出来事の消失 ミッドサマー
家族を不慮の事故で失ったダニーは、大学で民俗学を研究する恋人や友人と共にスウェーデンの奥地で開かれる”90年に一度の祝祭”を訪れる。美しい花々が咲き乱れ、太陽が沈まないその村は、優しい住人が陽気に歌い踊る楽園のように思えた。しかし、次第に不穏な空気が漂い始め、ダニーの心はかき乱されていく。妄想、トラウマ、不安、恐怖……それは想像を絶する悪夢の始まりだった。
映画『ミッドサマー』公式サイト 絶賛公開中
(2020.2.21(金)公開『ミッドサマー』予告編 - YouTube) |
映画館の休業、白夜
新型コロナウイルスが流行して以降、様々な業種の店舗が休業せざるを得なくなっている。映画館もその中に含まれる。現在の日本は、地域によっても異なるが、一ヶ月程度の全国に対する緊急事態宣言を経て、それらの休業が解除されるかどうかの中間の位置にいる。私はここ一ヶ月ほど映画館に行くことができていない。車に乗って映画館へ行き、チケットを買って、それをスタッフに見せ、薄暗い空間の中に入っていく、ということを一ヶ月の間できていない。映画館に行けなくなって以降、私はずっと明るい空間に閉じ込められているような感じがしている。
この感じが『ミッドサマー』で描かれていることとよく似ている。
ダニー(フローレンス・ピュー)には双極性障害の妹がおり、その妹から別れを告げるような奇妙なメールが来て心配をしている。家に電話をしても誰も出ない。「妹に何かあったらどうしよう」と彼氏のクリスチャン(ジャック・レイナー)に電話で相談するのだが、彼や彼の友人たちは心配性で依存症気味のダニーにうんざりしている。その後、ダニーの妹と家族が車の排気ガスによる一酸化炭素中毒で心中したことが明らかになり、ダニーはとてつもなく落ち込み引きこもってしまう。それから時間がたってダニーが動けるようになった頃、クリスチャンは彼女の様子を見に来てパーティーに誘う。ダニーを元気づけるつもりだったが、クリスチャンたちは彼女に内緒でスウェーデン旅行を計画しており、ダニーは「何も聞いてない」「ちゃんと話してほしかった」と彼を責める。九十年に一度、九日間行われる夏至祭に参加し、表向き彼らは民俗学の卒業論文を書こうとしている。ただ、その旅行期間中はダニーの誕生日だ。クリスチャンは友人たちに「適当に勧めてくれ、多分彼女は行かないと思うから」というのだが、それに反してダニーは行きたいと申し出る。彼の友人のなかの一人、スウェーデン人のペレ(ヴィルヘルム・ブロングレン)はダニーに「自分も両親を亡くしている。この旅は君にとって良いものになる」といって慰めようとするが、彼女は感情が溢れそうになるとトイレに行き、次の瞬間には飛行機に乗っている。
(2020.2.21(金)公開『ミッドサマー』予告編 - YouTube) |
スウェーデンに着くと車に乗って村の手前まで行く。そこで夏至祭に参加するほかの若者と落ち合い、ペレの現地の友人からドラッグを勧められる。皆で一緒にトリップしないとだめなのだという。ダニーは最初は嫌がるが、渋々飲む。皆で草むらに横たわり、夜が来ないのをたどたどしく不思議がっている。スウェーデンは白夜で日が落ちないのだ。あたりはずっと明るいままだ。そうしているうちに、ダニーは自分の足が草になっているのを見て怖くなり、その場を離れるが、今度は他の参加者たちが自分を笑っていると怯えはじめ、森の方へ走っていきそのまま倒れてしまう。何時間後かに目を覚ました時も、辺りは明るいままである。彼らはそこから夏至祭が行われるホルガの村まで歩いていく。
(2020.2.21(金)公開『ミッドサマー』予告編 - YouTube) |
植物の神話
さまざまな狩猟地域で狩猟や戦闘をしている遊牧民から、より定まった所に住んで村落生活を送っている熱帯地方の民族――昔からずっと動物性ではなく植物性の食物を基本的な食べ物にしてきた、主として菜食主義的な環境に暮らす民族――に目を移すと、戦闘技術にまつわる心理も神話もほとんど(あるいは全く)必要としない比較的穏やかな世界が見いだせると期待してよいでしょう。しかし、すでに述べたように、こうした菜食主義的な世界では新しい生命は腐敗した物質から生まれ、生命は死から生じるという見解、また、前年に生じて成長したものの腐敗物から新しい植物が生まれるという見解にもとづいた、とても奇妙な信念が、これらの熱帯地方全体に見られます。そのため、こうした地域の民族の多くに顕著に見られる神話のテーマは、人は殺すことによって生命を増やす、という考え方を支えるものとなっています。事実、まさに世界のこうした地域で、人間をいけにえに捧げるという、最も残酷でグロテスクな儀式が、生命力を活性化させるために殺すという概念から依然インスピレーションを得ているのです。(p279,280)
『生きるよすがとしての神話』ジョーゼフ・キャンベル
ダニーたちはホルガの夏至祭が世俗的な簡素化された祭りではなく、伝統的で野蛮のままの祭りであることを知る。ダニーたちとホルガの人々は皆で一緒に食事をし、その後崖に連れていかれる。そこで食事でホスト役を務めていた老人の男女が崖から飛び降り自殺をし始める。一人目が飛び降りたところで、ホルガに招かれ若者たちは当惑し「何で止めないんだ」「こんなのおかしい」というが、その儀式は続行され、二人目の老人も飛び降りる。が、彼は死にきれず、木のハンマーを持った男が彼のそばに近寄って頭をつぶしはじめる。ダニーは両親の死を思い出して吐きそうである。
ここでは熱帯の菜食主義民族のように循環の思想が支配している。人生は四季のようなものとされ、一八年ごとに四つの季節を生き、人はそれぞれの季節で役割を変えるものとされている。そして、新しい生命が生まれるために、古い生命を終わらせないといけないとされている。彼らの先祖の魂はすでに倒れて枯れてしまっている古い巨木に宿っていると考えられており、それが腐ってまた新しい生命が循環すると考えられている。そのため、その枯れ木に立ちションをしてしまったマーク(ウィル・ポールター)は村人に本気で激怒され、最後にはひどい姿で殺されてしまう。村の人々はその掟に本気で忠実なのだ。その矛先が自分に向かわない限りは。村人の一人は儀式のいけにえにされ、死の間際に何とも言えない恐怖の症状を見せる。
死の儀式とともに生(性)の儀式も描かれる。秘密の閉じた村なので、そこでは人間関係がとても狭い。なので、ある程度世代を経ると近親相姦かそれと似たようなことが起こってしまう。その周期がおそらく夏至祭の周期と同じ九十年なのだろう(長い気がするが)。近親相姦で奇形の子供が生まれると、彼は村の預言者として選ばれ、書物に何かの落書きをし村人はそれを丁寧にアーカイブしている。夏至祭では近親相姦に気を付けるために、外から別の血を持った男を連れてきて、村の女性と性交の儀式をさせる。それに選ばれたのがダニーの彼氏のクリスチャンだ。彼はドラッグを嗅がされて裸にされ、半ば強制的に儀式に参加させられる。その現場をダニーは鍵穴から覗いてしまう。彼女はまたしても吐きそうである。村の人々も彼女と一緒に泣いてくれるが、そこで生(性)も死もダニーにとってトラウマ化を通りこえて不感症化されはじめている。ドラッグの効果もあるだろう。お茶など口に入れるものすべてに入れられていて、手足が草のように見えると同時に周りの植物が動いて見えるほどだ。ダニーは夏至祭の女王を決めるコンテストで優勝し、花のドレスと花の王冠を着させられ、いけにえを決める権利も与えられる。彼女はクリスチャンを選ぶ。
(2020.2.21(金)公開『ミッドサマー』予告編 - YouTube) |
出来事の焼失
ツァラトゥストラを病気にするものとは、まさしくサイクルのイデーなのである。〈一切〉が回帰するというイデー、〈同一なもの〉が回帰し、すべては同一へと回帰するというイデーである。なぜならそういう場合には、〈永遠回帰〉は一つの仮説にしか過ぎないから。陳腐でもあり、かつ同時に恐怖に満ちた仮説に過ぎないからである。陳腐だというのは、その仮説がある自然的な確信、動物的な、直接=無媒介的な確信と同等になってしまうから(であるからこそツァラトゥストラは、鷲と蛇が彼を慰めようと努めるとき、彼らに向かってこう言うのだ、「おまえたちは〈永遠回帰〉を言い古された〈きまり文句〉にしてしまった、おまえたちは永遠回帰をよく知られた、知り尽くされた「言い回し」にまで還元してしまった」、と)(p68,69)
『ニーチェ』ドゥルーズ
ダニーはいつも双極性障害の妹のことを心配していた。妹からくるメールを深読みし、「何かあったらどうしよう」と心配していたが、最後のメールまでは心配事は現実にはならなかった。しかし、それは起こったのだ。妹は家族とともに自殺してしまった。ダニーはその事実に心を病み引きこもり、いつまでも妹と家族の死を悪い形で思い出してしまう。
そんな彼女にホルガの人々は何を提供したのか。それは出来事など起こらなければいい、ただ人や物が植物のように循環するだけだという体験と考えだ。植物が枯れたとしても、その枯れたものを養分として新しい芽が生えてくる。人の生命もそのような循環の一部であるとドラッグの力も借りて理解させる。ホルガの人々は、そう考えてみれば妹の死や両親の死は大したことではないといっているのだ。そして、その村の考え方を理解してダニーは目の前でクリスチャンをいけにえに選んで焼き殺されるのを見てほほえむ。同時に彼女には今後何か心配するような出来事は考えられそうにないからだ。妹を心配していたのは何か出来事、例えば自殺や事故などが起こるかもしれないということがあったからだ。しかし、循環のなかではそのような出来事は一切起こらない。それは循環を乱すために集団から排除されるのが当然のこととなってしまう。
ホルガの人々にとって、そのような出来事の象徴は熊だろう。それは突然山から下りてきて人を襲うことがありうる。それは村の外部からやってきて循環を乱そうとする存在だ。同じようにクリスチャンたち外部からやってきた人間も循環を乱すものとしてすべて殺され、循環を守るためにいけにえにされる。彼らはホルガについてのレポートを外部に公表しようとしたり、勝手にホルガの文書を持ち出そうとしたり、勝手に村から抜け出そうとした。理由は何でもいいが彼らには生物学的な点以外で外部が必要ないのだ。彼らは出来事を禁止する。クリスチャンは熊の毛皮を着せられ着ぐるみのようになったまま黄色い三角の施設に運ばれる。そこには外部から来た四人と村の四人、女王が選んだクリスチャンが並べられる。そこに火がつけられる。彼らは出来事が起きないように出来事に火をつける。そうすれば、また同じ九十年がやってくる。
(ここで焼かれたのは映画館ではないか)
(2020.2.21(金)公開『ミッドサマー』予告編 - YouTube) |
「原始人」たちの知性は本質的にはわれわれの知性と異ならない。彼らの知性は、われわれの知性と同じように、動を静へと変換し、作用を事物へと凝固させる傾向を持つはずだ。したがって、知性の影響のせいで、数々の禁止は、それらが関係する諸事物のなかに置かれたと推測することができる。禁止は数々の傾向に敵対する抵抗でしかなかったが、大抵は傾向は一つの対象を持つので、あたかも抵抗がこの対象のなかに宿るかのように、この対象に抵抗が由来し、かくして抵抗はその実体の一つの属性になったように思われたのだ。停滞している社会では、この固定作用は決定的な仕方でなされた。変動している社会では、この固定作用はそれほど完璧なものではないことがありえたし、いずれにせよ、一時的なものであり、そこでは知性は最終的に禁止の背後に一個の人格を見出すだろう。(p175,176)
『道徳と宗教の二つの源泉』アンリ・ベルクソン
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