先祖信仰 海街diary

湘南を舞台に、異母妹を迎えて4人となった姉妹の共同生活を通し、家族の絆を描く。鎌倉に暮らす長女・幸、次女・佳乃、三女・千佳の香田家3姉妹のもとに、15年前に家を出ていった父の訃報が届く。葬儀に出席するため山形へ赴いた3人は、そこで異母妹となる14歳の少女すずと対面。父が亡くなり身寄りのいなくなってしまったすずだが、葬儀の場でも毅然と立ち振る舞い、そんな彼女の姿を見た幸は、すずに鎌倉で一緒に暮らそうと提案する。その申し出を受けたすずは、香田家の四女として、鎌倉で新たな生活を始める。
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日本人は「伝統」という言葉にヨワいらしい。例えば選択的夫婦別姓制度の是非を巡る議論。安倍晋三首相ら反対派は「同姓が日本の伝統だ」と主張し、いくら専門家が「同姓は明治中期以降の新しい制度」と指摘しても聞く耳を持たない。このように最近は、新しく、ウソに近い「伝統」がやたらと強調されている気がするのだが……。【吉井理記】
特集ワイド:それホンモノ? 「良き伝統」の正体 - 毎日新聞

多分『マッドマックス怒りのデスロード』の前にこの映画を観たと記憶しているが、(kitlog: 子どものいない女たち マッドマックス 怒りのデスロード)これを書いた時には『海街diary』を意識していた。ブログの下書きが日付とともに証拠として残っていて、「子どものいない女たち 海街diary」でマッドマックスの記事の十日前にそれと同じタイトルで何か書こうとしていたが最後まで書くことができなかったようだ。そこに『マッドマックス怒りのデスロード』が彗星のごとくあらわれたので、同じ趣旨のことをそっちで書こうと思ったのだと思う。同性だけの関係(それを永遠化しようというふうに見える)は滅びの兆候のように見える。それが『海街diary』を観た時の第一印象だったのだが、それは単に兆候でしかなく『マッドマックス怒りのデスロード』はそのことをストレートにしかも長い射程で描いているように見えたのだ。

個人的には『海街diary』の映画のイメージは『マッドマックス怒りのデスロード』に上のようにかき消された印象があるのだが、上の「伝統」論争の記事を見て『海街diary』の記憶が蘇ってきた。(ここで『海街diary』をもう一度観ようと思わないのが私の怠惰なところである。しかし映画館でもう一度同じ時間に見ることができないのだから仕方がない。)

まぶしい光に包まれた夏の朝、鎌倉に住む三姉妹のもとに届いた父の訃報。十五年前、父は家族を捨て、その後、母(大竹しのぶ)も再婚して家を去った。父の葬儀で、三姉妹は腹違いの妹すず(広瀬すず)と出会う。三姉妹の父を奪ったすずの母は既に他界し、頼りない義母を支え気丈に振る舞う中学生のすずに、長女の幸(綾瀬はるか)は思わず声をかける。「鎌倉で一緒に暮らさない?」しっかり者の幸と自由奔放な次女の佳乃(長澤まさみ)は何かとぶつかり合い、三女の千佳(夏帆)はマイペース、そんな三姉妹の生活に、すずが加わった。季節の食卓を囲み、それぞれの悩みや喜びを分かち合っていく。しかし、祖母の七回忌に音信不通だった母が現れたことで、一見穏やかだった四姉妹の日常に、秘められていた心のトゲが見え始める....。
海街diary

この映画は不倫をして(不倫の映画について誰かが何かを書くと書いた人間は不倫をしているという短絡なのか俗流精神分析みたいなバイアスがあるらしいですが似たようなことがバイアスとして→に載ってます『シャーロック・ホームズの思考術』)出て行った父を許せない長女の幸とその父が不倫をしてできた子どもの四女すずとの関係が主眼にある。すずは父を許せない幸の存在のために自分を許せない。自分が不倫の関係で産まれた存在なので、その関係自体が許されなければ自分も許されるはずがないからだ。しかし、出自が不純だからといってすず自身に何か欠陥があるとか劣っているとかいうことは全くない。むしろ、すずは三姉妹が知らない父について知っており、三姉妹が語る父とすずが語る父が混交し、父が暮らした家や街や食べ物とともにその思い出が再活性化されていく。そして当初父を許せないと思っていた幸は最後にこう(いったようなこと)つぶやく。「お父さんいい人だったのかもしれないね。だってすずを残してくれたんだし。」ここに至って「父」は「伝統」になり、三姉妹とすずを繋ぐ役割を果たすようになった。この映画は三度も葬式が描かれるが、死んだ人間が生きた人間同士をつなぎとめることが描かれる。

「(ホテルで)酔って従業員に絡む人も」「寝間着にスリッパでロビーをウロウロする人は少なくなったが、じゅうたんにツバを吐いたりたばこを捨てて焦がしたり」「ひどいのはロビーのイスで足を開いて高イビキ」……

中国人は、礼儀正しさを伝統とする日本人とは違うなあ……と、あえてそう思い込んでしまう書き方をしたが、実は全て日本人がやらかしたこと。東京五輪の年、1964年3月19日付毎日新聞の東京都内版が報じた日本人のマナーの悪さを嘆くホテル側の声の一部である。前年7月1日付では「汚れ放題東京の顔 銀座の歩道はゴミの山」との見出しで、通行人のごみのポイ捨てや住民が路上にぶちまけた「台所の残り物」が散乱する様子を伝えている。
特集ワイド:それホンモノ? 「良き伝統」の正体 - 毎日新聞

おそらく父親について一番良く知っているのは結婚した母親だろう。上のあらすじにもあるが、母親は父親についてよく知っているというか思い出が子どもたちと違うために、父についてよく思っておらず父を否定し、三姉妹が父と暮らした思い出の家も売ってしまおうなどと言い始める。幸はそれまで自分以外に父を否定する人間があらわれて、父を否定することはすずを否定することというのが分かっているために、父を擁護し母に対して「子どもみたいなこと言って」と怒鳴るのだ。もちろん子どもみたいだったのはかつての自分だったのだが。母とはどう和解したのかちょっと忘れてしまった(墓参りと階段のシーンあと雨は覚えているが)が、ラストには母親は自分の家族のところに帰り父のイメージは保たれることになる。

是枝:原作者の吉田秋生さんに確認したわけじゃないけど、この話のベースには『若草物語』があるのかな、と思ったので、その辺はさかのぼって見直して、四姉妹の配置の仕方みたいなことはちょっと意識しました。『若草物語』も父親がいない話なんだけど、あれは最終的に父親が戻って来て完成する家なんだよね。

-欠けていたピースが揃う、と。

是枝:その安定感というものが理想としてあって出来上がっている非常に古典的な話だと思うんだけど、四姉妹の描き分けの描写なんかは当然ながら非常にうまい。そこは参考にしつつ、現代版の『若草物語』をつくろうとした時に、それはもはや父親と母親がいないことが前提になる。逆に母親が戻って来ると安定していたものが壊れるという(笑)。そこは、原作がかなり意識したところなんじゃないかとは思いましたね。

-そういう意味では非常に現代的なテーマですよね。

是枝:だと思います。父親と母親がいないことでむしろ安定している家族。

-もっと言えば、親はいらないという。

是枝:そう、いらないんです。そこに母親が帰って来ちゃうことで母親役をやっていた長女がブレるんだよね。いきなり娘にならざるを得ないから。そこが面白いなと思ったので、現代版『若草物語』として四姉妹をどう撮るのかは考えました。
special interview koreeda director そして、家族になる。是枝裕和の『海街diary』。 |HOUYHNHNM(フイナム)
9/10/2020
更新

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