皮膚が潰れる、痛みの感覚がこちらまで伝わってくるようだった。というのがこの映画の現実性を支えている。痛みの感覚を通して、私のなかにマーク・ワトニー(my inner Mark Watney by Scott Kelly)が形成されてしまった。

火星の有人探査計画アレス3でワトニーらNASAのチームは大嵐に遭遇し、そのせいでMAV(Mars Ascent Vehicle)が傾き火星からの帰還が危うくなる。乗組員は探査計画を破棄し嵐の中MAVに乗り込んで火星を脱出することを選択し基地を出てMAVに向かうが、大嵐の中飛んできた通信アンテナのデブリがワトニーに衝突し彼は後方にふっ飛ばされる。乗組員らはワトニーのバイタルサインを確認するも反応が見られず、MAVの脱出限界が迫る中、船長のメリッサ・ルイス(ジェシカ・チャステイン)は最後まで彼を探していたが彼を死んだものとみなして残りの5人で火星を脱出する。

ワトニーは一人取り残されるが、早々と「火星では死なない」「植物学の力を見せてやる」「科学の力で生きる」と意気込んで火星でのサバイバル生活を直視していく。公式で下のような乗組員の孤立試験後の心理学者によるインタビューの動画(これだけでも面白い。マルティネス…)があげられているが、孤立した時の適性や対策などについては予めNASAによって準備されているとみて良いのだろう。
オデッセイ
(映画「オデッセイ」本編未収録映像: Right Staff Piece(ライトスタッフピース) - YouTube

下のインタビューでジェシカ・チャステイン言っているように、ワトニーは火星に一人取り残されて生死に関わる状況に常に置かれているわけだが、そのことばかり考えていては気が滅入ってしまうのは目に見えている。そこでユーモアが重要になってくる。ユーモアは精神の節約である(フロイト)。
オデッセイ
(映画「オデッセイ」インタビュー: ジェシカ・チャステイン(ルイス船長) - YouTube

フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己を――時には(三島由紀夫のように)死を賭しても――蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーが他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。

ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫)』柄谷行人 p140,141

ワトニーの自己手術で緊張した鑑賞者(この映画もしかしてシリアスなのか)は、彼のユーモアで解放される。ワトニーがどうやって自分をメタレベルから見下ろしたかは映画を見れば明らかで、自分で手術をしたあとで行った自撮りである。この映画ではあらゆるところにGoproのカメラが設置してあって、彼はそれに話しかける。彼は自分を観察対象にすることで自分を見下ろしているのだ。彼は科学で勝利すると言ったがその実験の材料は自分でもあるのだ(ゲーミフィケーションと似てるが)。そうすることの利点は自分に内面がないという風に自分を欺くことができることだろう。一人の時にそんなものが存在していたら辛すぎるだろう。自撮り、科学への熱中によって内面が吐露されるのを拒まなければならないのだ。あるいは、「自分は世界で初めて惑星に一人になった男」とか「世界ではじめてこの土地を歩いている」とか「世界最速の飛行」「宇宙海賊」といった役割や称号を自分に与えることで(死んでしまえばそんなことに意味は無いのだが)現実を読み替えていく。ただ、それにも限界(もちろん資源的な限界が最も堪えるのだが)があるのか、彼は時々「自分が死んだら…」といったような一人語りをしてしまう。じゃがいも用のケチャップが象徴的に切れてしまうが、その後にじゃがいもに鎮静剤をつけて食べていたのが見ていて不可解だった。その後にワトニーは「誰も怒らないよね」みたいなことを言っていて、調べてみると鎮静剤と訳されていたのはバイコディン(Vicodin)という薬で、用法用量を守れば鎮静剤なのだがそれを越えると麻薬のような逃避感覚や幸せな感じが得られるのだという。ただの味付けなのかもしれないが…(案外塩のような味がするのかもしれない)。

15か16歳の時に、「ハイ」になるために、処方箋が必要なタイプの鎮痛剤を常用し始めた。その数年後、初めてヘロインを鼻から吸引した。

「試してみて、すごく好きになった。それに、欲しければいつでも手に入った」と、リッチャーさんはAFPに語った。

ヘロインは、オキシコンチン(OxyContin)やバイコディン(Vicodin)などの鎮痛剤より安価で入手できただけでなく、これまで経験したことのないような幸せな高揚感があった。「自己否定的な考えが全部なくなった」とリッチャーさんは振り返る。
安価なヘロイン、米郊外の白人層に浸透 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

これを考えると精神衛生上ユーモアだけでどうにかなったというのは言い過ぎになるかもしれないが、それが重要だったことには変わりはないだろう。

ユーモアが重要なのは精神衛生のためだけではない。ワトニーは船長の残していったものの中からディスコミュージックを発見するが、それを自分の心情や体験に読み替えて、曲そのものを別の意味にかえてしまう。RU f- kidding me?はいい意味で言ってるのだろうか悪い意味だろうかとNASA火星探査統括責任者のカプーア(キウェテル・イジョフォー)が気にするシーンがある(字幕の表現で気になったところだ)。言葉は文脈や背景をもとにしていくつかの意味を持ちうるものであり、それがジョークの源でもあるが(ホット・スタッフ!)科学の源でもある。落ちている石に対して、これが狩りに使えると思い実際にそう使うのは一種のジョークでありユーモアである。石がその辺に落ちている歩くのに邪魔なものから、削ったり割ったりして別の用途に使うものになるまで何年かかっただろうか。あるいはウンコを肥料にするのには。放射性廃棄物が暖を取るのに役立つことを理解するには(ホット・スタッフ!)。そういった「石」に対する意味の多重化こそが科学であり、科学でたてられる仮説(Think different.)とはユーモアであり、実験はそのことを確かめる、そして「石」を叩いたり割ったりして道具を作るのは楽しいのだ。石油がただの燃料でプラスチックなどの石油化学製品として読み替えられることがなかったとしたら現在はどうなっていただろうか。この材料や環境はRU f- kidding me?ではなくて、RU f- kidding me?ではないだろうかと一瞬でも思えることが重要だ。

その意味では、ウンコや放射性廃棄物や70年代の音楽は火星では等価である。火星には水も空気も何もない。何か蓄積といったものが何もないのだ(少なくとも映画の中では)。だから、無力で無知な子どもとして火星に放り出されたら、何も現在的な果実がなくて多分すぐ死んでしまうだろう。ワトニーが生きていくためには過去の火星探査機などの遺産や痕跡をユーモアとして読み替えていくしかなかったのだ。

There's a starman waiting in the sky
He'd like to come and meet us
But he thinks he'd blow our minds
There's a starman waiting in the sky
He's told us not to blow it
Cause he knows it's all worthwhile

starman David Bowie

ヒューモアはフロイトがいうように「精神的姿勢」であって、むしろ「笑い」とは関係がない。

ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫)』柄谷行人 p142,143

9/10/2020
更新

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