「概念について」は映画になるか 散歩する侵略者

不仲だった夫・加瀬真治(松田龍平)が数日間の行方不明の後、まるで別人のように穏やかで優しくなって帰ってきたことに、妻・加瀬鳴海(長澤まさみ)は戸惑う。一方の真治は、何事もなかったかのように毎日散歩に出かけていく。同じころ、町では一家惨殺事件が発生し、奇妙なことが多発する。ジャーナリストの桜井(長谷川博己)は取材しながら、天野(高杉真宙)という謎の若者に出会う。二人は一家惨殺事件のカギを握る女子高生・立花あきら(恒松祐里)を探す。桜井はあきらを見つけ、そこで天野とあきらがある男と会話をするなかで起こった異変を目撃する。天野は、自分たちは侵略者で人間の概念を調査しており、自分たちがその概念を学習すると相手からそれが抜け落ちると言う。桜井は半信半疑ながら天野たちに興味を持ち、もう一人の仲間を探すという彼らに密着取材を申し入れる。一方、毎日ぶらぶらと散歩をするばかりの真治に、散歩中に何をしているのかと鳴海が問い詰めると、地球を侵略しに来たと答える。鳴海は戸惑いながらも、真治を再び愛し始めていた。町は急速に不穏な世界となり、事態は加速していく。さらなる混乱に巻き込まれていく桜井の選択とは? 鳴海と真治の行きつく先にあるものとは?
散歩する侵略者 | 映画-Movie Walker

散歩する侵略者
(映画『散歩する侵略者』予告編 【HD】2017年9月9日(土)公開 - YouTube

奪われた側は意外と自由になれる。

──そこがこの映画『散歩する侵略者』のキモですよね。

そう、そこなんです。こればかりは空想をするしかなかったけど、それを重要なキーワードとして設けていました。自分がこだわっているもの(=概念)が、ある瞬間に無くなってしまったら、多くの場合、すごく楽になるんじゃないかなって。もちろん、周りは迷惑でしょうし、社会的には使い物にならなくなる。それでも本人は、「なぜこんなものにこだわっていたんだろう」と解放され、しかもまったく不幸や喪失を感じさせないんです。

──もっとも分かりやすいのが、満島真之介さんが演じたニートの青年。自分の家という所有の概念を奪われて、ニートを脱却するという(笑)。

この映画の「概念」の話のなかでは、それがもっとも象徴的なエピソードです。所有の概念を奪われた彼は行動的になる。これは極端な話ですが、僕らは年齢とともに様々なことを学習していきますが、でも多くの場合、元を辿れば先生や親に押し付けられて嫌々やっているうちに、いろいろ身につけていき、そのなかから生きがいなどを見つけていきます。そうやって植えつけられた概念を奪われた瞬間、自分本来の姿に戻り、新しい幸せを得られるのではないでしょうか。
黒沢清監督「奪われた側は自由になれる」 | ニュース | Lmaga.jp

ただ、もしも「所有」の概念が奪われたとしたら、ニートを脱却した彼はただちに犯罪者になってしまうと思う。「所有」の概念がなければ、相手が何かを所有していることも認めないから、彼はあらゆるところからモノを盗むだろう。コンビニやデパートにおいてある商品はみんなのものだ、彼はそう言って自分の好きなものを持って帰るだろう。ただし、「所有」の概念がなくなったあとで「好きなもの」という概念が生き残っているかはわからない。すべてのものがみんなのものならば、あらゆるものが等価値つまり価値を持たないことになってしまうおそれがあるからだ。しかし彼にはそんなことは起こらず、「所有」の概念を奪われたあとまるで共産主義者にでもなったかのように、「私たちは所有しているから、何かを奪われると思い戦争になるのです。その考えを捨てましょう」みたいな演説を街頭で行う。この映画が宇宙人が人間の所有している言語を奪う映画である以上、この言説は映画の中でメタ言語として機能する。もしも所有の概念がなければ、人間は宇宙人から概念を奪われ放題である。人間の中では概念は共有のものだが、宇宙人にとってはそれは自分の好きなように奪うものである。これは主人と奴隷の関係に似ている。奴隷になればたしかに自由になれるだろう。一つの概念を奪われたものは、どんな概念もあらゆる概念に紐付いていることを知り、概念同士は関連を失い、結果として彼は何も考えられなくなるだろう。考えることが減れば、あらゆることが必然的になり、そのことに疑問を持つことができない。

映画では「概念を奪うこと」はどこか記号的だ。それは概念という言葉自体が曖昧であるせいでもあるが、宇宙人が奪っているのは概念ではなく「こだわり」に近いからではないかと思う。奪われているのは概念のような広い射程を持つものではない。監督が「概念を奪われると自由になる」と語っているが、それが「概念」ではなく「こだわり」だからと考えると映画の味方がスッキリするように思う。「大人-仕事=子供」、「引きこもり-所有=共産主義者」みたいな計算可能で類型的、記号的な人物ができあがるのは奪われるのがこだわりで、こだわりは一つ一つの客観的な概念とは独立したその人の主観的な記憶に基づいたものである。宇宙人が奪っていると言っているものと実際に奪われているものにはどこか非対称性がある。それは書いたものと書かれたものとの非対称性だろう。誰かが「このプリン美味しい」と書いたとして、そのプリンの味はそれを食べたもの(食べて、美味しいと書いたもの)にしかわからない。「このプリン美味しい」という文字を見て、それだけで満足する人もいるのかもしれない。

印刷術の発明は人間の顔を次第に分かりにくいものにした。印刷された紙面を通してあまりにもたくさんのものを読むことができたので、他の伝達手段は顧みられなくなった。

ヴィクトル・ユーゴーは、印刷された書物は中世紀に大伽藍の果たした役割を引きつぎ、民衆の精神の担い手になった、とどこかに書いている。しかしながら、千冊の書物は、大伽藍に集中された一つの精神を千の意見に引き裂いた。言葉は石を(一つの教会を千冊の書物に)粉砕した。

見える精神はかくして読まれる精神に変わり、視覚の文化は概念の文化に変わった。この変化が生の相貌を一般に大きく変えてしまったことは周知の通りである。だが同時に個々人の顔、額、眼、口が変わったに違いないということに、人はあまり考え及ばない。(p27)

『視覚的人間』ベラ・バラージュ

『メッセージ』(未来が分かるなら メッセージ|kitlog)では、宇宙人とのファースト・コンタクトが描かれたが、主人公の言語学者は宇宙人の言語を学んだり、宇宙人に英語を教えるなどして概念をやりとりする過程で、自分が子供に言葉を教えている時の記憶を思い出していた(それが過去でなく未来であることがこの映画の特異なところだが)。『散歩する侵略者』でも人間に乗り移った宇宙人はどこか子供のように見える。敬語も知らないしほとんどの概念も知らないので、自分で何もすることもできない。だから、彼らはガイドが必要だという。いわば自分の親代わりの存在だ。親が教育して子供を育てるように、宇宙人は地球のことを学んでいくのだが、この映画の特異なところは、宇宙人が学べば学ぶほどガイド以外の他の人間は概念を奪われ、子供のようになっていくことだ。宇宙人が概念を得て大人になるに連れて人間たちはいわば犠牲として子供になっていく。それが、この宇宙人の恐ろしい点であるが、それでも彼らのガイドは親が子供から子供の成長や振る舞いから新しい刺激を与えられるように、新しい概念を得ていく。ガイドは鳴海と桜井だが、彼らが男女に分かれているのは意味のあることなのかもしれない。彼らが子供から何かを与えられるとすれば、それは父性であり母性ではないか。桜井は宇宙人の侵略がやばいと知りながらも子供のような彼らのイタズラではすまないイタズラにつきあい、鳴海は「やんなっちゃうなあ」といいながらも真治の手を放さないのだ。
9/10/2020
更新

コメント