擬似家族からの解放 トイ・ストーリー4

“おもちゃにとって大切なことは子供のそばにいること”―― 新たな持ち主ボニーを見守るウッディ、バズら仲間たちの前に現れたのは、彼女の一番のお気に入りで手作りおもちゃのフォーキー。しかし、彼は自分をゴミだと思い込み逃げ出してしまう。ボニーのためにフォーキーを探す冒険に出たウッディは、一度も愛されたことのないおもちゃや、かつての仲間ボーとの運命的な出会いを果たす。そしてたどり着いたのは見たことのない新しい世界だった。最後にウッディが選んだ“驚くべき決断”とは…?

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トイ・ストーリー4
(Toy Story 4 | Official Trailer 2 - YouTube

フォーキーというテロリズム

『トイ・ストーリー3』でウッディたちの持ち主になったボニーだが、飽きてしまったのか何なのか、ウッディとは遊ばなくなってしまった。その上、ボニーの親はウッディをほとんど無視していて、足で踏んでいても気づかない。ウッディはネグレクトされている。ある日、ボニーがお試しで幼稚園に行くことになるのだが、不安がって行きたくなさそうにしている。ウッディはそれを見てボニーのかばんに忍び込み幼稚園までついていく。工作の時間のようだが、ボニーの周りの無神経な子供が勝手に道具を持っていって、ボニーは泣きそうになる。ウッディは「たいへんだ」と思い、ゴミ箱から工作の道具を拾って、ボニーの前に知られないように置いておく。すると、彼女は先割れスプーンとアイスの棒、針金、紙粘土でフォーキーという名前のおもちゃを作る。彼女はフォーキーを先生に見せると褒められ、ご機嫌になり元気を取り戻したようだ。ウッディもそのことに満足しているようだった。

家に帰ってきて、ウッディはおもちゃの仲間にフォーキーを紹介しようとする。すると、フォーキ-は「僕は何で生きてるの、僕はゴミだー!」といって、ゴミ箱に身を投げてしまう。ウッディはフォーキーはボニーが大事にしているおもちゃだといって、フォーキーをゴミ箱から救い出すが、何度も自分はゴミだといって自分からゴミ箱に入りに行ってしまう。

デュシャンは、小便器の形状をデザインしてつくったわけではない。既製品を選んだだけである。既製品を選択する行為によってもアートは制作されうるのか。それまでの芸術概念とは明らかに反する《泉》を通して「芸術とは何か」が問われている。既製品の便器が《泉》というタイトルのもとで美術の文脈に置かれたとき、鑑賞者は、はたしてこれはアートなのだろうか、と考えざるをえなくなる。デュシャンは、1957年4月にヒューストンで行われた報告で、鑑賞者の役割が重要であるとも言っている(*4)。

"芸術家は、一人では創造行為を遂行しない。鑑賞者は作品を外部世界に接触させて、その作品を作品たらしめている奥深いものを解読し解釈するのであり、そのことにより鑑賞者固有の仕方で創造過程に参与するのである。

ーーマルセル・デュシャン、北山研二訳、ミシェル・サヌイエ編『マルセル・デュシャン全著作』(未知谷、1995)286頁"

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現実にゴミ扱いされているのはフォーキーではなくウッディの方である。ウッディは遊ばれなくなって放置され、大人には踏まれても気づかれない。ボニーの家の中では、おもちゃとゴミの境界が揺らいでいる。ウッディがアンディからもらったおもちゃだということは忘れられ、おもちゃたちはフラット化した世界に並んでいる。そして、おもちゃかそうでないかはデュシャンの泉がアートかそうでないかのように選択の問題にされている。ウッディにとってはフォーキーは自分にとっての最悪の可能性である。もしかしたら、自分は誰にもおもちゃとして譲り渡されず、ただゴミ箱に捨てられる運命かもしれない。ゴミがおもちゃになる可能性があれば同様におもちゃがゴミになる可能性も発生する。ボニーが家の中にいられないという不安、幼稚園に行かないといけないという不安は、フォーキーを通してウッディの自分がゴミになるかもしれないという不安につながっている。それが結果的にウッディを縛るものとなっている。不安によってウッディは従属させられている。これは一種のテロではないか。フォーキーはおもちゃにとって少なくともウッディにとって不安のシンボルである。

日本においては、忠誠や服従の問題は、テロルを賢明にあわせ用いた、伝統的象徴への訴えかけによって解決しえたのであり、「自然発生的」な民族感情にほぼまかせておいてよかった。(p117)

小作人の生存手段に対する地主の権力は、数多くの巧妙なやり方によって、小作人やその他の人々に常に明らかにされていた。農民の地主に対する関係を律していたのは、敬意を表して従うという念の入ったしきたりの裏にある、この窮極的な罰であった。小作人は注意深く「地主の顔色」をうかがっていた。この叙述はR・P・ドーアによっているが、彼は地主の権威の暗黒面を過大評価するのではなく、過小評価する人である。そのドーアでさえ、小作人が敬意を表わし従うのは、経済的に従属しているという厳然たる事実に基づいて、利益とむきだしの不安の種とを意識的に計算したその結果であると、結論づけているのである。従って、アメリカ人訪問者を珍しがらせ、自分の経験と対照的であると考えさせた、日本の敬意を伴う服従の精巧なしきたりの源泉は、少なくとも農村部では、不安と従属であった。(p123.124)

独裁と民主政治の社会的起源(下)』バリントン・ムーア

ウッディは存在の不安に対して、忠誠心という回答を出すことしかできない。フォーキーを助けている間は、自分はボニーに必要とされていると感じるかもしれないが、ボニーはそのことに気づくことはできない。ボニーはウッディの頑張りを何も知らない。ウッディは「俺にはこれしかないんだ」といってフォーキーを助けることを最優先にするが、九年ぶりにあったボー・ピープからは「あなたは迷子なのね」と言われてしまう。

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ギャビー・ギャビーが望んでいた声

アンティークもまた人間の選択の問題である。アンティークはある物が今使われるよりも時間を置いてからの方が価値が高くなると見込んで人間が選択した結果である。しかし、時間を経れば何でも価値が上がるかといわれるとそうではない。アンティークショップに置かれているだけで、その物の価値が上がるわけではない。その物が誰かによって価値があるとして選ばれなければならない。ただ、この映画では商品に値札は明示されない。おもちゃの世界で虐げられているように見えるものも貨幣価値ではすごいということもあるかもしれないが、ここでは明らかにされない。

もし人が森林やぶどう酒を最初に意図したよりも長く熟成させようと決心したとすれば、それはそのほうがいっそう有利であることを発見したからにほかならない。この場合には森林やぶどう酒の新しい利用方法が存在するのであって、それは決断の瞬間においては明らかに価値の増加をもたらさなければならない。しかし時間の経過にともなう第一次的な独立現象としての本来的かつ恒常的な価値増殖というものは一般には存在しないのである。(p86,87)

経済発展の理論(下)』シュムペーター

ウッディとフォーキーが中にボーがいるかもしれないと思って入ったアンティークショップにいたのがギャビー・ギャビーである。彼女ははじめから不良品で、ボイスボックスという定型の声を出す機械が壊れていた。不良品として誰も持ち主になろうとするものがあらわれず、彼女はずっとそのままアンティークショップにいる。彼女は自分が壊れているために子供から選ばれないと思っている。しかし、彼女が壊れていることを子供が知っているのかどうかは分からない。彼女はウッディが自分と同じタイプのボイスボックスを持っていることを知ってそれを無理やり奪おうとする。自分が完璧な声さえ発することができれば子供は自分を選ぶだろうと彼女は思っている。

ギャビー・ギャビーはアンティークショップのオーナーの孫・ハーモニーに遊んでもらいたいと思っている。ハーモニーが店の中のものでママゴトをしていると、ギャビー・ギャビーは遠くでそれを見ながら人間のようにティーカップを手で持って、「こうやるの」と自分の取扱説明書を見て想像している。彼女の不安は周囲に下っ端として腹話術の人形を連れて歩いていることにあらわれている。腹話術は機械が話すわけではない。人間が腹話術師となって、人間がしゃべり、人間がそれにあわせて腹話術人形の口を動かすのだ。だから、本当はギャビー・ギャビーは機械の部分が壊れているかどうかは関係ないことは知っている。取扱説明書の通りに遊んでもらえなくてもいい。彼女は子供に腹話術のように自分の声を自由に作って欲しいのではないか。

ギャビー・ギャビーは結局ハーモニーに選んでもらえず、打ちひしがれていたところをウッディに助けられ、アンティークショップを抜け出す。他のおもちゃたちとの合流地点である移動遊園地でギャビー・ギャビーたちは迷子で泣いている子供を発見する。ギャビー・ギャビーは彼女を持ち主として選んでもらうことを決める。子供の視界に入る場所に移動し、視線を誘導し、ボイスボックスを動かす。ギャビー・ギャビーを見つけた子供は、「あなたも迷子なの」といってギャビー・ギャビーを持ち上げる。ギャビー・ギャビーの周りにはもう腹話術人形はいない。迷子の女の子の不安がギャビー・ギャビーと通じている。そしてその不安はもはやギャビー・ギャビーのものではない。迷子の女の子はギャビー・ギャビーと不安を分け合い自分で問題を解決することができる。子供はおもちゃのように陳列棚に置かれて待っているだけではない。迷子だった子供はギャビー・ギャビーを抱え「私たち迷子なの」といって女性警察官に困っていることを告げることができるようになった。それはギャビー・ギャビーが望んでいた子供の声である。

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ボイスボックスと心の声、定型文の解消

この映画ではバズは何か迷ってしまうことがあると、自分の胸のボタンを押しボイスボックスから流れる無作為の定型文の声をあてにして行動してしまう。それはウッディがフォーキーを助けることができなくて困っているときにも、何度もボタンを押して自分の心の声を確認するが、ウッディを見捨てる以外の選択肢が出てこなくて、バズはその通り一度はウッディを見捨ててしまう。それはまるで、バズに自分の思っていることが存在していないかのようである。

もし、人はほんとうは事象それ自体を判断する能力を持っていないとか、人の判断能力は独自の判断を行うには不十分であるとか、私たちがせいぜいそれに求めることができるのは、すでに確立された標準から導かれたお馴染みの規則を正しく当てはめることだけだと仮定しうるなら、標準の喪失は道徳的世界の破局ということになるだろう。

もしそれがほんとうならば、つまりもし人間の思考が、出来合いの標準を持っている場合にしか「判断」できないような性質のものであるならば、危機に陥った近代世界において蝶番が外れたのは世界の方ではなく、むしろ人間の方だと言ってもまったく正しいことになるだろうし、一般的にはそう仮定されているらしい。こうした仮定は昨今のあくせくとしたアカデミズムの至る所にはびこっており、その最も顕著な証は、世界史や世界史上の事件を扱う歴史学が解消されてまず社会科学になり、それから心理学になったという事実である。(略)活動者としての、つまり世界内の目に見えるできごとの作者=創始者としての人間を閉め出して、単にそれぞれの情況でそれぞれの行動をとるだけの生き物に人間を格下げした場合に限り、行動様式は体系的な研究の対象になりうると。なぜなら上記のように格下げされた人間については実験を行うことができるし、さらに最終的には彼を支配下に置くことができると期待すらしうるからである。(p199,200)

政治の約束』アレント

ウッディはギャビー・ギャビーのフォーキーとウッディのボイスボックスを交換するという提案にのる。全てはフォーキーを助けるためだ。ウッディはボイスボックスを失うと同時におもちゃとしての定型文も失う。ウッディは元の保安官のおもちゃではなくなってしまい、ギャビー・ギャビーに代わって不良品になってしまった。それで彼はウッディではなくなって、彼は彼の性質の全てを失ったのだろうか。

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おもちゃたちの階級闘争、フォーキーという希望

自由な選択による契約関係よりも、身分と軍事的忠誠とを強調する日本の封建的絆の特性は、西欧流の自由な諸制度の背後にある原動力のひとつが欠けていることを意味した。更に、日本の政体における官僚制的要素は、結果としてブルジョワジーに旧来の秩序に挑戦しえない従順で臆病な性格を与えていた。(p45)

資本を持つ者と労働力を持つ者との分離や、生産過程における資本・労働力の再結合には、資本主義的産業の世界との類似性がみられる。日本各地から十七世紀の百ほどの村落の記録を集めて検討したある研究によれば、ほとんどの村落において、田畑所有者の四〇から八〇%が家屋敷を持っていなかったことが、明らかである。ところが、大土地所有者と労働提供者との間の温情主義的な、擬似親族的な関係が、村落内での階級闘争の発生を妨げることになった。(p61)

独裁と民主政治の社会的起源(下)』バリントン・ムーア

人間がおもちゃを選ぶことができるなら、おもちゃも人間を選ぶことができるのではないか。そう考えるとき、ゴミにされるかもしれないという不安のシンボルだったフォーキーは持ち主に縛られなくても良いのではないかという希望のシンボルにもなりうる。ボニーの部屋ではウッディは存在していることができるが、存在していることがギリギリできるだけである。ボニーには無視され、ボニーの親からは踏まれても気づかれない。ウッディはボニーのためにフォーキーがいなくならないように必死だったが、それも評価されることはない。そこにウッディがいる理由がほとんどない。それでもおもちゃはそこにいなければならないのだろうか。ウッディは他のおもちゃと一緒いながら迷子である。

ウッディはフォーキーを助ける作戦に失敗し、ボーたちが負傷してしまったが、それでもフォーキーを助けたいといった。ウッディはそれをボニーへの忠誠心といったが、同時にそれが自分にできることの全てだとも言った。ギャビー・ギャビーがウッディのボイスボックスを得てハーモニーの前に現れるが、ハーモニーからは拒絶されてしまった。それで、落ち込んでいたギャビー・ギャビーをウッディは「一緒に外に出よう」と助けた。これは何かへの忠誠心なのだろうか。そうではないだろう。ウッディはおもちゃを助けたいと思っただけなのだ。それは誰にも命令はされていないしボイスボックスのようにプログラムされたものでもない。彼は自分がしたいことが分かった。それは、ボニーの家ではできない。だからボーと一緒に出て行くことに決めたのだ。「無限の彼方へ」「さあ行くぞ!」はウッディとバズが選んだ言葉だ。

ただ、おもちゃたちは人間に対してはっきりと声を上げることはできない。不当な扱いを受けても何も抗議することができない。ウッディは子供を見守って親のように振舞おうとしているが、彼は子供を叱ったりすることはできない。エンドクレジットのダッキー&バニーが妄想で巨大化し射的の露天商を怖がらせたり、アンティークショップの老婆を脅かそうとしたりしていたが、おもちゃにはそういったことは基本的にはできないことになっている。人間とおもちゃには絶対的な境界線がある。だとしたら、おもちゃにとっての希望は、もし自分がその場所にふさわしくないならばフォーキーのようにその場を離脱することになるのだろう。彼等はそうやって広い世界において複数性を確保するのだ。あるいは、おもちゃたちがボニーの父が運転する車を操作したように人間の行動に介入することになるのだろうか。それだと、半分ホラーだったこの映画のテイストが完全にホラーになってしまい、呪いの人形と同程度の存在になってしまうだろう。

私たちは殺伐とした異世界に親族関係の導入を願い、避難所や強力な要塞として家族を創設する。この願望が結果として政治の歪曲をもたらすのだ。なぜならこの願望は複数性の基本的性質を台無しにしてしまうから、より適切に言い換えるなら、それは親族関係の概念を導入することで複数性の本質を喪失させてしまうからである。(p183)

政治の約束』アレント

11/17/2020
更新

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