アメリカン・スナイパーの子どもたち 15時17分、パリ行き

2015年8月21日。アムステルダムからパリに向けて高速列車タリスが発車。列車は順調に走行を続け、やがてフランス国内へ。ところが、そこで事件が発生する。乗客に紛れ込んでいたイスラム過激派の男が、自動小銃を発砲したのだ。突然の事態に怯え、混乱をきたす500名以上の乗客たち。その時、犯人に立ち向かったのは、ヨーロッパ旅行中のアメリカ人の若者3人組だった。なぜ彼らは、死の恐怖に直面しながらも、困難な事態に立ち向かうことができたのか……?

15時17分、パリ行き | 映画-Movie Walker

15時17分、パリ行き
(映画『15時17分、パリ行き』本予告【HD】2018年3月1日(木)公開 - YouTube

米海軍特殊部隊ネイビー・シールズに入隊し、イラク戦争に狙撃手として派遣されたクリス(ブラッドリー・クーパー)。その任務は“どんなに過酷な状況でも仲間を必ず守ること”。狙撃精度の高さで多くの仲間を救ったクリスは “レジェンド”の異名を轟かせるまでになる。しかし、敵の間にもその腕前が知れ渡り、“悪魔”と恐れられるようになった彼の首には18万ドルの賞金が掛けられ、彼自身が標的となってしまう。一方、家族はクリスの無事を願い続けていた。家族との平穏な生活と、想像を絶する極限状況の戦地。愛する家族を国に残し、終わりのない戦争は幾度となく彼を戦場に向かわせる。過酷なイラク遠征は4度。度重なる戦地への遠征は、クリスの心を序々に蝕んでゆく……。

アメリカン・スナイパー | 映画-Movie Walker

私には『15時17分、パリ行き』は『アメリカン・スナイパー』の完全な続き、運命的な続きのように思えてならなかった。『アメリカン・スナイパー』は上のあらすじにあるように、イラク戦争に派遣されたスナイパーのクリス・カイルが四度の戦場経験を経てPTSDになり、それを癒やすために傷痍軍人の交流会で似たような経験をした人々と会うようになる。その後クリスは同じPTSDで元海兵隊員の男に射殺されてしまう。戦争に行った軍人が精神を病み仲間同士で殺し合いをしてしまう。『アメリカン・スナイパー』はアメリカの戦争疲れを表している。イラク戦争を批判して登場したオバマ前大統領は戦場から兵を撤退させ、「米国は世界の警察官ではないとの考えに同意する」と語った。『15時17分、パリ行き』に描かれるのは、フランスでテロが起こった2015年のことでこの後の世界だ。

(2013年9月3日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
イラクやアフガニスタンで戦争をしてきた米国は戦いに疲れており、経済も景気後退のために弱っている。シェールガス革命のおかげで中東への依存度はかなり小さくなっている。また、米国の国民はオバマ氏から一般市民に至るまで、自国の兵士が外国に出向いたら花束で歓迎されるなどという幻想をもう抱いていない。

むしろキップリングが例の詩で警告していたこと、すなわち「暮らしを良くしてやろうとすれば非難され/守ってやろうとすれば疎まれる」ことを予想するようになっている。

[FT]米国が苦悩する「世界の警察」という責務 (写真=ロイター) :日本経済新聞

2011/12/15付
オバマ米大統領は14日昼(日本時間15日未明)、フォートブラッグ陸軍基地で演説し「イラクの未来は国民の手に委ねられ、イラクでの米国の戦争は終わる」と述べ、2003年3月に開戦したイラク戦争終結を宣言した。イラクの民主化に果たした戦争の成果を強調し「米国民が乗りこえられない困難は何もないことが証明された」と訴えた。

オバマ氏は約3千人の米兵やその家族らの前に、ミシェル夫人とともに登場。自らが大統領に就任した約3年間で約15万人の米軍部隊がイラクから帰還したことを説明したうえで「数日中に最後の米軍部隊がイラクからの出国を始める」と表明。現時点でイラクに残る約5千人の米軍兵士ら全員が年内に帰国するとの見通しを明らかにした。

約9年に及んだイラク戦争からの完全撤収について「イラクは完全な国ではない。しかし、我々は安定し、独立した主権国家となったイラクを後にする。我々は並々ならぬ功績を挙げた」と強調。イラクの民主化を戦争の最大の成果と位置づける一方、米兵の戦死者が4500人以上に上ったことなどを挙げて「この戦争で多額の代償を支払ったこともよく知っている」と述べた。

オバマ大統領、イラク戦争終結を宣言 米兵前に演説  :日本経済新聞

主人公の三人は子ども時代を回想する。スペンサーとアレクは学校の授業に身が入っておらず、おそらく学校でやっていることにあまり興味が無いのだろう。キリスト教系の学校で校則も厳しく、度々校長室に呼び出されている。そのせいで彼らの親が学校に呼び出されて、担任の教師が「お子さんはADD(注意欠陥障害)の可能性があります。病院で薬を処方してもらえば授業もまともに受けることができるでしょう」などという。親たちは怒って、「あなたが円滑に授業を進めたいがために、子どもを薬漬けにするつもりなの?」というと教師は「こういうことは統計的に明らかであって…」といって余計に怒らせ、スペンサーの母親は「統計よりも神を信じるわ」といって教室を出ていってしまう。スペンサーとアレクはともにシングルマザーに育てられている。教室に来たのは二人の母親だけだ。このことが同じクリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』との連続性を期待させる。『アメリカン・スナイパー』のクリスには息子がいたが映画の結末で父親を失う。『アメリカン・スナイパー』では主人公がPTSDで終わるが、『15時17分、パリ行き』はADDから始まる。この映画はアメリカ人の三人がパリで英雄的行為を行う話であるが、同時に上にあるようなストーリーの設定(偶然重なったものであれ)の連続性とストーリーの反転(英雄が精神病で終わる→精神病と疑われているものが英雄になる)によって『アメリカン・スナイパー』を救う話でもあるのではないだろうか。

スペンサーとアレクの二人は校長室でアンソニーという黒人と意気投合する。アンソニーも彼らと同じようにトラブルメーカーだと思われている。彼らは皆、名字の頭文字がS(スペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラー)で授業でも近くに割り振られ親しくなる。例えばバスケットボールの授業ではA~N、O~Zというふうに二つのチームに分けられ彼らは同じチームだ。ただ、彼らは問題を起こしたことになって、また校長室に行くことになるのだが。偶然『This is us』の三兄弟も白人二人に黒人一人だが、この組み合わせには何か象徴的な意味が漂っている。スペンサーは親しくなったアンソニーを自宅に招く。スペンサーとアレクはサバイバルゲームが趣味だ。エアガンをいくつも持っていて、それをアンソニーに見せびらかせ自慢する。アンソニーに猟銃を見せると、アンソニーはそれを珍しがる。スペンサーは「狩猟はしたことないの?」ときくとアンソニーは「黒人は狩猟はしないんだ」という。この辺りになんとなくオバマ政権時代を匂わせているようにみえる。スペンサーは生徒会長に立候補しており落選している。

『アメリカン・スナイパー』(羊か狼か番犬 アメリカンスナイパー | kitlog)で主人公のクリス・カイルは父親から銃による狩猟の方法を教わる。そして父から「人には三種類ある。羊と狼と番犬だ。男なら悪い狼から羊をまもる番犬になれ」と教育を受ける。映画では彼はその言葉に従って、911のあと番犬としてイラク戦争に行ったように見える。その後クリスに子供ができる。クリスは息子にも父と同じように狩猟の仕方を教える。けれど、クリスは息子に父のように「人には3種類ある。羊と狼と番犬だ。男なら悪い狼から羊をまもる番犬になれ」とは言わなかった。クリスは息子に「自分がいないときに母と妹のことは頼んだぞ」といっただけだった。そういって彼はその後PTSDの元海兵隊員に殺されてしまう。クリスは息子を育て上げる前に亡くなってしまう。

米国は1945年以降、世界の安全を保証する国であることを自認してきたが、それは決してあらゆる紛争に介入したり、あらゆる人権侵害を制止したりするという意味ではなかった。例えば、米国は1980年代のイラン・イラク戦争には介入していない。この戦争はシリア紛争と同様に、米国が信用していない国同士で戦われ、化学兵器も使用された。

特に残虐な内戦に介入したり、特定の兵器を禁じたりすることが米国の役割だという考えが根付いたのは1990年代以降のことだ。その起源はルワンダ虐殺、ボスニア戦争、そして対テロ戦争の一環としての「大量破壊兵器」に関する新たなドクトリンの発展にある。

英国の元首相で、このリベラルな介入主義のドクトリンの発展に大きく貢献したトニー・ブレア氏は2009年の演説で、こう問いかけた。「我々は今、より伝統的な外交政策に戻るべきなのか。大胆さを欠く一方で慎重さを増し、あまり理想主義的でなく、より現実的な政策に戻り、介入が招きかねない予期せぬ結果を恐れて、許し難いものを進んで容認すべきなのか」。英下院は今回明らかに、ブレア派の遺産を拒絶した。

[FT]米国が苦悩する「世界の警察」という責務 (写真=ロイター) :日本経済新聞

スペンサー、アレク、アンソニーは三人、森のなかでサバイバルゲームに興じる。彼らは歴史の授業には興味があり、教師から第二次大戦の作戦に関する資料を受け取って目を輝かせている。ある日、三人はサバイバルゲームが終わって戦争について語り始める。アレクの祖父は第二次大戦中に兵士としてドイツに駐留していた。アレクは祖父から戦争には歴史や徳といったような崇高な何かがあると聞かされていた。それはクリスの父がいったような格言だ。スペンサーとアレクは軍人になりたいと思っていた。その話の後でアンソニーは自分が転校することになったことを告げる。その後アレクも父親のもとで育てられたほうがいいということになって、転校することになってしまう。スペンサーの母は「飛行機で数時間よ、アレクにはいつでも会いに行ける」と慰めるが子どもにはあまりも遠い。スペンサーはその後アイスクリーム屋でバイト中に空軍を目指す。アレクはオレゴン州兵に、アンソニーは描かれないが大学生になる。

スペンサーはバイト中に買い物に来た米兵に「やり直すことができたら何になりたいですか」といった奇妙な質問をする。少し当惑する米兵にスペンサーはもう少し詳しく「もう一度選べるなら軍のどの部門に行きたいか」と聞きなおす。米軍がイラクから撤退して、軍の方向性が見えなくなっていることのあらわれだろう。スペンサーは軍人になりたいと思ってもそこでやることはあるのだろうか疑問に思っている。軍人はアメリカで今もまだ望まれた存在なのだろうか。米兵は「パラレスキュー隊かな」と答える。スペンサーは米軍の中でもまだやることがあるのだと励まされる。彼はアンソニーに太った体型を小バカにされながらも、一年をかけて特訓し、パラレスキュー隊の入隊試験を目指す。彼は体作りに成功し合格するが、目の奥行感覚に問題がありパラレスキュー隊には入れないことが明らかになる。スペンサーは行きたいところかつ軍の中で望まれているところに行けなくなってこのままやっていけるだろうかとアンソニーに不安を口にする。スペンサーは身が入っていないのか訓練に寝坊するなどして、どんどん思っていたのとは別の方へ落ちこぼれてしまう。ある日、救護訓練をしていて施設内に発砲事件が起きたという警報がなる。教官は入り口を塞いで、机の下に隠れるように皆に言う。スペンサーはそれに逆らってボールペンを手にしてドアのそばに立ち犯人が来るのを迎え討とうとしている。教官は彼に注意するが、スペンサーは耳を貸さない。彼の同僚は机の下でナイフの刃を出してドアの方を注意深く見ている。緊張した空気が続いたあとで、それが誤報であることが伝えられる。教官はスペンサーになぜ命令を聞かなかったか問うと彼は「家族に机の下に隠れて死んでいるところを見られたくなかった」といった。教官は「彼の行動は試験には出ないと思います」といって冗談っぽく注意する。周りからは笑いが起きている。

イラクには、例えばイスラム教シーア派住民が広範囲で攻撃されている北部など、暴力がはびこる地域が残っている。だがオバマ政権の主張の中で最も重要なのは、昨年夏にイラク都市部から米軍が撤退したのに、都市部が混乱状態に陥らなかったということだ。それなら今から1年後に、イラク治安部隊が地方で反政府武装勢力に対抗できるようになっている、と考えるのは妥当だろう。

イラクが前より安全になったという主張は証明しにくいし、勝利を宣言する方法としてはおかしい。より正確には、イラクは「アメリカ人にとって」安全な場所になったと言うべきだ。米軍の駐留がもはや必要ない理由も、それで理解できる。

オバマの勝利なき「イラク撤退」宣言 | アメリカ | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

同時多発テロから16年、米史上最長の戦争「アフガニスタン紛争」を振り返る | BUSINESS INSIDER JAPAN

米軍は戦争疲れにより至るところで撤退し安全な場所で活動することになった、ということがこの映画では単にその時を生きた人を映したというだけなのに象徴的に示されている。上の誤報の件もそうだ。アレクはオレゴン州兵としてアフガニスタンに派兵されていた。彼は部隊で車で移動中に彼のGPSと弾倉の入ったリュックがなくなっていることに気づいた。彼らは元いた村に戻ってリュックを探すとそれは簡単に見つかる。村の男の一人が中の光った金属を売ろうとしていたのだという。武器を盗もうとしたのではないらしい。彼らはそれを金を払って買い戻す。アレクは何か無くなっているものはないかと聞かれると、自分の名前入りの帽子だけがなくなっているという。同僚は「その帽子をかぶっているやつは今日からアレクだな」といって冗談を言いあってそこではもう何も起こらない。

スペンサーはベルギーに来ていて柔術の特訓をしていた。彼は休みにアレクとアンソニーの三人でヨーロッパを旅行しようと計画し、彼らにスカイプでその話を持ちかける。アンソニーは大学生で金が無いといいながらも渋々了解する。アレクはアフガンに派兵されているがとても暇だということを打ち明ける。彼は自分がまるでショッピングモールの警備員のようだと退屈さを訴えている。彼らはヨーロッパに旅行に行くことを決める。ここから長いヨーロッパ旅行が始まる。彼らは安全で暇なのだ。彼らは美味しいものを食べ、羽目を外しヨーロッパ旅行を楽しむ。各地の名所を回って、セルフィーをインスタにアップする。ただ、途中で出会った女性にパリだけは気をつけたほうがいいと注意されていた。その年の一月にシャルリー・エブドのテロがあったからだ。

仏北部アラス(Arras)の駅で逮捕された容疑者は、モロッコ籍、またはモロッコ系の26歳の男。仏捜査当局によると、男は情報機関にも知られていた人物だという。仏首都のパリでは今年1月、イスラム過激派による襲撃事件計で17人が殺害される事件が発生しており、緊張状態が続いている。

国際高速列車で男が発砲、容疑者取り押さえたのは米軍兵士か 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News

彼らは偶然のめぐり合わせで、テロリストの乗るアムステルダムからパリ行きの列車に乗ってしまう。乗客の一人がトイレに不審な男がいると疑い近づくと彼は撃たれてしまう。

スカーラトスさんも列車の中で眠っていたが、「発砲とガラスの割れる音」で目が覚めたと父親に話した。スカーラトスさんが男の銃の「弾倉が抜けたか、詰まったような音を聞き、その時、『よし、スペンサー、行こう』と言った」。

父親によると、空軍兵のストーンさんが「男に飛びかかり、床に押し倒した」。そして自動小銃を取り上げ、その後に拳銃も奪ったという。

ストーンさんの母親によると、カリフォルニア州サクラメント近くのカーマイケルで育ったストーンさんとスカーラトスさんは隣同士で、よく一緒にペイントボールや軍隊ゲームで遊んでいたという。

またサドラーさんは、父親によると隣町のランチョコルドバで育ち、現在は近くの州立大学でスポーツ医学を専攻する4年生だという。3人とも同州フェアオークスにあるフリーダム・クリスチャン・スクールに通った。

列車テロ阻止した米軍人ら3人、幼なじみの友人 - WSJ

普通の人が英雄になったと宣伝されている記事を見かけるのだが、彼らは普通の人ではなく準備をしていた人たちだ。普通の人の反応はこうだろう。

オランダのアムステルダムからフランスのパリに向かう国際特急列車「タリス」の客車内で8月下旬、男性が発砲し、乗客3名が負傷する事件が起きた。この列車に乗っていたフランスの俳優ジャンユーグ・アングラードさんは「乗務員は乗務員室に逃げ込み、鍵をかけた」と運行会社の対応を非難した。

報道によると、武装した男性が発砲した直後、乗員は客車の通路を走って乗員室に退避したという。アングラードさんが扉をたたいて「開けてくれ」と叫んでも無視を続けたそうだ。結局、乗り合わせた休暇中の米兵らが男性を取り押さえたという。逮捕された男性はイスラム過激派に所属しており、テロと見られている。

特急列車で「発砲事件」乗務員が逃げてしまった!乗客を守る義務はどこまであるのか? - 弁護士ドットコム

スペンサーとアレクは肉体的には軍で訓練を受けており準備されていた。しかし、精神的にはどうか。軍の施設内で誤報があったとき、机の下に隠れるのが訓練している人間のやることなのだろうか。2015年のアメリカは戦争疲れで経済も疲弊し、国民は軍がどこかに介入することを望んでいない。アメリカは世界の警察官をやめようとしているのだ。そんな時に、何をモチベーションに訓練をすることができるだろうか。何を目指して、軍の機能や体力を向上させたらいいのだろうか。何を目指して準備をしていたらいいのだろうか。アメリカ軍は必要とされているのだろうか。国は軍を祝福してはくれない。少なくともスペンサーにはそのテロが起こるまでは、頼るものが一つを除いてなかったに違いない。それは学校で習った神に対する祈りだ。彼はそれを子供の頃から唱えていた。

神よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛を
いさかいのあるところに、ゆるしを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、喜びを
闇のあるところに、光をもたらすことができますように。

カトリック伏見教会 公式ホームページ - 平和を願う祈り

神はスペンサーに「平和の道具になるためにあれをしなさいとかこれをしなさい」といったりすることはない。スペンサーは神に祈りながらも自分が何をするかを決めなくてはならない。ここで神は解釈され半分解体されている。彼はパリに行く前に大きな目的(great purpose)を感じたことはないかとアレクとアンソニーに話している。彼はそれをニュートンの運動法則に例える。それは、スペンサーの軍人であることのモチベーションであると同時に、過去からテロの瞬間までシーンが連なってきたこの映画の比喩だろう。運動法則は延長が可能である。それは下に凸の放物線を描き『アメリカン・スナイパー』と『15時17分、パリ行き』の切り替わる点で対称をなしているだろう。

世の中の事は、全て運命と神とによって支配され、人知をもってしては到底律することができないし、矯正する道もないように定められてあると信じている人が多くあるかもしれない。このため人間の努力は無意味であって、万事は天にまかすべきものであると考えてくるであろう。まして今日のように、われらの想像に絶するほど世態の激変する様を見ては、今後だってそうであるが、世人はこうした考えをいよいよ強うするようになった。私もこれを考えるにつれて時には同じ意見に傾くことがある。

とはいえ、われわれに自由意志が消滅しない限り、私はこう考える。つまり運命は人事の一半についての裁定者であるが、残りの一半は、あるいはそれより少いかもしれぬが、それはわれわれの裁量にまかしてあると。(p152,153)

君主論』マキャベリ

運命は激流に喩えることもできよう。それが氾濫すると、いかなるものもそれに抗することはできない。しかし、このことによって勇気を阻喪させられることなく、それにたいして備えをするのに程よい時期には、堤防を築き、溝を掘り、その他なすべき防備を施して、再び増水があったときにも、その流れをまったくせき止めることはできないまでも、少なくともそれを別のいくつもの水路に分かち、激しい流れをいくぶんかは抑制できるようにしなければならない。(p271,272)

国家の神話』カッシーラー

9/10/2020
更新

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