骨を見るために鯖を食べる 風立ちぬ

かつて、日本で戦争があった。

大正から昭和へ、1920年代の日本は、
不景気と貧乏、病気、そして大震災と、
まことに生きるのに辛い時代だった。

そして、日本は戦争へ突入していった。
当時の若者たちは、そんな時代をどう生きたのか?

イタリアのカプローニへの時空を超えた尊敬と友情、
後に神話と化した零戦の誕生、
薄幸の少女菜穂子との出会いと別れ。

この映画は、実在の人物、堀越二郎の半生を描く─。

ストーリー - 映画『風立ちぬ』公式サイト

広島市の松井一実市長は1日、「原爆の日」の6日に平和記念式典で読み上げる「平和宣言」の骨子を発表した。核兵器を「絶対悪」と位置づけ、早期廃絶を強く求めるとともに、東日本大震災の被災者の思いに寄り添い、応援し続けることを伝える。原発問題に関しては政府に国民の暮らしと安全を最優先にした責任あるエネルギー政策を早期に構築、実行することを求めると表現し、今年も「脱原発」にはふれない。被爆者5人の体験談を盛り込む。

宣言では「広島は日本国憲法の掲げる平和主義を体現する地であり、人類の進むべき道を示す地」と明言。世界の為政者に対し広島訪問と、信頼と対話に基づく安全保障体制への転換を要請し、北朝鮮の非核化や北東アジアの非核兵器地帯の創設に向けた関係国の努力を求める。
平和宣言で“脱原発”触れず 広島市長「核兵器は絶対悪」 - MSN産経ニュース

終戦の年、広島と長崎に原爆が投下され二つの地域に未曾有の被害をもたらしました。科学における美とは対象とモデルとの類似性にあります。例えばケプラーやニュートンによって惑星の軌道や物質の運動などが代数のモデルの中でそれとの類似性を見出されてきました。しかし自然の中にそのような法則を見出すことが結果として原爆のような大量破壊の兵器による被害を生じさせることになり、科学者の間で科学の価値に対する熟慮や反省が起こりました。その一つの帰結が例えば『二つの文化と科学革命(C.P.スノー)
における人文的文化と科学的文化との断層をどう考えるかという問題でした。人文的文化と科学的文化とは人間についての知識と自然についての知識と置き換えても良いと思いますが、それは例えば次のようなことです。

とある夫婦が並んで歩いているとします。そのときに夫がポケットからハンカチを取り出したところ、勢い余って妻の顔にそれをぶつけてしまったとします。そこでその夫が自然についての知識をもってそのことを考えるならば、「ハンカチを取り出すのに勢いをつけすぎてしまって妻の顔にハンカチを当ててしまった」と反省し、彼はニュートンの法則に従ってハンカチを取り出すときの腕の力を修正するでしょう。しかしまた、そこに人間についての知識があったらどうでしょうか。彼は「ハンカチを勢い余って取り出して妻に不快な思いをさせてしまった」と反省し、二度とそのようなことはするまいと思うでしょう。普通人間はこれらの知識の両方を持ち合わせていると思いますが、当時の科学者においては人間についての知識が軽視されていたのではないかということになったのです。

しかしそのような論争も冷戦という現実的な事態やソ連によるスプートニク一号の成功によってうやむやになってしまいます。
原子爆弾・水素爆弾といった核兵器の大量保有を達成したアメリカであったが、その輸送手段は専ら戦略爆撃機などであった。ソビエト連邦が核開発に成功しても、その生産規模・輸送力においてアメリカは優位であると信じられていた。

だが、ソ連はかつてのナチス・ドイツのミサイル技術を以って世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるR-7(愛称「セミョールカ」、NATOコードネーム「サップウッド」)を開発する。1957年にはR-7系列のボストークによるスプートニク1号の打ち上げで、人類で初めて人工物体を地球で周回させる事に成功した。ソ連のニキータ・フルシチョフはミサイル戦略の対米優位を強調する。

アメリカにおいては、核技術での地位は揺らがないものの、ミサイル技術の遅れが命取りになるという論争が生まれた。アメリカはソ連に続く人工衛星「エクスプローラー1号」の打ち上げを成功させ、大陸間弾道ミサイルを中心としたミサイル戦略を進める。だが、ソ連のミサイル配備がどれほどなものかがわからない状況で、不安が募るばかりであった。

不安は疑心暗鬼を呼び、アメリカ国内は反共色と右傾化が進み、ローゼンバーグ事件、赤狩りのような魔女狩りにも似た暴挙まで起きた。また、「ソ連の核に対する予防戦争としての先制核攻撃の是非」さえもが公然と論じられた。
ミサイル・ギャップ論争 - Wikipedia

風立ちぬ
風立ちぬ 公式サイト

風立ちぬの世界もこのような背景とは無縁ではありません。堀越二郎は美しい飛行機を求めて零戦を設計しましたが、それらは一つとして日本に帰ってくることなくその過程で国が滅ぶことになります(相手の国も傷ついているのだけれどね)。彼は夢の中で憧れのイタリア人航空設計士に問われます。「ピラミッドのある世界がいいか、ない世界がいいか」と。ピラミッドは多くの人間の存在と時間を賭けてつくられた大変なものですが、二郎は臆面もなく「ある世界がいい」と答えます。自然の中に途方もない巨大さの幾何学的形態を構想することは、自然の中にある法則を発見しようと躍起になることに似ています。例えば鯖の骨の中に飛行機の骨組みにとってよい形態を見たり、それらの類似点を探るように。どちらも自然の中に美を求めていて、それはほとんど次のような世界です。

美は真にして、真は美、それこそは
汝のこの世にて知るすべてにして、
また汝の知るべきすべてなり。

「Ode on a Grecian Urn」『対訳 キーツ詩集―イギリス詩人選〈10〉 (岩波文庫)

その世界観は二郎の頭の中だけでなく映画の世界観にも貫かれています。夢で始まって夢で終わり作品の中もほとんど夢みたいな映画ですが(もちろん虚構ですけどね)、そう何度も断った上で関東大震災のようなものが描かれるシーンで家々がせり上がるシーンがあったのですが、あれは演奏中のピアノの鍵盤を見ているようで、人々の逃げる様子は顕微鏡で細胞を覗いているかのようでした。人々の悲惨なシーンは描かれません。美術館で現代美術のガラクタを見たくないと同じように虚構でまでそんなものは見たくありませんから。気がついたら焼け跡を片付けた後です。それでも背景に聞こえる、家・地盤が軋む音や断末魔の叫びを人の声で、つまり嘘の音で表現しているのが不安感を誘って、妙な現実感があります。

もうひとつのテーマは「時間がない」ということでしょうか。戦争が始まろうとしており、航空機の設計には納期があり、ライバルもいる。そしてヒロインの菜穂子は結核でいつまで生きられるかもわからない。そうすると人間やはり車に乗って進むように目に入ってくる情報を省略しながらアクセルを踏んでいくしかないのでしょう。全てに目をかけておくことはできません。それをやろうとするとたぶん鬱病になりますよ。そういうのを見て二郎が薄情だという感想もありましたが、果たしてそうでしょうか。冒頭にイジメられている少年を助けるシーンや菜穂子の速い病状の悪化に涙する場面もあります。それに治るともわからない中で孤独に闘病生活をしている方がいいのでしょうか。病気に苦しむだけで何も夢を与えられないことのほうが不幸ではありませんか?二郎が一度航空実験で失敗し、山の中のホテルで引きこもっていたのを菜穂子に救ってもらった時からお互いがお互いの希望になっていたしお互いに人生を賭けることができたのだろうと思います。このあたりは最初の夢で巨神兵みたいなのも上から降りてきたし、時間を超えた人間を産んでしまったエヴァQと対称になっているんだろうなと思います。

ただ、やはり重いのは美の方で、美の前では人間は平等になれないんでしょうね。世の中に宝石がいくつもあるわけじゃありませんから。んー時間もそうかな。
9/10/2020
更新

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