静止する画面と王様 フォックスキャッチャー
レスリングオリンピック金メダリストでありながら、練習環境にも恵まれず苦しい生活を送っているマーク(チャニング・テイタム)は、ある日デュポン財閥の御曹司ジョン・デュポン(スティーヴ・カレル)からソウル・オリンピック金メダル獲得を目指したレスリングチーム“フォックスキャッチャー”の結成プロジェクトに誘われる。自身のトレーニングに専念できること、そして彼が崇拝する兄デイヴ(マーク・ラファロ)の影から抜け出すことを願うマークにとってそれは夢のような話であった。名声や孤独、欠乏感を埋め合うよう惹き付け合うマークとデュポンだったが、デュポンの移り気な性格と不健全なライフスタイルが徐々に二人の風向きを変えていく。そんな中、マークと同じ金メダリストであるデイヴがチームに参加。だが、次第にデュポンの秘めた狂気が増幅され、誰もが予測できなかった事態へと発展していくのだった……。
フォックスキャッチャー | Movie Walker
(フォックスキャッチャー)
この辺ではちょっとやってない映画なので、ようやくDVDで観た。(kitlog: マックスのいないマッドマックス オン・ザ・ハイウェイ)オン・ザ・ハイウェイもだけど。以前も書いたがDVDで映画を観るのは気が散って少し苦手だ。
とにかく不気味な映画である。全体的に静かということもあるが(そのおかげで銃声がものすごく響く)、狂気の人物ジョン・デュポン(スティーヴ・カレル)が見せる画面がとても興味深い。彼は相手が近くにいて何か喋っていても返事に奇妙な間があったり、あさっての方向を見ていたりとそれだけでも不気味なのだが、最も不気味なのは彼が画面の中で多くのシーンで静止していることだ。以前、アナと雪の女王について人形が人間に見えるようにするために顔がとてつもなく動いているということを書いたが、デュポンが見せるのはその全く逆である。時折、表情も何もかもが、画面そのものが止まって見える。いや実際に、馬のトロフィーや絵画室の絵画といった無生物のように彼は止まっている。無生物のようにではなく無生物と一緒にと言ったほうがいいかもしれない。彼が静止すると画面そのものが静止してしまう。画面の中では何も動かない。映画を観ていて、それを静止することが出来る人物は、本来は鑑賞者としてその外側にいる人物だけである。例えばDVDのリモコンなどで。しかし、デュポンは画面の内側にいながら映画そのものを止めてしまう。そのことに気づくと彼が画面の内側にいながら、外側にも存在しているのではないかという不安に襲われる。デュポンは画面の中で止まっているのではなく、画面の外で映画を止めているのではないかといった疑念が彼をいっそう不気味にしている。
この映画は実話に基づいたものということで実際のデュポンがどういった人物かは知らないが、この映画のデュポンはデイヴ(マーク・ラファロ)がフォックスキャッチャーの宣伝用ドキュメンタリーのインタビューに答えたときの様子そのもので、お金を出して環境を整えてはくれるが、指導者や先生、「父」としては実質的には全く何の役割も果たしていない人物である。そのために、デイヴはデュポンがどれだけ偉大な人物かと問われて答えに窮し「例えばどう答えればいい?」とインタビュアーに逆に尋ねるほどである。デイヴはインタビュアーが言ったことをオウム返しのように言うだけだ、それもかなり不満そうだとわかるような表情や視線で。それがドキュメンタリーに使われたのかわからなかったが(画面には出てこなかった)、使ってるとしたら不満だというのがわかるし使ってないのなら何でデイブのインタビューが無いんだということになるのでいずれにしてもデュポンにとっては気分のいいものではないだろう。
デュポンは上のようにレスリングの指導に関しては全く役に立たない人物であるが、レスリング界で一角の人物であると見られたいという願望だけは人一倍強い。理由は母親に認められたいからだ。しかし、その母親は馬ばかりに関心があって、レスリングは下品だといってデュポンのことを認めることは絶対にない。デュポンがレスリングの大会を自分で開催して自分で優勝するという周りから見ればとても間抜けなやり方でトロフィーを獲得し、それを母親に自慢するのだが、母親は全く関心を寄せようとはせず、すぐに「あなたの主催した大会なんでしょ」とデュポンに対して軽蔑したような目でみるだけである。
そんな彼が縋ったのが国家である。国家に貢献していれば、自分が偉大な人物になったような気がする。暴力を独占する国家を真似て武器を装備した装甲車を所有し銃を扱えば、国家のようになれた気がする。映画の中の彼にとって国家が「父」であったが、しかし所詮国家とは抽象的な理念的存在であり、血のつながった父や何かの先生のように自分を指導してはくれない。あるレスリングの場面で具体的にこうすればいい、こう考えればいいということを、国家は指導してはくれない。デュポンにはそのことがわからない。なので、彼はレスラーと接するときも父や指導者としてではなく、「国家として」しか接することができない。彼の存在そのものが絵画のように抽象的なのだ。この映画の中でほとんど唯一、有能な指導者として描かれるのがマークの兄のデイブである。デイブは、デュポンとの関わりの中で堕落してしまったマークを具体的に救ってみせる。五輪の予選で一度負け、自暴自棄に落ちいったマークを復活させ五輪に導いていく。それは全くデュポンにはわからないやり方、「聞こえない」ようなやり方である。
認めてもらいたいと思っていた母親が死に、デュポンは母の所有していた馬を全て自然に逃がす。それは単に母親からの解放とか当て付けといったことではなく、馬を育てるということは全く具体的であり、貨幣のように抽象的な存在である彼にとっては全く手に負えないものであるからだ。トロフィーのような抽象的な存在である彼にとって、全く正反対で具体性の象徴であるデイブが許せるはずがない。彼の存在そのものが自分の存在の否定であるからだ。自分の存在の否定だけでなく、国家の否定とさえも彼は思ったかもしれない。彼には父親がいなかったのだ、国家以外の父親が。デュポンにとっては、「フォックスキャッチャーランド」のなかの抽象的な存在以外の存在は全て異物であり排除すべき対象である。
ラストでデュポンのもとを去ったマーク・シュルツがプロレスの世界に転身したことが描かれる。デイブという具体的な指導者、父と2歳の時に別れて父の代わりを務めていたデイブを失った彼は、USA!USA!のコールの中でリングに向う。その姿はどこか、抽象的なデュポンと重なって見えた。
デュポンは広大な自分の屋敷をレスリングチームに提供し、マーク・シュルツとともに、1988年に韓国ソウルで開催されるオリンピックに向けて、圧倒的に強いレスリング代表チームをつくり上げようと努力する。しかし、最終的にそれは悲劇に終わった(マークの兄で、やはり元金メダリストであるデイヴ・シュルツがチームのコーチとして参加したが、デュポンは1996年にデイヴを射殺。精神障害者向けの医療刑務所に収監され、2010年に同施設において72歳で死亡した)。
大富豪はなぜ金メダリストを殺したか:実際にあった殺人事件を描く映画『フォックスキャッチャー』(予告編動画) « WIRED.jp
9/10/2020
更新
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