蝋と鉄、太陽とコング キングコング:髑髏島の巨神

未知生命体の存在を確認しようと、学者やカメラマン、軍人からなる調査隊が太平洋の孤島“スカル・アイランド(髑髏島)”にやって来る。そこに突如現れた島の巨大なる“守護神”キングコング。島を破壊したことで、“彼”を怒らせてしまった人間たちは究極のサバイバルを強いられる。しかし脅威はこれだけではなかった。狂暴にしてデカすぎる怪獣たちが、そこに潜んでいた!

この島では、人類は虫けらに過ぎない・・・・・・そう悟った時は遅かった。なすすべもなく逃げ惑う人間たち。彼らがやがて知ることになる、島の驚くべき秘密とは!? 果たして調査隊は、島から脱出することができるのか!?
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キングコング:髑髏島の巨神
(映画『キングコング:髑髏島の巨神』日本版予告編【HD】2017年3月25日公開 - YouTube

コングの住む島に辿り着くには、島を世界から隔絶させてきた大嵐を切り抜けなければならない。パッカード(サミュエル・L・ジャクソン)たち調査隊は軍用ヘリでそれを突っ切るのだが、嵐の中はヘリのコントロールもままならない。そんな中でパッカードは米軍のリーダーとしてこのようなことを言う。「イカロスの父親(ダイダロスのこと)はイカロスに蝋の翼を与えたが、太陽に近づきすぎて落ちてしまった。あいつはダメな父親だ。だが、米軍は鉄の翼を与えた。だから我々は進むことができる。」パッカードの口ぶりでは鉄の翼を与えたのが米軍であると同時に自分であるという風なのだが、ここですでに彼の奇妙さが表現されている。ダイダロスはミノス王に幽閉され陸も海も出口を塞がれるのだが、空ならば自由だということで羽と蝋を使って翼をつくることを思い立つ。
『ミノスは陸と海は取りしまれるかもしれないが、大空まで支配することはできない。私は空を行ってみよう。』とダイダロスはいいました。それゆえ彼は自分と息子のイカロスのために翼をこさえはじめました。(中略)いよいよ細工ができあがると、製作者は翼を動かして上の方へ浮かんで行きました。じっと空に身を支えたまま、留まってみたりしました。ダイダロスは子供にも同じような支度をさせて、鳥が高い巣から雛鳥を空に誘い出すように飛ぶ方法を教えました。すっかり用意が整うと彼はいいました。『イカロスよ、空の中ほどを飛ばなければいけないのだよ。あまり低すぎると霧が翼の邪魔をするし、また高すぎても熱気で溶けてしまうから、私のそばにくっついておいで。そうすれば大丈夫だ。』(中略)

彼らは左にサモスやデロスの島々を眺め、右にリビントスの島を見て過ぎました。その時子供は興に乗って、お父さんの道しるべを離れてしまい、天に達するまで高くかけって行きました。燃え立つ太陽の近くになると、羽をとめた蝋が柔らかくなって、ばらばらにほぐれました。イカロスは腕を打ち振ったけれども、空気を支える羽は一つも残っていませんでした。口にお父さんと呼びながら、彼は青海原の真中に沈みました。(p211,212)

『ギリシア・ローマ神話』ブルフィンチ

ここにあらわれているのは道具を与えると同時にその限界を教える父である。ダイダロスはそのことを口でいうとともに同じ翼を使うことで教える。それに対してイカロスが従わなかったという構図だ。それは決してダメな父親だという話にはならないだろう。もしダメな父親だと言うのならば、そのためにはダイダロスが蝋でできた不完全な翼を息子に与え、その道具の限界を伝えなかった、太陽に近づいてはいけないと言わなかったという話にしなければならない。現にパッカードはそういう話をしている。不完全な蝋ではなく完全な鉄の翼があるのだと。要するにパッカードは限界についての話を隠している。劇中でコングに太陽が重ねられるが、そのことはパッカードが隊員を鼓舞するために話した神話と重なっている。もしも神話のとおりならば、「コングには近づきすぎるな」ということなのだが、神話が改変されたことによって「近づきすぎるな」は予め排除されることになる。そのために、パッカードは最後までコングを前にして撤退することができない。それはベトナム戦争でも同じだったのだろう。米軍はなぜベトナムから撤退できなかったのか。
ヘンリー・グラフは(あるいはランド・マクネリー社の担当編集者は)一九六七年版の『自由な者と勇気ある者』で、こんな勇気ある結論に達している。「ただひとつ確かなことがある。この残酷な戦いにおいて、アメリカと南ベトナムの連合戦線が戦場で膠着状態になっても、アメリカは彼ら千四百万人の南ベトナム人を見捨てなかったのである」だが、この、ただひとつのことも、二年後にはそれほど確かとはいえなくなってきた。アメリカは次第にベトナムから手を引きつつあったのだが、一九七二年まで、編集者たちはこういう記述に固執していた。ようやくこの年、記述は書き変えられ、「戦火はおさまらない。しかし、アメリカは少なくとも戦争から手を引いている。この十二年間で初めてアメリカの兵隊が死にさらされないときが訪れたのである」(南ベトナム人はどうなったのか、何も記述されていない。)(p129)

大多数を占める教科書は、タカ派でもハト派でもなく、むしろ単純に回避的姿勢をみせた。主題として戦争を取り上げ、しかも主要な争点を回避しつつ議論する――という難しさから、「ベトナム」の章は独特な読みものに仕立て上がった。筆者や編集者は、まったく彼らの独創的な政治理論を作り出さなければならなかった。戦争がなぜ始まり、なぜかくも長く続いたのかについて、彼らは具体的な個々の戦闘を取り上げることを避け、「雑草理論」とでも呼べるような理論を展開するのだった。つまり、ベトナム戦争は、「一人前に成長する」ところまで拡大し続け、多くのアメリカ人がそれを「深く憂慮」した。北爆の停止や北ベトナム指導者へのアピールにもかかわらず、また度重なる和平交渉や軍の撤退にもかかわらず、戦争はひたすら続き――そして成長が止まった。戦争が継続した原因を明らかに北ベトナムに帰したこの理論を少し変形して採用している教科書も多い。トッドらの『アメリカ国家の誕生』や、ウィルツの『アメリカ近代史』などは、ベトナム戦争の記録をもっぱらアメリカ政府の平和提案で埋めるのである。ジョンソン、ニクソン両大統領、キッシンジャー国務長官は平和回復に努力したが、北ベトナムは(理由は説明されずに)戦闘停止を拒否し続けたのである。戦争の目的はなんだったのか、なぜアメリカは、この好戦的な小国から軍隊を撤退させなかったのかなどの問題には決して触れないのだ。「不思議の国のアリス」の女王のように、非論理を論理といいはるのに近い。現在使われているデコンドらの『合衆国史』によれば「アメリカは……ほぼ十年というものアジアの紛争を解決しようと努力してきた」のだ。(p133)

『改訂版アメリカ 書きかえられた教科書の歴史』フランシス・フィッツジェラルド

特務研究機関モナークの一員であるランダ(ジョン・グッドマン)は、ベトナム戦争後のベトナムで髑髏島への調査隊の人員を集めるのだが、彼が探していたのは「ベトナム戦争が終わったにもかかわらず、なぜかまだそこに残っている連中」である。米軍は撤退したが個人的に撤退できないでいる人たちだ。ランダはコンラッド(トム・ヒドルストン)にいう。「まだ何かを見つけられていないから、ここに残っているんだろう?」と。それはベトナム戦争の終わりに過去の勲章を見つめるパッカードも同じだろうし、フォトジャーナリストのウィーバー(ブリー・ラーソン)も同じだったはずだ。彼らはそこで何かを見つけられなかったのだ。そしてそれを髑髏島で見つける。その先にベトナム戦争と同じように撤退するのかしないのかはそれぞれの判断ということになった。それはパッカードとコンラッドの違いで表されている。

戦争で何かを見つけようとするのは危険な考えである(がそうしてしまう)。
最も重視すべき戦争は、自国を軍事的により強大化しようとして行われた戦いであり、他国が軍事的により強力となるのを妨げるために戦われている。その点、「戦争の主要目的は戦争そのものである」という警句の正しいことをきわめてよく実証するものである。ナポレオン戦争のどの段階も、つぎの段階への道を用意するために企てられたものであった。ロシア侵攻は、ナポレオンがイギリスを攻略できる力を獲得するために行われた。クリミア戦争がイギリスおよびフランスによってしかけられたのは、これらの国の近東における領地と利益をいつかロシアが侵略し得る強い勢力にならないうちに英仏がはじめた戦いであった。(p211,212)

『危機の二十年』E.H.カー

戦争の目的は戦争であり、戦争は戦線を拡大し、それは何か圧倒的な被害を目の当たりにするまで終わらない。戦争のなかで何かを見つけようとしたところで、彼らが見つけるのは戦争だけであり、戦争のなかで何かを見つけようという行為が戦線を拡大していく。戦争のなかでパッカードのように仲間の死んだ意味を見つけようとしてもそれは次の戦争に回収され、戦線を拡大するだけである。劇中でベトナムの村民は米軍が来るまでは銃を持っていなかったことが語られる。パッカードの言うことも全て間違っているとはいえない。「コングが我々の世界にやってきたらどうするんだ。今のうちに叩いておかないといけない。」と彼はいう。それはソ連に髑髏島が発見される前に調査に行くといったランダたちと似たような考えである。けれどそのような考えは結局は戦線を拡大しただけだった。それに対して戦争のなかで何かを見つけようとするのは意味がないという批判は無意味である。それらに終止符を打ち、彼らの眼を覚まさせるのはコングの存在であり、彼の太陽のような眼であり、彼の孤独な献身である。
9/10/2020
更新

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