映画の外科医 ドクター・ストレンジ

天才外科医のスティーヴン・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)は容姿も知能も秀でており、プライドの高さから傲慢になっていた。しかしある日交通事故に遭い、両手の機能を失ってしまう。突如外科医としてのキャリアを絶たれた彼は、あらゆる治療を試すうちに財産を使い果たした。完治の手立てが見つからぬまま富も名声もなくしたストレンジは、最後の望みをかけ、どんな傷も治せる神秘の力を操るという指導者エンシェント・ワンを頼る。不思議な力を目の当たりにし、栄光を取り戻すため、その日から想像を絶する厳しい修業に取りかかるストレンジ。悪用すれば人類の脅威となりえるその魔術が、彼の運命を大きく変えていく。
ドクター・ストレンジ | 映画-Movie Walker

ドクター・ストレンジ
(Doctor Strange Official Trailer 2 - YouTube

エンドロール後にMCUお決まりの一分ほどの予告がついていたが、そこでストレンジと会話をするのがソー(クリス・ヘムズワース)であるのは偶然ではないだろう。(概念のパラダイス 沈黙-サイレンス|kitlog)でも少し書いたが、神なるものは現在に関わるのではなくて未来、あるいは可能性に関わるものであり、今作で時間を巻き戻す力を得たストレンジは明らかに可能性を操作しうる存在で、それは神と同等の力である。例えばわれわれは(時に無神論者でも)神に祈ることがあるが、それは将来のことについてだけである。未来が誰にもわからないことから不安が生じるが、神の祈りはそこに向けられている。また過去のことについても神に祈ることはあるが、それは罪などの過去に起こったことが現在や将来に現実的にまたは精神的に影をさす可能性があるからだろう。いずれにしても神の概念は未来にある。

歴史は認識であるが、宗教は第一義的に行動である。すでに何度も繰り返し述べたように、宗教が認識に係るのは、ある種の知性のあり方に由来する危険から身を守るために知的な表象が必要である限りでしかない。かかる表象を他から切り離しそれだけで考察すること、つまり、表象である限りでそれを批判することは、この表象がそれに随伴する行動と混ざりあって一体化しているのを忘れることであろう。数々の偉大な精神が、幼稚さと不合理の連続、すなわち、彼らの宗教をどうして受け入れることができたのかと訝るとき、われわれはまさにこの種の誤りを犯している。泳ぐ者の動作も、水がありこの水が泳者を支えていること、人間の運動、液体の抵抗、川の流れは全部一緒に不分割な全体として捉えられねばならないことを失念した者には、同じく愚にもつかない滑稽なものを思われるだろう。(p276)

道徳と宗教の二つの源泉』ベルクソン

『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(虐待・法・忘却・トランク ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅|kitlog)では、時間の巻き戻しはないが、人々に忘却を促す雨と破壊された建造物を再生する魔法によって、怪物が破壊した町は元通りになり、人々は怪物に襲われたことさえ覚えていないという状態に置かれた。そこでは町の破壊は現実ではなく可能性の方に置かれ、言わばそれはなかったことに起こらなかったことになっている。ただ、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』が面白いのはその可能性の方に格下げされた時間に魔法使いでない普通の人間が滞在していて、彼が町の破壊や魔法使いのことを忘却しながらも、無意識のようなかたちでそのことを覚えており、それが現実に影響を与えていることだ。彼は魔法使いと旅をした頃のことは覚えていないが、その時の冒険が想像力に刺激を与え彼を独創的なパン屋にしている。そこでは可能性であったものが可能性のままとして消えてはいない。

『ドクター・ストレンジ』のほうでも、時間は巻き戻されてドーマムゥとの戦いは普通の人々の目には映らず、それは存在しなかったことになっている。『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』と違って、それはほんとうに存在しなかったことになっている。人々がそのことについて気にしたりしている様子はない。というかそういう人々についてはほとんど描かれていない。ストレンジは外科医であるが、現実と可能性は外科手術でもされたように切り離されている。それはまるで過去が現在に現在が未来に影響を与えない『バックトウザフューチャー』のようである。それは映画と現実の切り離しでもある。『美女と野獣』で野獣が風景に感情移入するように、われわれも映画に感情移入するが、そのことが現実と関係がないということがあるだろうか。

ドクター・ストレンジ
(Doctor Strange Official Trailer 2 - YouTube

ストレンジが異質なのは彼が敵を倒さないことだ。敵の一人を殺してしまったがそれは例外で、彼は敵を倒すというよりは敵を切り離す、隔離するということを行う。それはまるで外科医が患部から腫瘍のある部分を切除して取り去ってしまうかのようである。彼は途中のカエシリウスとの戦闘では砂漠へと通じる窓に放り出して自分の側と切り離すことを目標とし、最後のドーマムゥ戦でもそれが現実世界から切り離れることをのぞみ、それとカエシリウスやゼロッツは剥がれるように地球を去っていった。そういった切り離しの感覚、外科医的な感覚が映画表現に影響を与えすぎているのではないかと思う。魔術師は簡単に現実と切り離されたミラー空間を創造するが、それが現実との関わりがないためにいくら建物や地形がうねうねと蛇のように動いても、それを切り離されたものとして何かあまり関係ないものという印象を受ける。われわれはそのうねうねとした空間を脅威に感じるべきなのかと一歩引いて見させられているような感覚に陥る。空間を歪ませる目的は何なのか何の役に立っているのかわかりづらく、その設定も物語から離れているという感じがする。
9/10/2020
更新

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