自助の行き先のその先 新感染半島 ファイナル・ステージ AKIRA
パンデミックが半島を襲ってから4年後。香港に逃げ延びていた元軍人のジョンソク(カン・ドンウォン)は、ある任務を遂行するために半島に戻ってくる。任務とは、チームを組み3日以内に大金が積まれたトラックを回収して半島を脱出すること。チームはウィルスにより凶暴化した人間たちから逃れ、順調にトラックを手に入れるも、突如とし631部隊と呼ばれる民兵集団に襲われてしまう。トラックも奪われ、危機一髪となったジョンソクを救ったのはミンジョン(イ・ジョンヒョン)母娘。そして、彼らはともに半島を脱出するために協力することになり・・・。新感染半島 ファイナル・ステージ || TOHOシネマズ
前作の批評(見えなかった娘の歌いたくなかった歌 新感染 ファイナル・エクスプレス - kitlog - 映画の批評)
(【公式】『新感染半島 ファイナル・ステージ』本予告 2021/1/1<元旦>公開 - YouTube) |
助ける、助けないの方向
『ニューヨーク1997』は観ていません。続編の『エスケープ・フロム・L.A.』は観ていますが、確かに世界観では影響を受けているかもしれません。世界観という点では、大友克洋のコミック『AKIRA』から、むしろ大きな影響を受けていると思います。ネオ東京にアメリカの軍隊が潜入してくるという、あの展開はとても印象的でしたが、それは本作にも取り入れています
『AKIRA』『マッハGoGoGo』からの影響も?ヨン・サンホ監督が明かす『新感染半島 ファイナル・ステージ』の舞台裏 - 2ページ目 |最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS
『新感染半島』は前作『新感染 ファイナル・エクスプレス』の映画と同じ時間から始まる。街中にゾンビが溢れ始め、ジョンソクは姉とその夫と息子の四人で車で韓国を脱出する船に向かっている。途中で彼らは車が止まって逃げられなくなった家族に会い助けを求められる。しかし、ジョンソクはその三人家族の夫が首から血を流しているのを見て、彼らを無視しそこから遠ざかろうとする。車の外のその妻は「私たちはゾンビに噛まれていないです、私たちがだめなら子供だけでも助けてください」と懇願するが、ジョンソクは彼らを無視して行ってしまう。ジョンソクは自分の家族を助けるために、他の家族を見捨てたのだが、今度は逃避先の船の中でもゾンビが発生してしまい、姉と甥がゾンビに噛まれてしまう。ジョンソクは軍人でもあるので、他の乗客を守る義務がある。そのために、姉の夫チョルミン(キム・ドゥユン)が二人を助けようとするなか、ゾンビが発生した部屋を封鎖しなければならなかった。彼は短い間で二つの家族を見捨ててしまった。そして、パニックのなかでなされたそのような見捨てることの全体が韓国を崩壊させてしまった。四年後ジョンソクらが韓国に戻った時、その状況を指して路上に大きく「神はわれわれを見捨てた」と書かれていた。
韓国脱出から四年後、ジョンソクは香港マフィアの計画に参加し、韓国に残された大金を回収しに行く。彼がなぜその計画に参加を決めたのか、義理の兄チョルミンがすでに参加を決めていたからか、半ば自暴自棄になっていたのか。計画は大金の発見には成功したものの、その後ゾンビと韓国の生存者が組織した民兵集団631部隊によって帰路を阻まれ、ジョンソクとチョルミン以外の参加メンバーは死んでしまう。ジョンソクはSUVを乗りこなす子どもジュニ(イ・レ)に助けられる。その子供は後に四年前に見捨てた家族の子供だと明らかになる。彼女はジョンソクに「助けられたくないなんてゾンビみたいね」という。
ゾンビは人間を見つけたら自動的に追いかけて、その人間を噛もうとする。ゾンビはその本能的なものに全く逆らえない、それを自分で延期するといったことができない。そういった意味でゾンビは究極的なエゴイストの一つの形態であろう。あくまでゾンビを人として見るなら、であるが。人はゾンビに感染していなくても、そのエゴイズムに感染させられてしまう。例えば、香港のマフィアは韓国へ出発前にジョンソクらに「人を助けてると死ぬぞ。」という。ジュニは「助けられたくないなんてゾンビみたいね」はジョンソクのエゴイズムを指してそういったのだろうか。それとも自助の行き先が自殺(ゾンビ化)であることを指してそういったのだろうか。ゾンビが人の話を聞かないからだろうか。この後、ジョンソクはジュニが四年前に見捨てた子供だと知って、崩壊した韓国でひっそり暮らしていたジュニの母親ら四人の家族の脱出の手助けをするようになる。その母親からは「今度こそ私の子供は助けて」と念を押され、ジョンソクはおそらく償いの気持ちで彼らを援護する。ここで、「助けられたくないなんてゾンビみたいね」に関する事柄はすぐに後景にいってしまうが、その言葉で思い出されるのが『AKIRA』である。それについては後に書く。物語は四年前に助けられなかったものを助けるという形で進行していく。「神はわれわれを見捨てた」を巻き戻そうとする。
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かくれんぼ、実体のない光
子どもが地震や避難の絵を描いたり、人や町が被災した場面の「ごっこ遊び」も、遊びを使って気持ちを整理したり表現したりするために必要なこと。子どもが自ら回復しようとしている過程なのです。やめさせたりせず、見守りましょう。
※注意すること
上記のような行動や様子、「ごっこ遊び」が数週間続くようなら、子どもがうまく気持ちの処理をできていない可能性があります。専門家の助けを求めてみましょう。
カウンセリングや、絵画・運動・遊びを通したセラピーなど、専門家による「心のケア支援」は、信頼できるおとながそばにいて、子どもたちが安心できる状態が確保できて、はじめて提供できる支援です。
カウンセリングや、絵画・運動・遊びを通したセラピーなどの支援には、専門的な知識や研修が必要です。専門的な知識が不十分、あるいは、研修を受けていない方々によるこれらの「支援」は、子どもたちの心の傷を広げる可能性があります。絶対に避けてください。
災害時の子どもの心のケア:一番身近なおとなにしか出来ないこと|日本ユニセフ協会
韓国に取り残された男たちがつくった民兵集団631部隊は、気晴らしに「かくれんぼ」というゲームをしている。彼らは10人くらいの男たちを囲われた広場に集めて、ゾンビに彼らを襲わせる。その中で逃げ惑う男たちを観戦して、631部隊の男たちは盛り上がっている。そこでは、ゾンビがうごめいている外の状況を自分たちの内部に再現し、安全なところからそれを見るというゲーム感覚がつくられている。それは自分たちは大丈夫だという優越感や、ゾンビがいる世界の外側にいたいという恐怖感をあらわしているのかもしれない。奇妙なのは「かくれんぼ」というずれたネーミングである。「かくれんぼ」という名で実際に行われているのは、明らかに「鬼ごっこ」である。狭い場所でゾンビが人間を追いかけるだけなのだから。韓国では「鬼ごっこ」と「かくれんぼ」が同じ名前なのかとも思ったが違うようだ。「かくれんぼ」がこの狭い場所で行われていることそれ自体ではないとすると、「かくれんぼ」は隠れていたことに対する懲罰ではないか。
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チョルミンは631部隊の襲撃で大金の輸送が失敗した後、その大金が積まれたトラックに隠れる。631部隊は何も知らずそのトラックを自分たちの基地まで移動させ、積荷を確かめたところでチョルミンを見つける。つまり、「かくれんぼ」は最初から始まっていて、631部隊がジョンソクたちを襲撃したのもそれが「かくれんぼ」だからではないか。なぜ、何の前触れもなくジョンソクらが631部隊に襲われたのか謎だったが、それがそういうゲームだったからだ。631部隊は自分たちに隠れて暮らしている人間を狩ってきてゾンビに襲わせるゲームをやっている。彼らのやっていることはなぜか人間を見つけて噛もうとするゾンビと何ら変わらない。そうやって心の健康を保っているのだろうか。彼らは食料集めもやっているので、少ない食料を保つための人減らしかもしれない。繁殖しているのはゾンビだけである。631部隊で見かけ上のリーダーをやっているソ大尉(ク・ギョファン)は「かくれんぼ」に参加せず、部隊と距離を置いていた。彼はそこを脱出する手段を見つけるまでは、そこにはもういない女性のポスター(繁殖の可能性)を眺めながら自殺しようとしていた。
631部隊が「かくれんぼ」をして舞台全体をゲーム化し、そこで現実を一段抽象度の高いものにしている。一番気になるのは、光の使われ方の問題である。ゾンビは夜になると光のもとに集まってくる。631部隊はその習性を利用して、強力な電灯を使ってゾンビたちを光の下におびきよせ操る。自分たちに危害が及ばないように光るトラックを走らせてゾンビを遠くに移したり、ジョンソクらを妨害するためにその行先に光を当ててゾンビを集めたりする。気になるのは、光があるのになぜ火がないのかということだ。ゾンビは蛾のように光に集まってくるが、それなら誘蛾灯のようなものが考えられる。ゾンビが光に集まるなら、火に集まることはないのだろうか。(ちょうど今放送されているテレビドラマ『君と世界が終わる日に』ではゾンビは火を嫌っていた)ゾンビが火に集まらないのなら、海に向かって誘導したらどうなるだろう。倫理的な問題を置いておけば、ゾンビの習性を利用して事態はかなり改善させることができるはずではないだろうか。ポストアポカリプスの舞台として、切迫感が少し弱いように感じられる。舞台の抽象度は他のところにも感じる。家があるのに生活感がないところや、車があるのにガソリンの心配がなさそうなところ、韓国にいるのに韓国と思えるような場所がない。ジョンソクらが大金探しに韓国に上陸したとき、その場所に土地勘があった人間は元タクシードライバーのおばさんだけである。他の三人にとっては何もわからない場所だ。そのおばさんも序盤に死んでしまう。韓国に戻ってきたのに誰も思い入れのない場所にいるような感じで、その舞台も抽象的なものに感じられてしまう。
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自助の行き先『AKIRA』
1988年7月、関東地区に新型爆弾が使用され、第三次世界大戦が勃発した。
31年後― 2019年東京湾上に構築されたメガロポリス、ネオ東京は翌年にオリンピック開催を控え、かつての繁栄を取り戻しつつあった。
健康優良不良少年のグループリーダー・金田は、荒廃したこの都市でバイクを駆り、暴走と抗争を繰り返していた。ある夜、仲間の鉄雄は暴走中、奇怪な実験体の少年と遭遇し、転倒負傷。呆然とする金田たちの前で、彼らは軍の研究所へと連れ去られてしまう。
鉄雄救出のために研究所へ潜入を試みる金田。だが、彼はそこで、過度の人体実験により新たな「力」に覚醒した、狂気の鉄雄を見る。
一方、研究所内の特殊ベビールームでは、実験体の少女が、「最高機密 = アキラ」の目覚めを予言。
鉄雄は自らの力の謎に近づくべく、地下深く眠る「アキラ」への接近を開始した―
「AKIRA」4Kリマスター版 - 映画・映像|東宝WEB SITE
(「AKIRA 4Kリマスターセット」(4K ULTRA HD Blu-ray & Blu-ray Disc)」4月24日発売中PV - YouTube) |
自分自身をすでに所有していると言い張りながらも死に弄ばれている、疎外されうる欲求および意志の主観性は、選びによって変貌を遂げる。選びは、主観性をその内奥性の資源に向かわせることで、当の主観性を任命する。義務が達成されても、それがより大きくなる責任によってたえず溢れ出る点で、これは無限の資源なのだ。したがって、個人〔=人格〕は客観的な裁きのうちで確証されるのであり、もはや全体性のなかで占める場所に還元されることはない。しかし、この確証は、かかる個人の主観的傾向に追従したり、死について慰めを与えたりすることではなく、他人のために実存すること、言い換えれば、みずからを問いただすことであり、死よりも殺人の方を恐れることである(p441,442)
『全体性と無限』エマニュエル・レヴィナス
鉄雄は金田に助けられたくないと思っている。最初のシーンでは金田の制止を振り切ってクラウンたちを一人でバイクで追いかけ襲撃する。クラウンの復讐にあった時も金田が助けに来るのだが、助けに来た金田に鉄雄は「なんで助けに来るんだよ」と不満を漏らし、イラついている。その鉄雄がアキラの力を得て超能力を使えるようになると金田に「今度は俺がお前を助けてやるよ」と言い張る。しかし、その力を肥大化させた結果、暴走し自分ではどうにもできなくなる。最後の最後に鉄雄は金田に助けを求めるが間に合わず、アキラとともに消えてしまう。金田と鉄雄の思い出が描かれるシーンは二人の和解をあらわしていると思われるが、それが現実では間に合わず、ネオ東京の一角が崩壊し映画は終わる。鉄雄の心は変化したが、それに金田が気付くのは鉄雄がいなくなってしまった後になってしまった。
この映画の中で最も重要な変化は、鉄雄が頭痛に悩まされ幻覚を見るシーンである。鉄雄はアキラの能力が発現して軍に連れ去られ病院に入れられたがそこから逃げ出す。鉄雄は金田のバイクを盗んでカオリと一緒にどこかへ行こうとするが、途中でクラウンたち暴走族の復讐にあう。カオリは暴行され、金田のバイクが燃やされそうになっているところに、金田がやってきて鉄雄たちを助ける。鉄雄は「なんで助けに来るんだよ」とイラつくが、その時頭痛がして幻覚を見る。一つは地面が割れる幻覚、それに続いて自分の腹が裂け内臓が飛び出す幻覚である。鉄雄はその幻覚のなかで必死に内臓をかき集めて元に戻そうとする。
この幻覚がなぜ重要なのか。それは、一つ目の幻覚は他人を心配する幻覚だが、二つ目の幻覚は自分を心配する幻覚だからである。これは幻覚が並列されているのではなく、前者から後者への変化を表している。それまではカオリや他のものを心配する余裕があったが、それ以降はそういった気持ちは鉄雄からなくなってしまう。鉄雄はその二つの幻覚を見た後、軍に連れていかれ病院のベッドで、夢を見る。子どもの頃の鉄雄と金田が公園で遊んでいる。すると、地面が崩壊し始め金田がそれに巻き込まれていくように見える。鉄雄は金田に手を伸ばそうとするが自分の身体も崩壊していく。この幻覚でも他人から自分へのシフトが起こっている。
そして、最初に見た二つ目の幻覚、自分の腹が裂け内臓が飛び出し、それを必死にかき集める幻覚は、政治家の根津が逃げ出すときのシーンとほとんど一致している。根津はアキラの研究を管理している軍の力を弱めて統制しようとするが、アキラの力をコントロールしたい軍は逆にクーデターを起こして、根津の邸宅を囲む。根津は証拠隠滅を図って部下に書類を燃やさせる。次のシーンではその部下も証拠隠滅のためか一人残らず死んでいる。根津は旅行カバンに必死になって株券をかき集め逃亡しようとするが、それは入りきらず溢れてしまう。根津は一人で逃げるが、発作が起き、薬を飲むことができず死んでしまう。イメージとして、カバンから株券が溢れそれを集める様子と、鉄雄の内臓が溢れそれをかき集める幻覚がとてもよく似ている。どちらも自分を助けようというシーンだが、根津のシーンはそのエゴイズムを明らかに描き出しているために、鉄雄の内臓をかき集める幻覚も鉄雄のエゴを表しているように思われる。地面が割れるイメージ、金田を気遣うイメージつまり他者を慮るイメージは、内臓が飛び出しそれを拾うイメージ、飛び出た株券を拾うイメージつまりエゴイズムのイメージに置き換わってしまった。幻覚の後、鉄雄の性格はすっかり変わってしまった。彼をそう変えたのは明らかにアキラの力である。
アキラはなぜそのような変化を鉄雄にもたらしたのか。鉄雄は最初から金田に頼りたくないという風に見えるので最初からエゴイズムを持ち合わせているように見える。また、そのエゴのために力が暴走してしまいネオ東京が破滅的な結果になってしまった、エゴは悪いという風に見える。どちらも間違いもしくは単純すぎると思う。アキラは人間のエゴを試しているのではないか。金田とケイがキヨコたちのいる施設で捕まり牢屋に入れられた時、ケイが人間の文明がどうやってできたのかについてアキラをもとにして語る。人間が橋とかロケットを発明したり、作ったりできるのはなぜなのか。人間が進化できるのはなぜなのか。アキラがそのエネルギーの源だとケイは語る。アキラとは何なのか。この映画ではその答えはエゴイズムなのだろうと思う(ケイの言っていることが正しいとも限らないが)。何々を知りたい、見たい、作りたい、表現したい。そのような方向へ向かえばまだよかったのだが、鉄雄が自分の中に見る先は、金田か金田のバイクしかないように思われる。要はアキラの力の行き場がここにはないのだ。
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