戦争の記憶と民主主義者の限界としてのTownship マイティ・ソー バトルロイヤル
故郷である神々の国、アスガルドに戻っていた雷神ソー(クリス・ヘムズワース)は、義弟ロキ(トム・ヒドルストン)の手で地球に追放された父オーディン(アンソニー・ホプキンス)を探すためニューヨークに降り立った。そこでソーは、ドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)の協力を得てオーディンと再会。しかしオーディンはソーに「世界の終わりが近づいている」と告げる。
するとその瞬間、地響きと黒煙が巻き起こり、妖しきオーラをまとった美女が姿を現す。彼女の名は死を司る女神ヘラ(ケイト・ブランシェット)。ヘラはアベンジャーズのメンバーでさえ持ち上げられなかったソーの究極の武器「ムジョルニア」をあっさり破壊。さらに、その圧倒的な力を前に何もできないソーを、ロキとともに宇宙の辺境へと弾き飛ばしてしまう。難なくアスガルドへと入ったヘラは、同国最強の戦士・スカージ(カール・アーバン)を手下に従え、恐怖による支配を開始。さらなる野望へ向けて動き出す。実はヘラはオーディンの娘。ソーの姉でもあったのだ。
一方、宇宙の辺境へと弾き飛ばされたソーは、辺境の惑星サカールに流れ着き、この星の独裁者グランドマスター(ジェフ・ゴールドブラム)に囚われ、彼が主催する格闘大会に出場することになってしまう。しかも、対戦相手は奇遇にもアベンジャーズの盟友ハルクだ。
ヘラの野望を知ったソーは、それを食い止めるためにサカールからの脱出を急ぐのだが、はたして彼は間に合うのか。
神々の国最大の危機を - 日経トレンディネット
一方では秘められた意図に基づく改竄、削除、拡大解釈という加工が露骨に原文に対してなされ、意味が逆になってしまっている。他方では、整合性を持とうが相殺し合って意味を失おうがおかまいなしに、あったがままのすべてを保存せんとするおおらかな敬虔の念が原文にはっきりと認められる。それゆえ、原点のほとんどすべての箇所に明白な脱落、煩わしい反復、はっきりした矛盾が現れているのだが、これらは、伝えたくなかった事柄の存在をわれわれに仄めかす徴候にほかならない。原点の歪曲には殺人に似たものがある。難しいのは殺人を行うことでなく、犯行の痕跡を消し去ることなのだ。(p77)
『モーセと一神教』フロイト
("Thor: Ragnarok" Official Trailer - YouTube) |
この映画では歴史が改竄されていることが二度暴露される。一つ目はロキが父オーディンになりすまし、自分のことを悲劇の英雄として民衆に周知させていたこと。もう一つはアスガルドの戦争の歴史で、オーディンには実は片腕、強力な武器として長女ヘラが存在しており、彼らは大昔に他の国に対して侵略を続けたが後に彼女の大きすぎる野心を知ったオーディンが彼女をその歴史とともに封印したというものだ。
一つ目の偽史、なりすましの結果、オーディンは亡くなってしまう。”原点の歪曲には殺人に似たものがある。”ロキはオーディンになりすますために、オーディンを地球の老人ホームへ預けていた。ソーがロキを脅してオーディンの居場所を聞き出し、その老人ホームへ行ってみるとすでに解体された後だった。ドクター・ストレンジの助けを得てオーディンの居場所を探し出すも、オーディンはソー、ロキとしばらく話したあとで亡くなり消え去ってしまう。その結果封印が解かれたのか、死の女神で彼らの姉のヘラがあらわれる。
父親殺害ののち、兄弟たちが各々父親の遺産を独り占めしようと欲し父親の遺産をめぐって互いに闘争した時代がかなり長く続いたと想定できる、このような闘争が危険であり不毛であるとの洞察、皆で一緒になって貫徹した解放行為への追憶、そして追放されていた時代に生じてきた兄弟間の心情的結びつき、これらは最終的には彼らのあいだの和解と一種の社会契約へと彼らを導いていった。(p141)
『モーセと一神教』フロイト
ヘラの強さは圧倒的でソーとロキは共闘を強いられるのだが力敵わず、アスガルドへ逃げようとするもその狙いを見抜かれて、彼らはアスガルドへのワープ中にヘラにふっ飛ばされてサカールという惑星に流れ着く。彼らはそこでハルクと出会い、苦難を乗り越えアスガルドへ戻るのだが、そこで待っていたヘラは彼らにアスガルドの戦争の歴史を披露する。二つ目の偽史がここで暴露される。ここで問題になるのは、ヘラがなぜこんなにも強いのかということである。彼女はいきなりソーの前にあらわれ彼の必殺の武器であるムジョルニアを簡単に破壊、粉々にしてしまう。そしてソーたちは最後までヘラに力で敵うことがない。ヘラの強さは圧倒的である。その圧倒的な力はソーに逃れられない選択を迫る。それは「アスガルドはその土地なのか、その民なのか」という問いだ。ソーは劇中で「ヒーローとはこういうものだ」と自分語りをするが、彼はその選択の両方を、つまりアスガルドの土地も民も同時に救うことができない。彼は片方に目をつむって(ヘラに片目を潰されて)土地を捨て、民を救うことを選ぶ。もともとヘラはアスガルドに存在する時間ごとにパワーアップしていて、アスガルドが存在する限り強くなり続ける。そこから論理的にアスガルドが存在する限り、ソーたちはヘラに勝てないという解答が導き出される。ソーはラグナロクを起こすために、映画のはじめに倒したスルトを永遠の炎使って召喚し、アスガルドを崩壊させる。私にはこの選択が奇妙に思える。この間『シン・ゴジラ』がテレビで放映されていたが、ソーたちの選択はヤシオリ作戦が間に合わず東京に熱核攻撃を落とすことを選択した光景にほかならない。そんなに簡単に自分の生まれ育った土地を手放し、手放すだけでなく永久に帰れない土地にすることができるだろうか。この秘密が以下の民主主義者に対する批判の文章に書かれているように私は思う。
民主政治を説く思想家たちが対決することになったのはこのような基本的な諸事実であった。意識するとせざるにかかわらず、彼らは政治的知識の及ぶ範囲は限られていること、自治が可能な領域も限られること、さらに、自足的国家間に摩擦を生じた場合は剣をかざした決闘状態になることを承知していた。だが彼らはそれと同じ位はっきりと、人間の中には自分自身の運命を決める意志のあること、力ずくによるのではない平和を希求する意志のあることも知っていた。彼らはこの願いと事実をどのように調和させることができたのだろうか。
彼らは自分たちの周囲を見回した。ギリシアやイタリアの都市国家に、彼らは腐敗、陰謀、戦争の歴史を見た。自分たちの都市には党争、まがいもの、熱病を見た。これらはとても民主主義の理想が花開くような環境ではなかった。平等な競争ができる自立した人間たちの集団が、自発的に自らの諸問題を処理していくような場所ではなかった。そこで彼らは、遠く、都会を離れた、まだ世俗にまみれていない田舎の町村に目を向けた。多少はジャン・ジャック・ルソーに示唆されたのでもあろう。そこには自分たちの理想が羽を伸ばせると確信できるだけのものがあるように見えた。
ジェファソンはとくにそう感じた人間で、誰よりもアメリカ民主主義像の形成に貢献した。アメリカ革命を勝利に導いた力はこうしたタウンシップからきた。タウンシップこそはジェファソンの政党に政権をもたらす票を投じることになるのだった。(略)
ジェファソンは、自発的な民主主義の要件を満たすという点で、自営農民の集団はほかのどんな社会集団よりもそれに近づくだろうと考えた。それは正しかったのである。しかし、もしその理想を守り抜こうとすれば、そうした理想のコミュニティに柵をめぐらせて世の中の忌まわしいものを閉め出す必要がある。農民たちが彼ら自身の問題を管理しようとする場合は、扱い慣れているような問題だけに限っておかなければならない。(p103-105)
ジェファソンの時代には、自発的で主観的でない世論など、誰にも考えられなかった。民主主義の福音はそうした宿命によって固められたのである。だから民主主義は伝統的に、人びとが居住地域内で一切の因果関係がおさまるような事柄としか関わりを持たないような世界を相手にしようとする。
民主主義理論は、予想もつかない広大な環境との関連の中で、自らの姿を捉えることがまったくできないでいた。その鏡は凹面鏡なのだ。民主政治論者たちは、自分たちが外部の事柄と接触していることを認めながらも、自己充足的集団外とのあらゆる接触が、当初考えられた民主主義像を脅かすものであることをきわめてはっきりと知っている。(p106,107)
『世論(下)』リップマン
ソーは民か土地かのどっちを守るかで民を選ぶ。アスガルドは消滅しソーとその住民たちは大きな宇宙船に乗って宇宙へ脱出する。これは民主主義のために戦争の記憶のある土地を捨てたということである。そのような記憶があるところでは自己充足的な空間の外部が存在することになり、それが対立の原因になり、そういう状況は民主主義で判断できる事柄を大いに逸脱している。戦争の記憶は人々の分裂の記憶を呼び起こし、実際に分裂させ「われわれ」と「彼ら」をつくる。民主主義はわれわれの間でしか機能しない。われわれの民主主義に彼らを含めようとすれば、それは「内政干渉」か「戦争」になってしまう。ヘラは死の女神とされているが、彼女はアスガルドの戦争や侵略の記憶である。ソーたちがヘラに圧倒的な力で劣勢に立たされるのは、ソーがジェファソンのように民主主義の理想を追っているためであり、ヘラが民主主義のどうしようもない天敵である戦争の記憶だからだ。戦争の記憶のある土地では純粋な民主主義は育たない(その必要があるとして)。ソーは民主主義者の理想を求めて戦争の記憶のある土地を、ヘラのいるアスガルドを捨てるのだ。彼は自治権の及ぶ範囲の小さな宇宙船(タウンシップ)の中で小さな王様になる。彼はそのことに満足しているようにみえる。
("Thor: Ragnarok" Official Trailer - YouTube) |
ここまで見てみると、ソーとロキが惑星サカールに漂着したことの意味も見えてくる。そこで彼らはハルクと出会うが、もう一人ヴァルキリー(テッサ・トンプソン)というアスガルドの戦争の時代にヘラと戦った兵士とも出会う。彼女はその時の戦いの唯一の生き残りで、この映画で数少ないヘラの記憶つまり戦争の記憶を持つ重要な人物である。その彼女がサカールという都市で大酒を飲みながら、賞金稼ぎをして暮らしていた。彼女はそれが居心地がよく、酒を飲んで、何もかも忘れて生きていきたいのだという。アスガルドでは歴史を書き換えることで戦争の記憶を抑圧し国内を安定させていたが、ヴァルキリーは酒をのむことでそれと同じことをしていた。彼女が居心地がいいと思うのは酒のためだけでなく、惑星サカールの環境のためでもある。サカールはグランドマスターという独裁者が支配しており、そこでは余興で流れ着いた兵士などをつかった格闘大会が行われている。そこでは戦争は完全に娯楽になっている。もしも、実際に戦争が存在しそれに備える必要があるのならば、兵士同士の殺し合いをさせるのは愚かなことだ。戦争の危機が迫っているのに、軍隊を二つに分けて、娯楽で戦わせ、兵力を半分にする指導者など考えられるだろうか。この惑星には戦争がない、つまり外部がないのだ。そのことが戦争の記憶を持つヴァルキリーには心地よかったのだろう。彼女はソーに説得されるまで酒と外部がない環境に浸っていた。彼女はそれまでは自由(リベラル)でいられたのだ。
彫像には生命が宿っている。バージニア州シャーロッツビルに立つ南北戦争時の南軍指導者、ロバート・E・リー将軍の銅像は、特にそうだ。
トランプ大統領は、南軍関連のモニュメントを擁護し、白人至上主義に対する非難をなかなか公言しなかったことによって、同志である共和党員を含め、多くの米国民の不評を買った。
リー将軍像を撤去するという決定に対する白人至上主義グループによる抗議は暴力的事件を引き起こし、白人至上主義に対する抗議行動に参加していた女性1人が死亡している。
コラム:社会亀裂招く「像撤去」問題、ヘイトの増幅防ぐには
9/10/2020
更新
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