Audition ラ・ラ・ランド
アメリカ・ロサンゼルス。この街には、夢を追いかける人が各地から集まってくる。女優を目指すミア(エマ・ストーン)は映画スタジオのカフェで働きながらオーディションを受け続けているが、落ちてばかりだった。ある日、ふと立ち寄った場末のバーで、ピアノを弾いているセバスチャン(ライアン・ゴズリング)と出会う。彼の夢は、自分の店を持って思う存分本格的なジャズを演奏することだった。恋に落ち、互いに応援しあう二人。しかしセバスチャンが生活のために加入したバンドが売れ、二人の関係が変わってしまう。
ラ・ラ・ランド | 映画-Movie Walker
(『ラ・ラ・ランド』本予告 - YouTube) |
映画が始まる前からどのような物語かはおおよそ分かっていた。予想がついていたというべきか。それは『インターステラー』ぶりに観る前にネタバレを踏んでしまったからだ。(初めに愛があった インターステラーから|kitlog)この時は『インターステラー』が『ほしのこえ』に似ているというものだったが、今度のは『秒速5センチメートル』に似ているというものだった。観てみると確かに『秒速』に似ていると言えるかもしれないが、事情は異なっている。『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』ともに新海誠監督の作品だが、『ほしのこえ』はいわゆるセカイ系というジャンルの作品として名が通っていた。しかし、セカイ系というのは明確な定義がないらしいのだ。いちばん有名な説明は「国家と個人の運命が中間の社会をすっとばしてダイレクトに繋がる」といったようなものだが、国家が全面に出てくる戦争映画は大体そのようなかたちをとるのではないだろうか。なのでセカイ系という単語はほとんど空文であるように思われるのだが、そこに批評家の生存戦略が乗っかることで、「国家と個人の運命が中間の社会をすっとばしてダイレクトに繋がる」が「作家と批評家の運命(作品観?)が世間の評価をすっとばしてダイレクトに繋がる」が混合したスカスカの怪物のようなものができあがったのではないかと思う。それを象徴するのが『秒速』第一部の早熟な小学生二人の「僕たちは精神的に似ている」という関係だ。彼らの関係はここでセカイ系といっている作家と批評家の関係そのものである。彼らは教室(世間の象徴)には馴染めないが二人だけの幸福な関係は作ることができている。『秒速』の第一部以降のシーンを見れば分かるが、この映画はそのような関係から袂を分かつことが記されている。作家と批評家は一度別れたあとに出会うことはない。そして最後に音楽が流れる。山崎まさよしの『ONE MORE TIME,ONE MORE CHANCE』だ。
いつでも捜しているよ どっかに君の姿を10年経ってこの曲に返事をする映画があらわれたと思った。それが『この世界の片隅に』だ(空想の右手 この世界の片隅に|kitlog)。映画の最後、主人公のすずは夫に「この世界の片隅で私を見つけてくれてありがとう」という。単に「私を見つけてくれてありがとう」でも「この世界で私を見つけてくれてありがとう」でもなく、「この世界の片隅で」といったのは奇妙なメタ発言であるように思った。「向いのホーム」も「路地裏の窓」も「この世界の片隅」も同じようにマイナーな場所を指している。批評家が作品を探すマイナーな場所に『秒速』では作品や作家はいなくなったが、『この世界の片隅に』ではそのマイナーな場所に作品が現われるのだ。そして主人公はそれを見つけたことに感謝する。そのことを指して、以前「批評家(批評家精神)に優しい」と書いた。
向いのホーム 路地裏の窓
こんなとこにいるはずもないのに
『ONE MORE TIME,ONE MORE CHANCE』山崎まさよし
バンドリーダーのキース(演じるのはR&Bスターのジョン・レジェンドだ)は、自分の音楽性を追求することよりも、ファンを喜ばせるのに忙しい。彼はセバスチャンを頭の固いジャズおたくと罵倒し、死にゆくアートが生き残るには未来を見なければいけないのだと語る。「やな奴だな」と言い捨てるキースに、セバスチャンは言い返せない。
『ラ・ラ・ランド』の色鮮やかな魔法にかけられて | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
ミアは会食中、聞き覚えのある音楽がスピーカーから流れるのを聞いてその場を抜け出す。それはセブが演奏したことのある(?)音楽だった。それは単なる過去の曲を超えて一つの暗号になっていた。キルケゴールやベルクソンは「静」から「動」の間には何か神秘があるといっているが、ここではそれは音楽だった。ミアは約束していたセブのもとへ向かう、映画館のリアルトへ。ミアは映画のスクリーンの前に立ちセブはそれを見つける。ミアは映画俳優志望だが、まだスクリーンの中には入れない。映画『理由なき反抗』は二人の雰囲気が盛り上がったところでフィルムが焼け突然中断される。古いものは思ったよりも早くなくなってしまうのだ。この映画館も映画内で閉館してしまう。彼らは映画の続きを現実で新しくはじめることを思いつく。ちょうど『理由なき反抗』の舞台はLA.LA.LANDである。彼らは映画のようにプラネタリウムへ向かい、彼らなりの映画の続きをはじめる。彼らは夢を見ること(遠くを見る)で映画を作ろうとした。この時が二人にとってもっとも幸福な時間だった。
これは最後のシーンにも関わることである。上では二人は映画館にこだわることなく映画館を抜け出して夢という形で映画をつくろうと試みた。それをミアは別のかたちで続ける。彼女は何度もオーディションには落ちたものの、その後自分で一人芝居の台本を書き、それが認められて特別にオーディションに招かれ合格し映画の道へ入る。しかもその映画はつくりながら考えるタイプのものらしい。一方のセブは場所を作ることを選んだ。ジャズバーをつくり、そこで自分の好きな音楽を流すのがもともと彼の夢だったのだがその夢をどうやら叶えたらしい。セブは『理由なき反抗』のフィルムが焼けその映画館が閉館したときに何も思わなかったのだろうか。そのあとに夢を見るように映画をつくりかけたときに何も思わなかったのだろうか。彼はその時に映画館を抜け出して映画のような夢を見たにもかかわらず、彼が達成したのはその抜け出した映画館を作ることだった。それはもとからしてミアの方向とは逆だろう。彼はなぜその幸福な時間を自分のものにしなかったのだろう。その時の幸福は場所に留まることではなくてなにか新しいものが生まれようとしている瞬間ではなかったのだろうか。その時の愚かな夢を愚かな狂気を彼は信じることができなかったのだろうか。
物の名前を制定した古人たちもまた、狂気(マニアー)というものを、恥ずべきものとも、非難すべきものとも、考えていなかったということである。じじつ、もしそうでなかったら、彼ら古人たちは、技術の中でも最も立派な技術、未来の事柄を判断する技術に、ちょうどこのマニアーという名前を織り込んで、この技術を「マニケー」(予言術=狂気の術)と呼ぶようなことはしなかっただろう。いな、彼らは、狂気が神から授けられて生じるとき、これを立派なものとみとめたからこそ、このような名前をきめたのである。(p53)
『パイドロス』プラトン
ロサンゼルスの真っ青な空からフリーウエーに目を落とすと、そこは朝の大渋滞。イライラして窓から顔を出す人もいれば、クラクションを鳴らす人もいる。やがて車列の間を滑るように動いていたカメラが、運転席で歌っている女性の横で止まる。
次の瞬間、彼女は車から降りて踊りだす。たちまちいくつもの車からカラフルな衣装の若者が降りてきて、路上で、車の上で、中央分離帯の上で踊りだす。道路はあっという間に、ショービジネスの世界で成功を夢見る若者たちのエネルギッシュな舞台へと変身する。
チャゼルと撮影監督のリヌス・サンドグレンは、このシーンを大胆な長回しで描き出す。もちろんデジタル技術もいくらか使っているが、カットなしで上下左右に流れるようなカメラワークは、まるで古き良きミュージカル映画を見ているよう。「このシーンにワクワクしない人は、次の出口ランプで降りてください」というメッセージが聞こえてきそうな野心的なオープニングだ。
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最後にセブのバーに行く手前で、冒頭のシーンとは違ってミアたちは渋滞を迂回する。成功した人物は並ぶ必要が無いということなのか、夢を見るのをやめたということなのか、夢を見るのをやめた行き先がセブのバーということなのかはわからない。未来はいつも渋滞している。ミアは偶然立ち寄った店がセブのバーであることを知る。セブはミアを見つけ、少しの間があってそのあとピアノを弾きはじめる。彼がそこで弾くのは昔二人で聞いた曲だったのだが、もしも彼が映画館から抜け出したことの意味を理解していたらその曲はただの思い出の曲ではなくてまったく新しい曲になっていたのではないだろうか。彼はそこで新曲を弾くべきだった。それはつまり映画館(場所)ではなく映画(内容)を新しくすることに時間を費やすことだ。
9/10/2020
更新
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