ツイート、就活、演劇 何者

就活の情報交換のため集まった5人の22歳。かつて演劇サークルで脚本を書いていて人を分析するのが得意な拓人(佐藤健)。天真爛漫で何も考えていないようで、着実に内定に近づいていく光太郎(菅田将暉)。光太郎の元カノで拓人が思いを寄せ続ける実直な性格の瑞月(有村架純)。人一倍“意識高い系”でありながら、結果が出ず不安を募らせていく理香(二階堂ふみ)。社会の決めたルールには乗らないと宣言しながらも焦りを隠せない隆良(岡田将生)。彼らは、海外ボランティアの経験やサークル活動、手作り名刺、SNS、業界の人脈等、様々なツールを駆使して就職戦線を戦っていく。だが企業に入れば「何者」かになれるのか、自分は「何者」になりたいのか……。そんな疑問を抱えながら就活を進める中、5人はそれぞれの思いや悩みをツイートするが、就活のやり方やスタンスに嫌悪感を覚えることもあり、次第に人間関係が変化していく。そんな折、拓人はサークルOBのサワ先輩(山田孝之)に相談するが、思うようにいかない現実に苛立ちを隠せなくなる。やがて内定者が現れたとき、抑えられていた妬みや本音が露になり、ようやく彼らは自分を見つめ直し始めるのだった。果たして自分は「何者」なのか……。
何者 | Movie Walker

何者
(何者 - YouTube

映画に演劇を絡めるときは劇中劇の形式を用いることが多い。これもその類の映画だろう。意識高い系のツイートの読み上げは聞いていてとても寒い。登場人物のセリフもそういうツイートに寄せられていて、今売れている俳優を使ってはいるが全く記憶に残らない。結局思い出づくりの一環なのだろう。(137字)
201610170008 twitter_id:@_nanimononano

映画の基調は最後の最後の手前まではだいたいこういう感じだ。Twitterに影響を受けた閉じ込めの感覚みたいなもの。140字でいいことを言わないといけないというか。ある現象や実態について何か意見を述べる時に140字のなかで高いパフォーマンスを発揮するために強い言葉(説得力があるようにみえる言葉)を使わなければならないことやそれ故にいい加減な言葉を選ばなければならないことが強迫観念のように映画を支配している(この文みたいに)。そのことが就職活動の自己アピールの作業、なかでも面接の一分間の自己アピールと並べられている。主人公の拓人は明らかにそこに息苦しさを感じている。それならそこから外に出ればいいと思うのだが、過去の「烏丸ギンジ」との決別をずっと覚えていてそこから出ることができない。「烏丸ギンジ」は実在の人物らしいが、効果としては外の象徴、外の可能性の拓人だ。拓人と烏丸は大学の演劇サークルの仲間だったが、拓人は勝手に演劇には先がないと思い彼にひどいことを言って離れる。「中身ができる前に人間関係アピールするのやめろ」とか「頭の中にあるうちはなんでも傑作」とか。その後烏丸は大学をやめて演劇の道に生きることを決め、月一で舞台を主催しているが評判はあまり良くない。拓人はその決別を封印するように演劇関係の就職先はあえて選ばず、烏丸の舞台も見に行くことがなかった。でも彼はずっとそっち側に行きたかったのだと思う。けどそうしなかった。外側に出れなかった意識、無理矢理押さえ込んで封印した意識は中で分裂して、拓人にはTwitterの裏アカウントというかたちをとってあらわれた。あらわしたというべきか。自分の思うことを140字や一分に圧縮していって圧縮していって、ついに入り切らなかった分が内部で分裂したという感じだ。そのアカウントの冷笑的な語り口は烏丸と決別したときの語り口と同じだった。拓人はその決別のときの気持ちを裏アカウントにしまい込んで隠すことでしか就職活動に正気で取り組むことができなかったのではないかと思う。

終盤、裏のアカウントが暴露され拓人は分裂したものの統合を余儀なくされる。そして彼の中の圧縮された140字や1分を解凍することが描かれるのだが、結局就活がどうなるのか何もわからないし、「それだけか」という感覚だけが残った。見終わった印象はなんとなく『聲の形』と似ている気がした。一度、理香の部屋で5人が集まっていて理香とその彼氏の隆良がコンビニかどこか行くのに外に出て行ったとき、その二人が外で一緒にいるのにお互いに「就活対策本部」のことをTwitterで呟いている(充実してるとかなんとか)のを拓人が発見して「なんで二人とも一緒にいるのに直接話さないでツイートしてるんだろうね」みたいなことを言ったとき、瑞月と光太郎はすごく気まずい反応をするのだけど、この二人はこの時すでに拓人が裏アカウントでつぶやいてることを知ってたんじゃないかなと思う。

ちなみに私は今Twitterはニュース見るの専用にしてますが、裏アカウントはありませんし、どこかで匿名で何か書いているということもありませんので悪しからず。

演劇の本質がせりふであることは否定しようがないだろう。だからこそ舞台上での人間中心的な表現として考え出され、それのみの力で自然を補う役割を与えられたせりふは、ガラスのように透明な空間で発せられるとき、その存在意義を失わずにはすまないのである。したがって、映画作家に課されている問題とは、自然なリアリズムを尊重しながらも、背景=装飾にドラマとしての不透明さを付与することにある。(p276,277)

映画とは何か(上)』アンドレ・バザン

風景に頼れないツイートが浮いてしまうのも、これと似たようなことだろう。

こうした分析が正当なものだとしたら、演劇映画についての最も重要な美学的な問題とは、まさしく背景の問題であることがおわかりいただけよう。映画監督が挑み続けなければいけないのは、内側のみを向いている空間――演劇的な演技のための閉じられた因習的な場所――を、世界に開かれた窓へと転換することなのである。(p275)

映画とは何か(上)』アンドレ・バザン

この映画は最後の最後になってやっと映画が始まる。
9/10/2020
更新

コメント