迷子の宝探し 君の膵臓をたべたい
高校時代のクラスメイト・山内桜良(浜辺美波)の言葉をきっかけに母校の教師となった【僕】(小栗旬)。
彼は、教え子と話すうちに、彼女と過ごした数ヶ月を思い出していく――。
膵臓の病を患う彼女が書いていた「共病文庫」(=闘病日記)を偶然見つけたことから、【僕】(北村匠海)と桜良は次第に一緒に過ごすことに。
だが、眩いまでに懸命に生きる彼女の日々はやがて、終わりを告げる。
桜良の死から12年。
結婚を目前に控えた彼女の親友・恭子(北川景子)もまた、【僕】と同様に、桜良と過ごした日々を思い出していた――。
そして、ある事をきっかけに、桜良が12年の時を超えて伝えたかった本当の想いを知る2人――。
(映画『君の膵臓をたべたい』オフィシャルサイト)
(「君の膵臓をたべたい」予告 - YouTube) |
高校教師の【僕】は、図書館の取り壊しが決まったために蔵書の整理を頼まれる。彼が同じ高校の卒業生で図書委員をやっていたことがあると知られていたので、勝手がわかっているだろうと思われたからだ。彼はあまり乗り気ではない。彼の机の引き出しの奥には退職願が隠されている。彼はその依頼を断ることができず、ためらいがちに図書館のドアノブを開く。すると、彼の目の前に十二年前の光景が甦ってくる。
技術文明が狂騒的なものの膨張や再膨張を作り出し、審美主義や個人主義といったよく知られた効果をも生み出すのは、それが倦怠をもたらすからである。というのも、技術文明は責任ある自己という、神秘的でかけがえのない単独性=特異性を「平板化」し、中和してしまうからだ。この技術文明の個人主義は、単独かつ得意な自己を軽視することに基づいている。それは役割の個人主義であって、人格の個人主義ではない。別の言葉を使うならば、仮面ないしはペルソナの個人主義、人物の個人主義であって、人格の個人主義ではないと言うこともできるだろう。ルネサンス以降に発展した近代の個人主義は、単独で特異な人格ではなく、演じられた役割に関心を持つようになる。(p76,77)
『死を与える』ジャック・デリダ
【僕】は他人に無関心で教室で本ばかり読んでいる、桜良はクラスの中心人物という感じで同じ教室にいても二人にはあまり接点がない関係だったのだが、ある日【僕】が盲腸の手術の関係で病院に来ていたときに桜良の「共病文庫」という秘密の日記を拾って、彼女が膵臓の病気で余命が少ないことを知ってしまい、それから彼女は彼に関心をもつようになる。彼の桜良に対する態度が、普通の人が余命少ない病人に対するそれとは全くかけ離れていたからだという。もともと彼女が膵臓の病気のことを両親以外の誰にも秘密にしていたのは、まわりが自分を病人であるという役割のなかに閉じ込めてしまうということを嫌っていたからだ。特に彼女の親友は感傷的だから、余計に「かわいそうな人」という役割をある意味押し付けられそうで、秘密にしていた。彼女はそのような役割で消耗、倦怠したくはなかったのだ。けれど【僕】の態度は、そのような彼女が想像していたような態度とは違っていた。それは単に【僕】が何に対しても無関心で他人に共感する能力に欠けているということなのか、そうではないのか彼女は知りたいと思ったのだろうと思う。それは彼女が死ぬことが近いということを前にして時間を賭けるに値することだっただろうか。
桜良は【僕】と同じ図書委員になる。ある日、彼女の蔵書の分類が間違っていて【僕】が「本の分類がめちゃくちゃじゃないか」と注意すると、彼女は「本も宝探しみたいに見つけたほうが面白いでしょ」といい彼は「本が迷子になる」といって返す。それは後に彼女が彼の気を惹きたくてやったことだとわかるのだが、それは彼女が思っていることも表している。彼女は自分が病人であることよりも病人の役割を背負わされる、そういうふうに分類されるのを嫌ったように、本がその中身とは別に分類されることも嫌ったのではないかと思う。もちろん分類のために書かれた本もあるかもしれないが、あるカテゴリーのものとされている本を別のカテゴリーの本であるとして読んでいけないわけではない。ここでは彼は本そのものよりも分類を気にしている。彼女はもしかしたら彼も「私」よりも「余命の少ない病人」として見るかもしれないと思ったのではないか。
膵臓の病気は膵臓を食べると治るかもしれない。そんなわけで焼肉デートをしようということになるのだが、冗談っぽいのでやめてケーキバイキングの店でデートすることになる。桜良は【僕】に「友達はいないの?」ときいて彼は「いない」と答えると彼女が突然起こったように席を離れる(「君の親友と来たらいいじゃないか」だったかな?)彼も立ち上がって彼女のそばへ行き「僕に友だちがいるわけないじゃないか」彼女は「親友は?」「彼女は?」ときいて彼は「いない」と答え、彼女は「じゃあ好きな人はいたでしょ」と聞き、彼は何でこんなところでそんなことに答えないといけないのかと言葉を発するのをためらっていると。人がたくさんいる場所なのに彼女が大きい声を出して答えを急かしてくるので、彼はそれに「一人だけいた」と答える。「どういうところが好きだったの?」と聞かれて彼は「何にでも『さん』をつける人だった。お医者さんとかお父さんだけじゃなくてじゃがいもにもじゃがいもさんってつけたり。そういうのが何にでも敬意をもって接するようにみえて」という。「その人とは付き合えたの?」「クラスの中心的な存在が・・・」「見る目がないなあ」ここで彼女は彼が他人に無関心というわけではなくて、他人と見てるところが違う、人の分類ではなくて人の固有性や単独性を見ていると確信したのではないかと思う。彼は「宝探し」に適任ではないだろうかと。
やがて、桜良は病状が悪くなって検査入院することになる。彼女と一緒にいた【僕】はそのことで「疫病神」だの「ストーカー」だのと周りに言われるようになる。それは彼のことではなく、ある特殊な推論によってなされた勝手な分類である。彼女は「それは君が皆と話さないから」というのだが、彼はそれをあまりに気にしていないようだ。彼が自分のことを話そうとすれば、今の自分にとって最も固有なこと、彼女が膵臓の病気であることも話さなければならない。しかし、それは絶対の秘密だ。なので、「疫病神」や「ストーカー」などと非本来的な暴露がされることによって、彼女の病気が隠されることを彼はむしろ好ましく思ったかもしれない。けれど、それは彼女が病死した場合のことだ。彼女が膵臓の病気で病死すれば、彼女と彼が抱えていた秘密は自然に暴露される。そしてそれまでの非本来的な暴露は意味を失う。しかし彼女が病死ではなく、通り魔に刺されたことによって非本来的な隠蔽がなされてしまった。彼女は膵臓の病気で亡くなり、そのことが暴露されるはずだったのに、彼はその時までだけ秘密を抱えているつもりだったのに、刺殺されたことで病気であることがほとんど永遠の秘密になってしまった。彼はクラスの皆が集まる彼女の葬式に行けなかった。彼女が病死だったら、彼は葬式に行けただろうか。今の彼は「ストーカー」や「疫病神」のままである。
彼はそこから学校を一ヶ月ほど休んだ。学校のことはどうでも良かったのかもしれない。彼は彼女が書き溜めた「共病文庫」を読みに彼女の家へ行くのに、誰にも会わない期間を一ヶ月もうけた。彼女が死ぬまでにしたいことを達成するためにしたお泊り旅行で彼と彼女は「真実か挑戦か」ゲーム(『バードマン』でもあった)をしていたが、彼女が死んでしまってからは「真実」しかない。それも彼女が書くことができた「真実」だけだ。そこには彼女の外面的な天真爛漫さとは裏腹に死に対する恐怖や悲しみが綴られていた。彼女はそのことをずっと隠していた。その中には彼に気づけるものもあったし、気づけないものもあった。それは彼女が病人の役割を拒否している以上隠されていなければいけないものであり、そのことは同時に拒否したはずの役割を別の形で引き受けることだったのではないか。余命短い病人をかわいそうに思う人という役割は拒否したが、そのことで彼女の単独性や固有性とは別に、それとは違った役割を引き受けただけではなかったのか。彼が彼女と生涯最後に病院で話したとき彼女が「真実か挑戦か」ゲームをしたいと言い出す。彼女はそういったゲームに頼らないとできなかったりなされなかったりすることがあると言っていたが、それは彼らをある役割から引き離したり撹乱する働きがあるのではないかと思う。彼女がそのゲームをやりたいと言い出したとき今の二人の役割は何かが違っていて変えたいと思っていたのではないか。彼はそのことを思って泣いたのではないだろうか。
十二年後の【僕】が蔵書を整理していると、手伝っていた生徒が偶然落書きのされた貸出カードを見つける。それは桜良が自分の『星の王子さま』の背表紙に書いていたものと同じで、彼はそのカードの本を必死になって探す。それは図書委員にしか入れない部屋にあった。そこには彼女の遺書が挟まれていて、親友の恭子にあてたものと【僕】にあてたものがあった。恭子のものには桜良がなぜ【僕】と一緒にいたのか彼女の本当の病気についてなど彼女の真実が書かれていた。十二年越しに「真実か挑戦か」ゲームが行われる。【僕】は恭子に「友だちになってくれませんか」と告げる。それは桜良が望んでいたことだ。【僕】のほうの手紙では、十二年前の同じ時【僕】と桜良が全く同じことを考えていたことを【僕】は知った。お互いがお互いに相手のようになりたいと思い、同時に好きだった。それは「君の膵臓をたべたい」という二人以外には誰にも分からない暗号で示されていた。
9/10/2020
更新
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