全能と消失 世界から猫が消えたなら
脳腫瘍で余命わずかと宣告された30歳の郵便配達員の青年の前に、青年とそっくりな悪魔が姿を現わす。悪魔は青年に、大切なものと引き換えに1日の命をくれるという。電話や映画、時計など大切にしてきたものが次々と失われていく中、青年は元恋人と再会を果たし、かつての思いや別れの時を思い出していく。親友や疎遠になった父の思いに触れ、亡き母が残した手紙を手にした青年は、人生最後の日、ある決断を下す。
世界から猫が消えたなら : 作品情報 - 映画.com
(世界から猫が消えたなら(プレビュー) - YouTube) |
悪魔は主人公の青年(佐藤健)の妄想だ。悪魔との契約で世界から電話が最初に消えてしまうが、それは彼の妄想であるがゆえにとてもパーソナルなレベルで世界から消える。世界から電話が消えるというのは過去にまで遡ってそうなるということらしく、大学生の時に間違い電話で偶然出会った彼女(宮崎あおい)との思い出も同時に消えてしまい、二人は出会わなかったことになっている。もしも本当に過去にまで遡って電話が消えているとしたら、あの戦争は起こらなかったかもしれないとか別の戦争が起こっていたかもしれないとか様々な世界史的空想が可能だけれども、あくまで世界の改変はパーソナルなレベルに留まっている。
「思考の全能」は、夢や幻想や、強迫観念の中で、思うままに失った対象を修復すると同時に、生ける者を思いのままに亡き者にし、消し去ることもできる。つまりそれはアニミズム的な原始的心性に通じるとともに、人間の不死や永生を願う願望と深く結びついている。それだけに死者に対する喪の仕事の過程で、われわれは意識的にはどんなに合理的・科学的思考を身につけていても、知らぬまにこの「思考の全能」に頼ってしまう。死者の死という現実を、心から納得できない以上、そしてまた再生への願望を断念することができない以上、それは避けがたい宿命である。またそこに宗教心理の永遠の課題があると言うことができる。
『対象喪失―悲しむということ (中公新書 (557))』小此木啓吾 p142
人の死に際して「願いを叶える代わりに魂をよこせ」というタイプの悪魔や死神が出てくる物語は多くある。この映画では悪魔は青年の分身として登場するが、青年と違ってかなり強気で攻撃的だ。われわれは自然法則によって確実に死んでしまうが、死の間際になるとそれを受け入れられず自然法則が私にだけは適用されなければいいのにと願ってしまう。自然法則を超えるには何らかの超自然的な存在が必要だが、そのような不死の願望を具現化したのが悪魔だろう。悪魔は世界を変えるほどの全能の持主で全能であればこそ自然法則を無視して不死を与えてくれる。この映画で悪魔が要求するのは魂ではなく世界から何かを消すことだ。何かを消せば一日だけ寿命が伸びるが、何を消すかの決定権は青年にはない。
この映画では消失について2つの考えが同じようなこととして展開されており、最終的にそれらが分離することで青年は消失、死を受け入れる。その混同は青年が父への手紙の冒頭で読む「世界から猫が消えたなら」と「世界から僕が消えたなら」を並列させていることに表れていると思う。一つはそれが最初から存在しなかったことになる種の消失と、もう一つは存在していたのにそれが途中で存在しなくなるという種類の消失だ。一つ目の方は悪魔が電話、映画、時計を次々に消していくことで表現される。それらが消失して青年が味わうのが、彼だけが消失したそれが存在していたことを知っているという孤独だ。彼女と間違い電話で出会った確実な記憶がこちらにはあるのに相手にはない。青年は電話が消えたあとに映画館で働いている彼女に会いに行くも知らない人に急に詰め寄られたような反応をされてしまう。このような孤独は誰に対しても表現しようがない。映画が消えたときも同じだ。ツタヤ(濱田岳)は中途半端な映画好きの青年に毎週DVDを貸していたことなど何も覚えていない。青年は自分が死ぬことをこのような孤独や最初から存在しなかったようになるタイプの消失と同じに捉えていたのではないだろうか。世界を変える力を持つ全能の悪魔を従えた青年がもし生きながらえたとしたら、世界の様々なものは消失し自分以外は何も存在しない世界が残るだろう。まさに自分=世界である。しかしそうなる前に2つめの消失が現れる。
悪魔は「世界から猫を消しましょう」と言った。悪魔がそう宣言してから一日で猫は消えてしまうのだが、青年は不意に眠ってしまったため起きた時に今がいつなのかわからない。時計が消えてしまっているからだ。そして猫がいなくなっている。すでに一日が過ぎてしまったのかそうでないのか猫は消えたのか消えていないのか確信ができないまま青年は猫を探しに街を探しまわる。結局見つけられず家に帰ると、猫は家で待っていた。猫は消失してしまったのでなく一時的にいなくなっていただけだった。ここで青年はブエノスアイレスの旅の途中で出会った日本人が死んだ時に分からなかったことが分かったのではないかと思う。死ぬことが最初から存在しなかったことになることではなくて、猫が急に一時的にいなくなることのほうに似ていることを。猫が見つかった時、彼女が送ってくれた母親からの手紙が届いていることに気づく。母親が病気でおかしくなって(死んだのかと思っていたのだが途中で時間の前後がちょっと分からなくなった)あたかも母親が存在していなかったかのように青年は毎日暮らしていたのかもしれないが、それは母親が存在していなかったら届くはずのない手紙でいなくなったものは最初からいなくなるということはないのだ。それを理解して青年は父親に手紙を書く。もしも死ぬことがはじめから存在しなかったことになるという不安を解消したいなら、神様しか知らないということのないように積極的に書き残すことが良いのだろう。少なくとも残された人が孤独にならなくてすむかもしれない。
9/10/2020
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