「岬はヨダカじゃない」 さいはてにて

石川県珠洲市での約1カ月間のロケ映像を中心に作られた心温まるヒューマンドラマ。昼と夜とでガラリと“表情”を変える海を背景に、2人の女性の変化していく関係性を丁寧に描いた。

吉田岬(永作博美)は30年前、両親の離婚で父と生き別れになった。その父が8年前に行方不明になったと知った岬は、かつて父と暮らした能登半島の北部で焙煎コーヒー店「ヨダカ珈琲」を開業し、父の帰りを待つ。一方、コーヒー店の近くに住んでいるシングルマザーの山崎絵里子(佐々木希)は、価値観が異なる岬に嫌悪感を抱いていた。岬は絵里子の2人の子供たちと知り合い…。
【シネマプレビュー】「さいはてにて ~やさしい香りと待ちながら~」 - 産経ニュース

さいはてにて
(映画『さいはてにて~やさしい香りと待ちながら~ 』予告編 - YouTube

父を待つことが岬のアイデンティティの要でした。岬は父が唯一残した奥能登の船小屋をカフェに改装しそこに父が帰ってくるのを待っています。4歳の頃に生き別れた父について、彼女は何故か自分が父を見捨てたと思って罪悪感のようなものを抱いているように見えます。その父は8年間行方不明で法的に死亡者扱いになってしまった。弁護士が父の借金の相続と財産として船小屋が残っていると伝えに来た、ほとんど父が死んでしまったことは確実です。それでも彼女は父を待っている、船小屋をカフェに改装して。この情熱はどういうことでしょう。情熱?それは情熱ではなく絶望ではないか。 映画の前半だけを見れば、岬にとっての救いは父が船小屋に帰ってくることです。それはほとんど不可能なことです。けれど彼女は自己自身が船小屋で待つこと自体が父が生きている証拠だと言わんばかりに、そこで待ち続けるのです。父が教えてくれたギターの音色をを真似しながら。そうすることで彼女は彼女自身であり続けることを欲するようになります。これを絶望と言わずなんというべきでしょうか。死んだ人間は自分からは全く動かないし何も答えてはくれません、それなのに死んだ人間に何かを期待するということがあるとしたら、それをなんと呼ぶべきでしょうか。彼女には不在の父との関係以外まったく存在していない、そんな(そのための)辺境の地が「さいはて」の奥能登でした。そのつもりでした。 岬は船小屋を改装したカフェにヨダカ珈琲と名付け、自分でブレンドした3種類のコーヒー豆にそれぞれヨダカ、カワセミ、ハチスズメと名付けます。ヨダカとはよだかの星のヨダカです。(よだかの星  宮沢賢治)よだかの星はコミュニティから迫害されアイデンティティも奪われてしまったヨダカが誰も傷つけないように星になることを目指し、最後には星になる話です。星になるとは永遠になるということです。ガリレイが言っていますが星こそが目に見えるもので最も風化しないものです。
しかし、大理石や金属よりいっそう確実で永続性のあるものを求めるひとは、詩神の保護の下に、つまり、不朽の文学作品に、偉大な人びとの名声を託します。ところで、人間の英知はこの地上に満足しきっていて、あえてそれを超えようとはしなかったと、どうしていえましょうか?それどころか、英知は人工的な記念物が暴力や自然の怒りや歳月によって、ついには破壊されることを十分に理解し見抜きます。そして、貪欲な時や嫉妬深い歳月もどうすることもできない、もっと滅びにくい記念物を考えだしました。こうして、天空に目をうつし、永遠に記憶されるきわめて明るい星の天球に、偉大な人びとの名をつけました。 『星界の報告 他一編 (岩波文庫)』ガリレオ・ガリレイ p8,9
岬は死体の見つからない父の発見が永遠に遅れさせられれば、彼女は船小屋で待つことで父が生きているという期待のなかで、父が残したギターの音色のなかで、永遠に風化しない記憶のなかで生きていられると思ったのではないでしょうか。
実存主義者キェルケゴオルのばあいはまさに典型的であった。詳しくはいわずとも、一八四○年代における西ヨオロッパ全般の生活環境は、ラジカルな労働運動の勃発のため、そしてまたこの運動の背骨をなす唯物論的な世界観のため、はげしい動揺にあったことを想起しさえすればよい。この二正面からの攻勢によって、知識人でありキリスト者であったキェルケゴオルの強いられた自己防御の記録がかれのいわゆる「例外者の哲学」なのである。自己を動揺する社会の例外として救うためには孤立した自己のうちへ還るより以外の手は、かれには許されなかったのだ。だから、彼のばあい、最も原始的なキリスト教の神、つまり世界の責任を一手に引き受ける神をその自己の内部に祀りあげた。 『人間の自由について (1956年) (岩波新書)』高桑純夫 p31
言わずもがな彼女が祀りあげたのは行方不明の父です。けれど、どんなところにも人間のいた痕跡のあるところには何故か人はいるし、まだ8年前には生きていた父の痕跡を通じて他の人とつながってしまいます。単独者でいるのはとても難しい。そして、岬が絶望していようがいまいが何かを生産していれば知らないうちに誰かを救っているのです。岬のおかげで絵里子もその子の有沙も翔太も皆救われている、有沙は岬のおかげで労働が自分の環境に対する解決だと知り、絵里子は男との関係の客観的な姿を強姦事件によって見せつけられ自分のことを理解し男に依存しなくても良くなった、実際にそのことで岬自身も救われているのですが彼女はそれを認めることができないでいました。だから、彼女は父の乗っていた沈没した船と死体が、つまり父が生きている証拠としての船小屋で待つ彼女自身に取って代わる父の死の証拠が見つかってしまうと、彼女はそこで築いたものをすべて投げ出してそこから出て行ってしまいます。 岬に興味を持った有沙はヨダカについて図書館で調べ、ヨダカ珈琲のヨダカとは『よだかの星』から来ていると先生に教えられます。
そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居(お)りました。 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。 今でもまだ燃えています。 よだかの星  宮沢賢治

さいはてにて
(映画『さいはてにて~やさしい香りと待ちながら~ 』予告編 - YouTube

ここには漠然とした死の予感や諦め、孤独が感じられます。有沙は岬に対して「岬はヨダカじゃない」と言い放ちます。確かに、岬は彼女自身がどう思っているかに関係なく孤立しているわけでもないし、絵里子たち家族と別の時間、永遠を過ごしているわけでもないのです。岬は3人を救っているし、3人に救われてもいる、父親のいない有沙たちにとっては岬は父のような存在だったかもしれません。決して星のような手の届かない存在ではないのです。けれど、岬は父の死が確定するとそこを離れてしまう。彼女は意識的にか無意識的にか自分の父と同じことをしてしまっています。彼女がその船小屋を離れてから、絵里子たちはずっと岬のことを待つことになるのです。それまでの岬のように。

最後にどうして岬が戻ってきたのかは何も描写されません。何かに気づいたのか、何か違う出来事があったのか何も描写されないところで、突然帰ってくる。少し不思議だけど何も描写されない分、単に戻ってきてくれて良かった、本当にそう思いました。

9/10/2020
更新

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