弱い存在のコミュニケーション 猿の惑星 新世紀

■自然界では食物を巡る競争はなし

「餌づけ」したサル群や動物園などでの観察から、ニホンザルはボスザルが群れを統率する階級社会で、血縁性、リーダー制、順位制があり、リーダーは勇気があって敵と戦うというイメージが一般に浸透している。ところが、徹底して群れを追って人に慣れさせ、至近距離から見る「人づけ」による観察法で、野生のニホンザルから得られた知見では、群れを統率するリーダーなどはなく、ボスザルという役割も存在しないという。

自然界では、同じ食物を巡ってサル同士が真剣に争うという場面は、別の場所で採食すればよいので生じない。ボス的な振る舞いが出てくるのは、餌づけによって同じ食物を狭い場所で各個体が同時に争うという特殊な状況が生まれたからだという(「ニホンザルの生態」伊沢紘生著)。競争的状況の中に置かれると、最強個体が幅をきかすというのは、人間社会も猿まねをしていることになる。
ニホンザルの群れ 実はボスザルは存在しない  :日本経済新聞

「猿の惑星」の前日譚(プリクエル)として往年の人気SFシリーズをリブートしたシリーズ第1作「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」の続編で、知性を獲得した猿たちが地球の新たな支配者として君臨する過程を描いた。猿のシーザーが天性のリーダーシップを用いて仲間を率い、人類への反乱を起こしてから10年。勢力を拡大し、手話や言語を操るようになった猿たちは、森の奥深くに文明的なコロニーを築いていた。一方の人類は、わずかな生存者たちが荒廃した都市の一角で息をひそめて日々を過ごしていた。そんなある日、資源を求めた人間たちが猿たちのテリトリーを侵食したことから、一触即発の事態が発生。シーザーと、人間たちの中でも穏健派のグループを率いるマルコムは、和解の道を模索するが、彼らの思惑をよそに、猿たちと人間たちとの対立と憎悪は日に日に増大し、やがてシーザーは生き残るための重大な決断を迫られる。シーザーには、前作に続いてアンディ・サーキスがモーションキャプチャーで息吹を吹き込んだ。監督は前作のルパート・ワイアットから、「クローバーフィールド HAKAISHA」のマット・リーブスへバトンタッチ。
猿の惑星:新世紀(ライジング) : 作品情報 - 映画.com

自らが生み出したウイルスによって、人類の90パーセントが死滅した2020年代の地球。サンフランシスコでは、かろうじて生存している人類と驚異的な遺伝子進化を遂げた猿たちのコミュニティーがゴールデンゲートブリッジを挟んで存在していた。人類のコミュニティーでは、衰退を食い止めるためにも、猿たちと対話すべきだとする者、再び人類が地球を支配するべきだとする者たちが、それぞれの考えに従って動き出す。一方、猿たちを率いるシーザー(アンディ・サーキス)は、人類と接触しようとせずに文明を構築していた。
映画『猿の惑星:新世紀(ライジング)』 - シネマトゥデイ

全体の印象として、ほとんど画面を支配しているのはエイプであって彼らは英語を話すものもいるがたいていは手話でコミュニケートしているので、なんとなくサイレント映画のような雰囲気を感じます。その甲斐あってか、人間側が小水力発電の修理に成功して電気が通り、廃れたガソリンスタンドでthe bandの『the weight』が流れた時に何かホッとするというか、これも1968年の曲でガーディアンズ・オブ・ギャラクシーみたいに古い曲を使っているのですが、なんとなく詞も含めて映画にあっているような気がします。



I pulled into Nazareth, was feelin' about half past dead
I just need some place where I can lay my head
"Hey, mister, can you tell me where a man might find a bed?"
He just grinned and shook my hand, "no" was all he said

Take a load off, Fanny
Take a load for free
Take a load off, Fanny
And (and) (and) you put the load right on me
(You put the load right on me)
THE BAND LYRICS - The Weight

ホッブズは人間を自然状態において万人の万人に対する戦いの状態だと仮定しました。人間が集まっていると不可避的に争いが起こるので絶対的な権力が必要だというのがホッブズの主張です。それに対してルソーはホッブズが人間が善性について何の観念も持たず本来邪悪であるとか美徳を知らないと仮定するのはおかしいと批判して、ルソー自身は人間の自然状態について、互いに孤立していて貪欲さを持ちあわせておらず、自己保存の欲求と同時に憐れみの感情も持っているとしています。

本作における重要なテーマとなるのは前シリーズの有名な格言、「猿は猿を殺さない」である。人間は人間を殺す。猿は猿を殺さない。したがって、人間は猿よりも劣る。そんな猿側の正義を担保していた三段論法が、しかしここでは崩れていく。そこに敢えて踏み込むことによって、我々が生きている現実の世界において絶え間なく戦争/紛争が起こり続けているメカニズムを解き明かしていくのだ。
猿の惑星:新世紀(ライジング) : 映画評論・批評 - 映画.com

エイプは「エイプはエイプを殺さない」というルールを順守しているがためにお互いに殺しあう人間よりも優れているという風に思っています。それが可能なのは、彼等が他の種、他の集団に出会おうとしてないからですね。言葉が通じない、何を考えているかわからない、そういう存在に遭遇した時の情念を避けている。それは恐怖かもしれないし、嫉妬かもしれないし、焦り、羨望、好奇心、恋愛など出会い方にもよりますが、ルソーの自然状態のように散在して暮らしていれば、そういった情念は生まれず、そこから生じる思想のようなものが仲間内で対立することはないのでしょう。

集団のどれかで資源が不足し、新しい資源を求めてフロンティアを開拓しようと思えば、必然的に他の集団とぶつかることになります。この作品では、はじめにエイプのテリトリーに人間が入り込みます。映画内ではじめて人間とエイプが遭遇しますが、お互いに自分のことを弱いと思っているのが分かります。銃を構えるのは身を守る行為である以上に自分を大きく見せることです。これは同時に攻撃的であることも意味します。エイプの側も歯をむき出しにして叫び威嚇をします。ここで何らかの意思疎通が可能であれば、お互いに威嚇を控えることができたのですが、それは英語を話せるシーザーが来るの待つしかありませんでした。銃を撃ってしまった人間側のほうが自分が弱いという思いが強かったかもしれません。人間が一人のエイプを撃ってしまった。この時生じたエイプそれぞれの情念をまとめることはとても困難です。エイプの集団はここからすれ違っていきます。

哺乳類はなかなか死なない。そもそも人間に優しく育てられたシーザーと、人間に実験台にされてひどい目にあったコバでは、人間についての考え方が根本的に違います。ルソーとホッブズくらいに違っている。コバは人間が大量の武器を仕入れているの見て、シーザーに人間と仲良くするのをやめろと警告しますが、ここでシーザーはコバを本気で殴りにかかります。顔が血まみれになるまでシーザーはコバを殴りますが、シーザーはあの「掟」を守って、すんでのところで殴るのをやめました。手に何か武器を持っていたら結果が違っていたと思います。シーザーは武器を嫌う、銃を捨てろと言う。銃が権力の構造を変えてしまうからです。エイプの世界では喧嘩が強いものがリーダーになれる、だからシーザーとコバの間に基本的な話しあいがない、人間が大量の武器を仕入れいているというのも言えずじまいに終わってしまった。故に彼等の間で誤解が生まれるはほとんど必然のようなものです。

3Dプリンター銃があれば、女性が男性同様強くなり平等になるという思想が去年ばらまかれましたが、コバはそれと似たような思想にのっとって武器を取りシーザーに反旗を翻します。弱い存在が自分を大きく見せるにはどうすればいいか、コバは考えたと思います。外圧を利用するんですね。コバは人間がシーザーを銃で撃った、人間がホームに火を放ったとして、人間対エイプという対立を強調し、エイプのために戦えとエイプをまとめあげる体裁を取り繕います。そして、戦争の前線においても先陣を切って人間側に立ち向かい突破口を開くことやってのけます。銃弾に当たらなかったのは偶然でしょうが、自分を英雄に見せる演出としては満点に近いと思います。

終盤において、人間とエイプは似たような行動を示します。コバの方はエイプのためと言いながら、死んだと思われるシーザーを慕う仲間を殺してしまったことで結局自分のためにやっていることがバレてしまいます。〇〇のためにというのが偽ものでしかないわけです。人間の側でもそうです。ゲイリー・オールドマン演じるドレイファスも、これが人間のためだと近くに仲間がいるのを無視して自爆してしまいます。これも自己満足でしょう。私怨と○○のためにという理想を混ぜて、自分を誇示しようとしているだけです。これは普遍的な問題ですが、それが悲惨な結果を生むことをこの映画は伝えています。
9/10/2020
更新

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