直接性と間接性の間で コーダ あいのうた
豊かな自然に恵まれた海の町で暮らす高校生のルビーは、両親と兄の4人家族の中で一人だけ耳が聴こえる。陽気で優しい家族のために、ルビーは幼い頃から“通訳”となり、家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。新学期、秘かに憧れるクラスメイトのマイルズと同じ合唱クラブを選択するルビー。すると、顧問の先生がルビーの歌の才能に気づき、都会の名門音楽大学の受験を強く勧める。だが、ルビーの歌声が聞こえない両親は娘の才能を信じられず、家業の方が大事だと大反対。悩んだルビーは夢よりも家族の助けを続けることを選ぶと決めるが、思いがけない方法で娘の才能に気づいた父は、意外な決意をし・・・。
(アカデミー賞最有力!サンダンス映画祭最多4冠!「コーダ あいのうた」本予告 - YouTube) |
直接的な親と透明な通訳
現代のセクシュアリテを特徴づけているのは、サドやフロイトをとおして、セクシュアリテがその原理の、あるいはその本然の言語を見いだしたということではなく、かれらの言説の暴力性によってむしろそれが、「本然の質を失い」、もはや頼りない限界のかたちにしか出会わず、その限界を踏み破る熱狂のうちにしか彼岸も延長もありえないような、ある空虚な空間に投げ出されたということである。(p61)
おそらくわれわれの文化におけるセクシュアリテの重要性や、サド以来それがあれほど頻繁にわれわれの言語のもっとも深い決断の数々に結びつけられてきたという事実は、ほかでもないセクシュアリテを神の死に結びつけるこのつながりに由来している。この〈死〉は、神の歴史的君臨の終焉だとか、ついに言い渡されたその不在確認だとか理解されるべきものではなく、今後恒常的になるわれわれの経験の空間として受け取られなければならない。神の死はわれわれの生存から〈無限のもの〉という限界を奪い去り、その限界を、もはや何ものも存在の外部を告知しえないような体験、したがって内的かつ至高であるような体験へと導くものなのだ。(p64)
侵犯への助言 『フーコー・コレクション2 文学・侵犯』 ミシェル・フーコー
コーダ(CODA)とはChildren of Deaf Adultsの略語である。ルビー(エミリア・ジョーンズ)は両親と兄の四人家族で、彼女以外は耳が聞こえない。ルビーと父のフランク(トロイ・コッツァー)、兄のレオ(ダニエル・デュラント)で早朝から自分の船で漁に行き生計を立てている。ルビーは漁の仕事に加えて仲買人とのやりとりなどもして、その後に登校している。
ある日、両親フランクとジャッキー(マーリー・マトリン)が性病に罹り、ルビーも医者との通訳のために病院に連れて来られる。フランクは自分の性病の症状がどんなものかについて、普通には考えたこともないような比喩で、それも手話を使って医者に伝えようとする。フランクはフジツボがああなってこうなっているみたいだとか、茹でたロブスターがどうだとかと手話で巧みに表現する。彼がこのようなある意味詩的な表現を使うのは性的な場面のみである。ルビーとマイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)が家で歌の練習をしているときも、両親はそれに気づかずに隣の部屋でセックスを始めてしまい、二人を戸惑わせる。それだけでなく、フランクはルビーがマイルズをセックスのために家に呼んだのだと勘違いをし、コンドームの必要性について、手話で語り始める。この時は、兵士の比喩を使っている。これらのことはルビーの両親は生活の中でセックスに重きを置いていることをあらわしている。彼らは医者から治療のため二週間それを禁止すると言われ、「信じられない」「無理だ」とこの世の終わりのような反応をする。比喩は内側のことを外の事物で表すが、フランクの用いる比喩は性的なものを通じてのみ外とつながるといった逆説(依存)をあらわしている。
(アカデミー賞最有力!サンダンス映画祭最多4冠!「コーダ あいのうた」本予告 - YouTube) |
ルビーの家族は耳が聞こえないが、それだけでなく、おかしなことに同時に自分たちの評判や反響も聞こえていないように見える。ルビーがダイニングで勉強していると、その横で母親のジャッキーがものすごい音を立てながら皿やフォークを並べ始める。フランクが車で学校にルビーを迎えに来た時、彼は車のスピーカーをほとんど最大にしてラップを流しながらやってくる。彼はラップの振動が好きなのだという。両方とも耳が聞こえるルビーには迷惑な行為だが、両親はほとんど気にしていない。特に車の場合は、他の生徒も見ているのだが、フランクは自分の音の好みを話すだけである。彼らには他人というものが全く存在していないかのように見える。彼らは直接的にそこにあるもの、触れられるもの、自分から半径数メートルにあるものだけを評価している。セックスに関することは直接性そのものだが、生業にしている漁もそうだろう。魚がいるかいないか魚がいるところに網を張れるかどうかが自分たちの生活に直結している。そこには他の人が介在する余地が少ない。仲買人を通さずに自分たちで魚を売ろうとするのもその一環かもしれない。
最初の医者の例もそうだが、両親が他人とコミュニケーションをしなくてはいけない時は必ずルビーを必要とする。彼女は彼らの直接性が比喩的にでなく現実的に外につながる唯一の回路である。なぜか彼ら家族以外に手話のできる人がいない。ルビーはフランクが手話で言っていることを正確に他人に伝えなくてはいけない。その時彼女は空気や言語のように透明である。いなくてはならないが、いて当然といった風に彼女は存在している。医者との会話の時に、ルビーは両親が性行為を我慢する期間を「これからずっと」と手話で嘘をついたが、逆のことはできない。つまり、父親が手話で表現していることと全く違うことを表現することはできないのだ。政府の命令で漁業に監視がつくというので、漁師たちが抗議して、その中にフランクもいたが当然横にルビーもいる。彼女は父親がどれだけ下品な言葉を使おうと、その通りに喋らないといけない。彼女は他人を前にして透明な存在だが、空気や言葉のようにどこにでもあるわけではなく、親の横にいなくてはならない。
(アカデミー賞最有力!サンダンス映画祭最多4冠!「コーダ あいのうた」本予告 - YouTube) |
兄と友人と誤訳
もし人が自分を孤立していると感じていたならば、彼は滑稽を味わないであろう。笑いには反響が要るもののように思われる。笑いをよく聴いてみたまえ。それははきはきした、明瞭な、くっきりした音ではない。それは隣りから隣りへと反響しつつ長びいていこうとする何か、ちょうど山中の雷鳴のように、最初爆発すると、ごろごろと鳴りつづけてゆく何かである。しかもそれにも拘らずこの反響は果てしなく歩みゆくべきものではない。それはどんなに広い円周の内部をも進行することができる。でも、やっぱり円周は囲われているのだ。我々の笑いは常に集団の笑いである。(p15)
『笑い』ベルクソン
(アカデミー賞最有力!サンダンス映画祭最多4冠!「コーダ あいのうた」本予告 - YouTube) |
ルビーのほとんど唯一の友人ガーティー(エイミー・フォーサイス)もなぜかセックスのことばかり考えている。彼女はルビーの兄レオの気を引きたいといって手話でどう表現したらいいかルビーに相談する。ルビーは兄に手を出そうとするのは止めればというのだが、ガーティーは聞かない。ガーティーは二階のルビーの部屋から降りてくると、一階のソファーに座っているレオに覚えたての手話を披露する。ガーティーは兄の気を引きたかったのだが、彼女が披露した手話は「私は性病だ」というものだった。ガーティーはちゃんと伝えることができたと帰っていくが、レオは困惑した顔をしてルビーのことを見る。ルビーは間違った手話を教えていた。ここではロマンチックになりそうだったものがそうでないものに変わって笑えるところなのだが、よく考えると別のことがわかる。ここでルビーは間違った通訳をしているのだが、そこには彼女の意思が含まれている。彼女は単に間違ったことを言ったのではなくて、自分が思っていることをその間違いに載せている。ここでは、ガーティーとレオにうまくいってほしくないという彼女の思いが含まれている。映画の最初に、両親が性病になって医者から二週間性行為を控えるよう言われたのを、これからずっとダメと一度嘘をついたのもそれと同じことなのかもしれない。ガーティーとレオの関係について、ルビーは少し意地の悪い邪魔をしたが、もはや問題はメッセージの内容ではない。重要なのはガーティーが手話を覚えようとしたことだ。この映画にはそのような人物は彼女の他には一人しかいない。ここでこの映画において何か新しいことが起こっていることが伝えられる。
レオは耳が聞こえないながらも、耳が聞こえるコミュニティへ積極的に入ろうとはしている。漁が終わった後、家族と別れて同じ漁師たちとバーへ飲みに行く。同じ机を囲んで同業者たちは何かを話したり、それを聞いて笑ったりしているのだが、何を話しているのか何を笑っているのか口元を見てもレオには全くわからない。そうしていると別の客がわざとではないがぶつかって、こぼした酒がレオの背中にかかり殴り合いの喧嘩になってしまう。レオの外につながる努力は失敗に終わったかと思えたが、そこでガーティーがバイトをしていて喧嘩の一部始終を見ており、いいパンチだったとか言って意気投合する。レオは家族の中で中間的に外を志向しているが、ガーティーと出会ったことでルビーの評判を聞くことができるようになった。レオも両親と同様に耳が聞こえないので、直接ルビーの歌を聞いて上手かどうかを判断することができない。けれど、彼はガーティーのルビーの歌声の評価について知っているので、ルビーを初めのうちから応援することができた。ルビーが最初に母親のジャッキーにコーラス部で歌を歌っていると言ったとき、ジャッキーはそれについて「反抗期」だとか「耳が聞こえない自分たちへの当てつけ」としか言うことができなかった。歌を聴くことは両親にとって少しも直接的ではなかった。
監視員、不透明な才能
(アカデミー賞最有力!サンダンス映画祭最多4冠!「コーダ あいのうた」本予告 - YouTube) |
聖書、自然、神の言葉といった、一種の先だって存在する書物があったのであり、そうした書物があらゆる真理を、自らのうちに隠すと同時に告げ知らせていたのです。
慎しみ深い至高の言語がそうしたものだったために、一方では、他のあらゆる言語、人間のあらゆる言語は、作品になりたければ、そうした慎しみ深い至高の言語を再翻訳し、書き写し、反復し、復元しなければなりませんでした。しかし他方では、そうした神の言語、自然の言語、真理の言語は隠されていました。こうした言語は、あらゆる開示の基礎だったのですが、自らは隠されていて、直に書き写し得るものではありませんでした。そのために、語をずらし、ねじること、つまりまさしく修辞学と呼ばれるシステム全体が必要になったのです。結局、隠喩、換喩、提喩といったものは、以下のようなものでないとしたら、一体何だったというのでしょうか。それは、序盤のゲームで障害物を使うように、不明瞭で、自身に対して隠されている人間の言葉を使って、無言の言語を、つまり作品がそれを復元し、再生させることを自らの意味、自らの課題としていた無言の言語を、ふたたび見いだすための努力なのです。
言い換えるなら、饒舌ではあるが、何も語らない言語と、すべてを語るが、何も示さない絶対的言語の間に、媒介的な言語が存在しなければならなかったのです。つまり、饒舌な言語を、自然と神の無言の言語へと立ち返らせる媒介的な言語が存在しなければならなかったのであり、それこそが文学的言語だったのです。もしわれわれが、バークリーや一八世紀の哲学者たちにならって、自然や神によって語られたこと自体を記号と呼ぶとするなら、次のように簡潔に言うことができます。古典主義時代の作品を特徴づけていたのは、比喩形象の働きを通じて、言語の厚み、不透明性、不明瞭性を、諸記号の透明性、輝き自体へと引き戻すことだったのです。
逆に言えば、文学が始まったのは、数千年にもわたりたえず聴取され、感知され、想定され続けてきたこうした言語が、西欧世界あるいはその一部に対して、口をつぐんだ時だったのです。一九世紀以降、人々はこうした原初的な言葉に耳を傾けるのをやめます。そしてそのかわりに、際限のない呟き、すでに語られた言葉の堆積が聴き取られるようになります。こうした状況において作品は、無言の絶対的言語の記号に相当する修辞学の諸形象のうちで具体化される必要はもはやなくなります。作品は、すでに言われたことを反復する言語として語ればよいのです。そうした言語は、反復の力によって、かつて語られたあらゆることを消去しつつ、同時に自らのごく近くに接近させて、文学の本質を取り戻すのです。(p120,121)
シェイクスピアであれ、ラシーヌであれ、古典主義時代の作品の本質自体が、結局は演劇のうちに見いだされるのはそのためです。人々は表彰=上演の世界にいるからです。反対に一九世紀以降、厳密な意味での文学の本質が見いだされるのは、演劇においてではなく、まさに書物においてなのです。(p122,123)
『フーコー文学講義』 ミシェル・フーコー
歌の才能はどうしたら分かるのか。なぜコーラス部のメインのデュエットにルビーは選ばれたのだろうか。ルビーが入部したときに他の部員と歌を聞き比べて何か光るものを感じることはできただろうか。V先生はなぜ彼女を選んだのだろうか。ルビーはCODAで、幼い頃は発音がうまくできなくて声を馬鹿にされていたのだという。それで、コーラス部の歌のテストを一度逃げ出す。V先生はボブ・ディランはデヴィッド・ボウイに砂と糊を混ぜたような声と評されていたとか、自分もメキシコ系で発音に苦しんだといって彼女を励ます。ルビーはV先生に歌う時どう感じるかと問われて、その場にいるV先生や映画のほとんどの観客にもわからない手話を披露するが、それは父親の表現豊かな性的な手話とは違った意味で外につながっている。V先生はルビーとルビーが描いた外との間に入りたいと思ったに違いない。
そうやって、直接的な家族の間に外から他の誰かが入ろうとしてくる。それはいい場合もあれば悪い場合もある。例えば、政府が漁業の見回りとして監視員を派遣してくる。フランクとレオだけの漁船に監視員が乗り込み、監視員は耳が聞こえないものだけで漁をするのは危険だと政府に報告し、罰金を払わなければいけなくなる。ルビーが漁にいなかったことでこうなってしまったのだが、そのことでルビーの家族の中での役割が問われるようになる。また、学校では、マイルズがフランクの性的な手話を面白がって友人の一人に話してしまい、それが学校で噂になってルビーがからかわれ、ルビーとマイルズの関係がぎくしゃくしてしまう。
物語の後半に行くにつれてそのような間接性が強調されていき、校内のコンサートで頂点を迎える。ルビーの歌を聞きに、フランク、ジャッキー、レオの三人とガーティーが席に座る。観客席はほとんど満員の状態だ。コーラス部の歌が次々と披露されていく。その盛り上がりとは裏腹にフランクとジャッキーは少し退屈そうな表情も見せる。ルビーとマイルズのデュエット『You're All I Need To Get By』が始まる。しばらくすると歌の途中ですべて音が途切れて無音になり、カメラはフランクに焦点を当てる。コンサートの盛り上がりとは無縁に思われる静寂と同時に主観がフランクにうつる。彼には何も聞こえていない。彼の目にはルビーは口を開けたり閉じたりしているだけにしか見えない。ここでおそらく初めて彼は周りを見回す。外に目を向ける。他の人がどう感じているか、ルビーの歌がどう聞こえるのか間接的にでも知ろうとするのだ。ハンカチで涙を抑えている観客もいる。ここでフランクがルビーに与えていた通訳という透明な役割がひっくり返る。彼にとってルビーの才能が不透明なことが明らかになる。大勢の観客が周りにいる中で彼女の才能を無視することはできない。通訳のことをだれが通訳してくれるのか。それはルビー以外の人に頼らざるを得ない。それで彼は周りを見回すのだ。
間接性の問題はもう一度ひっくり返る。ルビーの音楽大学進学と政府が課す罰金、新しく始めた魚の直売所の手伝いとの間の選択の問題はフランクがルビーの歌を直接聞いたことで終わる。フランクはコンサートでルビーの歌を間接的に聞いたが、彼は直接性の人なのだ。彼はルビーの喉に手を当ててコンサートで歌っていた歌『You're All I Need To Get By』をもう一度歌ってほしいという。ルビーが歌い始めると喉の振動から彼女の歌がフランクに伝わってくる。ここでは映画の前半に見られたセックスの音が隣りから漏れてくるとか、車のラップの音が大音量で外に漏れてくるといった悪いイメージが反転してしまっている。フランクやわれわれ観客はルビーの喉から漏れてくる音に集中せざるを得ないし、それが力強く漏れてきてほしいと思う。フランクはルビーの音楽の才能を認め、大学の歌の受験を許可する。ルビーの歌の試験は今までの直接性、間接性の揺れのそのままの表現になっている。ルビーは試験官に向かって直接歌を歌うが、彼女はまた外に向かって手話を加えて上階に忍び込んだ家族に直接自分の歌を伝えている。試験官はそれを間接的に受け取っている。
I’ve looked at clouds from both sides now
From up and down and still somehow
It’s cloud illusions I recall
I really don’t know clouds at all
『Both Sides Now』 Joni Mitchell
(アカデミー賞最有力!サンダンス映画祭最多4冠!「コーダ あいのうた」本予告 - YouTube) |
或る意味ではこれらの論文は、マクマスター大学の哲学教授であった故ジェームズ・テン・ブルックが出題するのを常としていた心理学の問題――「われわれはなぜ、われわれが耳を傾ける事柄に耳を傾けるのか」――に答えようという試みである。これらの論文はこの問いの答えにはなっていない。しかし、この問いを考察することによって刺激を得た考察である。(p21)
まえがき『メディアの文明史 コミュニケーションの傾向性とその循環』ハロルド・A・イニス
コメント