神話から戦争、再び神話へ ワンダーウーマン

女性だけが暮らすパラダイス島で、プリンセスとして生まれ育ったダイアナ(ガル・ガドット)は、好奇心旺盛だが外の世界を一切知らず、男性を見たことすらなかった。そんなある日、島に漂着したアメリカ人パイロットのスティーブ(クリス・パイン)を助けたことで、彼女の運命が大きく動き出す。外の世界で大きな戦争が起きていることを知った彼女は、自身の力で世界を救いたいと強く願い、二度と戻れないと知りながらスティーブが暮らすロンドンへ行くことを決意。やがて、ダイアナは、無敵のスーパーヒーロー“ワンダーウーマン”としてのパワーを開花させていく……。
ワンダーウーマン | 映画-Movie Walker

ワンダーウーマン
(映画『ワンダーウーマン』本予告【HD】2017年8月25日(金)公開 - YouTube

アマゾンは女ばかりの国でありました。その女たちは戦争が好きで、繁華な町がたくさんありましたが、彼らの習慣ではただ女の子供だけを成長させることになっていました。男の子供は隣国に送るか、さなくば皆殺してしまいました。(p197)

『ギリシャ・ローマ神話』ブルフィンチ

──ちなみに、ノーマンズランドをウーマンに歩かせるというのは狙ったことですか?

ジェンキンス:そうなんです。言葉遊びが好きだったので、あのシーンを撮りました。彼女が直接的に言葉で表現するという案もあったのですが、特別言及しないほうがカッコいいだろうということになりました。
映画『ワンダーウーマン』パティ・ジェンキンス監督にインタビュー! 「ワーナー・ブラザーズが最初に持ってきたストーリーは私のやりたいものではなかった」|ギズモード・ジャパン

伝説にとって必要欠くべからざるテーマは、観念ではなく行動、教義や象徴的表現ではなく出来事や事件――戦争、洪水、陸・海・空にわたる冒険、家族の不和、出産、結婚、そして死――であった。儀式、祭りその他の行事の折にそうした物語に耳を傾けるとき、人々はそれをあたかもわがことのように追体験したのである。彼らはそうした物語を無条件で信じた。「神話的想像力のうちには、信じるという行為が常に当然のこととして含まれている。その対象の現実性を信じるのでなければ、神話はその基盤を失うであろう」。(p30)

『オデュッセウスの世界』M.I.フィンリー

現代においては「ナチス=悪」という等式は絶対である。それを少しでも擁護したということになれば、何をされるかわからない雰囲気がある(【オピニオン】ナチズムの恐怖がよみがえる2017年 - WSJ)。けれど、ナチス以前の世界ではどうだったのだろうかと想像することは困難であるように思える。この映画は第一次世界大戦がモチーフだが、その当時は何が悪のアイコンだったのだろうか。監督のパティ・ジェンキンスは”第一次世界大戦は100年も昔に起こった戦争であり、第二次世界大戦とくらべても善悪の境目が曖昧で非常に複雑なストーリーを描けるところが大きな魅力です。”(映画『ワンダーウーマン』パティ・ジェンキンス監督にインタビュー! 「ワーナー・ブラザーズが最初に持ってきたストーリーは私のやりたいものではなかった」|ギズモード・ジャパン)と言っているが、ナチスのような絶対悪の対象は存在しなかったのだろうか。

ダイアナは子供の頃からある神話を教えられていた。それはゼウスが自分と似た形をした善人をつくったが、やがてその息子の軍神アレスが人間に嫉妬と疑念を与え、人々を争わせた。その後アレスはゼウスに倒されるのだが実はまだ人間界で生きており、アマゾネスはアレスが再びやってきた時のために戦闘のための厳しい訓練を自らに課しているというものだ。その神話に従って、ダイアナも厳しい訓練を受けた。彼女のそれは特別で人よりも何倍も
厳しいものだった。彼女の中にはある観念が宿っていた。それはアレス=悪でアレスを倒せば世界は救われるというものだ。

アマゾネスの島はゼウスによって隠されていたのだが、そこに偶然、連合軍側のスパイ、スティーブがドイツ軍から逃れて見えないはずの島に不時着し、ダイアナは彼を助ける。そこに追ってきたドイツ軍が現れ、スティーブが奪ったものを取り返そうと上陸してくる。そこにアマゾネスの戦士たちが現れドイツ軍との戦闘になる。ここで両者の違いが際立つのだが、ドイツ軍は基本的には皆コピーのように同じ格好をしており銃を撃つだけであるのに対して、アマゾネスは弓矢や槍、剣、格闘など多彩さや動きの華麗さをもって対峙する。アマゾネスはドイツ軍を退けるのだが、ダイアナは「外で人間が戦争をしている、アレスの仕業だ」といって、人間を救いに行くことを決意する。

ダイアナはスティーブとともに戦場へと向かう。ダイアナは人間離れした能力で戦場を切り開いていく。彼女が戦争中に人間を上から見下ろすシーンが二つある。一つは、彼女が連合軍とドイツ軍が膠着状態に陥っている中で、近くにある小さな村で虐殺が行われようとしていると知り、その村を救った場面だ。彼女は持ち前の戦闘力でドイツ兵士を次々と倒していき、最後に教会の鐘楼にいるスナイパーを倒したことで、隠れていた村人が外に出てきて彼女を賞賛する。彼女はそこで自分には自分の行動には価値があると思ったに違いない。もう一つは、ダイアナがアレスだと思っていたドイツの将軍ルーデンドルフ(ダニー・ヒューストン)を殺したときだ。ルーデンドルフはドラッグで筋力を増強しているがただの人である。けれど、ダイアナは彼をアレスだと思っているので、彼を殺したあと下にいるドイツ兵たちを見下ろして「アレスを倒したのに、なぜ戦争が終わらないの」と苦しむ。小さな村を救ったときとは明らかに状況が違う。ここで神話ではなく現実の近代の戦争の問題が出てくる。ヴァレリーは一八九七年にドイツについてこう書いている。

モルトケ元帥はそのシステムを体現している。彼こそシステムの指導者であり、生き証人であった。彼の意図の最も深いところにあるものは、自分が死んでも支障が起こらないということだった。彼を彼以前の将軍たちと区別するのはまさにその点である。(p67)

彼は死なないということ、つまり、彼の後には、他の二流の人物たちが必ずいて、彼のやり方を受け継ぐのである。彼のやり方が後に続くものたちにとっても一番身の丈にあっていて、もっとも高い成果をあげさせてくれるのである。彼がいなくなっても、すべては残る。国家にとって、それこそ力である。

こうした考え方は近代国家における人間の位置とその価値についてよく説明してくれる。現代ドイツは実践的な結果において、その行動の全般において、他に勝っている。しかし、その優位性をもたらす人々の個人的な質は凡庸であり、一定である。全般的増大にはそれが一番いいのだ。ドイツにおいては、英雄の時代は過ぎた。(p70,71)

『精神の危機』ポール・ヴァレリー

ダイアナはこの世界で英雄の時代が過ぎていることに困惑する。この世界では兵士が取り替え可能なのと同じように将軍でさえも取り替え可能なのだ。それはアマゾネスの世界では考えられないことであり、ダイアナはそのことで連合軍の本部で怒りを表していた。そのことは最初にドイツ軍とアマゾネスが対峙したときに、ドイツ軍の凡庸さとアマゾネスの華麗さというかたちで対比がなされている。

アレスはいなかった。それなのに人間は戦争をするのかとダイアナが困惑しているところで、再び神話があらわれる。アレスは実在していた。イギリスの政治家で味方だと思われていたパトリック(デヴィッド・シューリス)がアレスだった。彼は人間を焚き付けて絶滅させるつもりだったのだという。ここから神どうしの戦いは精神的なもの観念的なもの(いささか観念的に過ぎるか)となる。愛を信じるか信じないかの戦いになる。

勇気においては、エロスに向えば「アレスすらも敵ではない」。けだしアレスはエロスを取抑え得ないが、エロスは――伝うるところによれば、アフロディテへの愛は――アレスを取抑えるからである。しかるに取抑えるものは、取抑えられるものより強い。ところがあらゆる爾余の者のうちの最も勇敢なるものを支配する者は、またもっとも勇敢なる者でなければならぬ。(p92)

『饗宴』プラトン

アレスは自分は戦争の神ではなく真実の神であるという。彼によれば、人間は醜く汚く救うに値しない存在だ。それは否定される。ダイアナは愛を信じるのだが、それは映画の作り方の問題でもある。

映画の中にも真実をもとめる大衆の要求にむかって、贋金をつかませるアメリカ映画の一つの方法は、性と精神病とをスクリーンに描き出すことであった。「欲望という名の電車」などがその二つともをあわせた代表的な例だといえるが、色情狂の女主人公――最後にはほんものの狂人になる――とそれをとりまく男たちの欲情を描いて、ここにこそ人間のおそるべき深淵があり、これこそ人間性のかくされた真実であると主張する。(p179)

「典型的な人間」を「典型的な環境」においてとらえて、しかもそれを生き生きと描き出せない。そこで、今度は反動的に、このような公式論が何になるか、といってすべての理論をすてて生活の渦巻の中にとび込み人間の垢によごれてはじめてほんものの芸術が生れるというような態度にはしってしまう。人間の暗い本能だけを人間と見る自然主義が生れたり、人間の暗い心理のそこにだけ興味を持つ「神経症的リアリズム」におちいったりする。(p185)

『映画の理論』岩崎昶

これらの地べたを這うようなリアリズム、アレスのいう真実からダイアナは距離をとる。ワンダーウーマンはそれらの現実を跳躍台としてそこから先に飛ぶ力を持っている。映画の最後に跳躍する彼女の姿はそのことを物語っている。
9/10/2020
更新

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