力の表現、最後のカーチェイスの意味 ジェイソン・ボーン

CIAの極秘プログラム“トレッドストーン計画”によって生み出された暗殺者ジェイソン・ボーン(マット・デイモン)。記憶を取り戻した彼が消息を絶ち何年もの歳月が経過したある日、世間から姿を消して生活していたボーンの元にCIAの元同僚であるニッキ―(ジュリア・スタイルズ)が現れる。彼女は、CIAが世界中の情報を監視・操作する事を目的とした極秘プログラムが始動したという情報を告げ、さらにボーンの過去にまつわる衝撃的な真実を明かす。それはボーンにとって新たな戦いの始まりを意味していた。ボーンは再び姿を現し、追跡を任されたCIAエージェントのリー(アリシア・ヴィキャンデル)は、彼が最も求めているものを提供すれば、再度CIA側に取り込めるのではないかと考え始める。しかし“史上最も危険な兵器”であるボーンは、追跡者が想像すらできないある目的を持って動いていた……。
ジェイソン・ボーン | Movie Walker



公開初日に観に行ったのだが、最初はあまりピンとくるものがなかったように思った。一目で見て分かるような安全保障とプライバシーのジレンマや組織の新旧の対立といったテーマは特に目新しいことではないからだ。ただ、それでも最後のラスベガスでのカーチェイスは間違いなく良かったと思った。そしてその理由を考えようとしていないことが問題だった。


この映画はまず、ニッキーがCIAのある作戦についての情報を盗み出そうとするところから始まる。彼女はCIAからモノを盗みたいのだが、彼女の行き先はCIAの本部ではなくどこか(ドイツ?)の廃工場のようなところである。そこはハッカーたちの溜まり場らしくそれなりの設備が揃っている。彼女はそこからCIAに不正にアクセスすることを試み、あるファイルをダウンロードする。CIAのリーは不正にアクセスされていることを察知し、ダウンロード中のファイルにスパイウェアを忍び込ませる。そのスパイウェアは、ファイルを閲覧しようとすればその閲覧場所が発信される仕組みになっている。

ここまでで気づくことがある。それはニッキーもリーも迂回させられているということだ。ニッキーの欲しいものはCIAのファイルなのに身体の行き先はそれとは一見何の関係もない廃工場である。リーはニッキーのダウンロードしている場所を知るために、ニッキーが発信元を知られないよう何度も違うアクセスポイントを経由して迂回した経路を辿らないといけなかった。そして、発信元を突き止めてリーがとった手段は単にニッキーを捕まえるというのではなく、ファイルを解凍した先のコンピュータを知らせるようスパイウェアウイルスを仕組むというものだった。これは単に追って追われてといったような単純なものではない。ではなぜそんなことをしなければならないのか。簡単なことだが、CIAやスパイにとっての「力」とは見ること、それも誰かに見られずに見ることだからだ。ボーンとCIAの対立はいかに自分が見られないかということにかかっている。ボーンはそれが自分のアイデンティティのためとは言えCIAを見ようとする存在だから危険なのだ。

暴力は、身体、対象、あるいは限定された存在に関わり、それらの形態を破壊したり、変更したりするが、力の方は、他の力以外のものを対象とすることはなく、関係そのものを存在とするのだ。「それは行動に対する行動、可能的あるいは現実的行動に対する行動、未来または現在に対する行動である。」それは「可能な行動にむけられる様々な行動の一集合」である。私たちは、それゆえ、行動にむけられる行動を構成する力の関係や権力関係を示す様々な変数のリストを儲けることができる。当然ながらこのリストは開かれたものである。煽動する、誘導する、迂回させる、容易または困難にする、拡大または限定する、より可能により不可能にする……。権力のカテゴリーとはこのようなものである。(p112)

フーコー』ジル・ドゥルーズ

迂回させられるのはボーンも同じだ。ボーンは地下の賭け格闘技のようなところでファイトマネーを得ているが、そこで会いに来たニッキーと一度目が合うも会う場所を指定された紙を渡されたのみで、そこで会うことはなかった。ニッキーの指定した場所はギリシャの反政府デモが行われている広場のキオスクだった。そこなら人混みに身を隠して会うことができるというわけだ。人混みの中では視線がまっすぐに通らず、人を探すには近づくか何度も視点を移動して見なければならない。そこには人を移動させる力が働いている。それは人が同じ場所に二人存在できないようなものですれ違うにはどちらか一方か両方が避けないといけない。デモの広場でボーンたちは見つかってしまう。彼らはバイクに乗って逃げるのだが、ここでも迂回させられる。デモの発生で警察が一部の道を通行止めにしているからだ。ただ、その情報をCIAは知っているがボーンたちは知らないので、迂回の経路を先読みされライフルの的になってしまう。それ以降もボーンは人混みを利用し相手を迂回させることを試みる。ただ、相手を迂回させるために自分も迂回して火災報知器を操作しに行くなど面倒なことをしないといけないのだが。

ここまで迂回すれば最後のカーチェイスが痛快であることの理由、単に見た目が良い以上の意味がわかってくる。それは今まで迂回を繰り返してきた連中が、何も気にせずまっすぐに進むからだ。ボーンの宿敵の作戦員(バンサン・カッセル)もスパイで作戦時に顔を見られてはいけないのだが、警察に面が割れてしまいその後何も気にせずにSWATの装甲車に乗ってラスベガスを疾走する。道に他の車がいても関係がないといった風に次々と吹き飛ばしながら進んで行く。これは今まで何度も迂回してきたシーンとは全く対照的といっていい。それまで見られまいと苦心していた彼らが、その軛を逃れて単に直進するのだ。

加えてストーリー序盤のかなりリアルに見えるギリシャの反政府デモのシーンが関係している。反政府デモは民衆と政府の力のぶつかり合いの場である。民衆は広場や議事堂の前に一斉に集まって声を上げる。彼らの目的は自分たちの要求を政府が聞き入れることである。中には火炎瓶が投げられ、それに対して警察が放水車で応戦するなどの直接的な表象が見られるが、お互いがお互いを潰し合うことは目的とはしていない。だから、それがいかに無秩序に見えたとしても何らかの均衡はとれているのだ。最後のカーチェイスはその均衡さえも突き破っているようにみえるので、危険ではあるが素晴らしく見えるのだ。



9/10/2020
更新

コメント