みなし子の国で ムーンライト

シャロン(アレックス・ヒバート)は、学校で“リトル”というあだ名で苛められている内気な少年。ある日、いつものようにいじめっ子たちに追われていたところを、麻薬ディーラーのフアン(マハーシャラ・アリ)に助けられる。何も話さないシャロンを、恋人のテレサ(ジャネール・モネイ)の元に連れ帰るフアン。その後も何かとシャロンを気にかけるようになり、やがてシャロンも心を開いていく。ある日、海で“自分の道は自分で決めろよ。周りに決めさせるな”と生き方を教えてくれたフアンを、父親のように感じ始める。家に帰っても行き場のないシャロンにとって、フアンと男友達のケヴィンだけが心を許せる唯一の“友達”だった。やがて高校に進学したシャロン(ジャハール・ジェローム)だったが、相変わらず学校で苛められていた。母親のポーラ(ナオミ・ハリス)は麻薬に溺れ、酩酊状態の日が続く。自宅に居場所を失くしたシャロンは、フアンとテレサの家へ向かう。“うちのルールは愛と自信を持つこと”と、変わらずにシャロンを迎えるテレサ。ある日、同級生に罵られ、大きなショックを受けたシャロンが夜の浜辺に向かったところ、ケヴィンが現れる。シャロンは、密かにケヴィンに惹かれていた。月明かりが輝く夜、2人は初めてお互いの心に触れることに……。しかし翌日、学校である事件が起きてしまう。その事件をきっかけに、シャロン(トレヴァンテ・ローズ)は大きく変わっていた。高校の時と違って体を鍛え上げた彼は、弱い自分から脱却して心身に鎧を纏っていた。ある夜、突然ケヴィン(アンドレ・ホーランド)から連絡が入る。料理人としてダイナーで働いていたケヴィンは、シャロンに似た客がかけたある曲を耳にしてシャロンを思い出し、連絡してきたという。あの頃のすべてを忘れようとしていたシャロンは、突然の電話に動揺を隠せない。翌日、シャロンは複雑な想いを胸に、ケヴィンと再会するが……。
ムーンライト | 映画-Movie Walker



今年のアカデミー賞授賞式の作品賞で『ラ・ラ・ランド』の受賞が間違いでこの『ムーンライト』が正式に受賞することになった。ハリウッドは批判を受けてか白人至上主義に見えることに配慮したり、トランプ批判を行ったりしていたが、おそらくその影響をもろに受けた選考ではないだろうかと思う。『ムーンライト』に見られるのはまったくの権威や権威者の否定された社会であり、そのような社会の中で漂流する他ない一人の男のはなしである。そしてそのような社会が差別より不当なことを個人に背負わせる過程でもある。

「シャロンの人生に、どうコミュニティが関わっているかを最初から見せることが私には重要だった」とマクレイニーは語る。「彼が自分で気づく前から、コミュニティは彼のセクシュアリティを知っているんだよ。人は、本人がその意味を理解する前にカテゴリーにはめたがる。これは誰にでも起こることだ。男でも女でも黒人でも白人でも、ゲイでもストレートでもね。コミュニティが何を見ているか我々に教えてくれる時がある。それにどう反応するかで、我々のもがきは非常にリアルになり、いかに我々の人生に深い影響を与えているかが分かるんだ」
映画『ムーンライト』公式サイト

この映画は三幕構成で子供時代、学生時代、大人時代と時系列にそって進む。子供時代、主人公で黒人のシャロンは同級生たちからいじめられていた。家に帰ってもいるのは麻薬中毒で売春婦の母親だけである。ある日シャロンはいじめから逃げ込んだ廃墟でフアンと出会う。フアンはシャロンになぜあんなところにいたのか、なぜいじめられているのかと尋ねるが、シャロンは俯いてなかなか思っていることを話そうとしない。彼はいつも俯いている。フアンはシャロンを家まで送っていったところで、シャロンの家庭環境を知り次第に父親のように接するようになり、シャロンもフアンに対して心を開いていく。シャロンは自分がオカマだといっていじめられていることを打ち明ける。けれどシャロンはオカマが何を意味するのかわかっておらず、それがゲイの蔑称であることをフアンに聞いてはじめて知る。

ここで疑問なのは彼は本当にゲイなのかということだ。上の映画のプロダクションノートでは、「自分よりも先にコミュニティがセクシュアリティを知っている」とあるが、「知っている」という言葉の暴力性を看過できない。それは単なる押し付けではないのか。シャロンが子供の時から高校生にいたるまで一方的にいじめの対象となったのと同様に、あるいはリトルというニックネームで呼ぶのと同じ軽さで彼はその役割をコミュニティから押し付けられただけではないのだろうか。彼がケヴィンと交わる以前にゲイであるという映画の描写はどこなのだろう。そもそもこの映画はシャロンと同年代の女性との関係をほとんど描いていない。ボール遊びの時にナヨナヨしていたらオカマなのか、通学の時に細身のジーンズを履いていたらオカマなのか。彼はコミュニティの圧力のなかで自分のことがわからないまま、偶然ケヴィンと一線を越えてしまいゲイにさせられてしまったようにみえる。

『批評とポストモダン』の解説で島田雅彦はこう書いている。
日本はみなし子にとって、居心地が悪い。みなし子への意志を徹底的に母恋うるの心情に翻訳してしまう空気がある。みなし子への”堕落”ではなく、マザコンへの文字通りへの堕落である。(p318)

『批評とポストモダン』柄谷行人

シャロンは父親がおらず母親も麻薬中毒で、ほとんど孤児のようなものである。おそらくコミュニティはそのような人間をある特定の蔑称に翻訳する機能を備えているのではないかと思う。もちろん蔑称で呼ばれたからといって、人の人生が100%そう決まるわけではない。フアンが言ったように、「自分の人生は自分で決めろ、他人に選ばせるな」ということを実行することはできるだろう。しかしそれは権威が存在しないような無秩序な世界では不可能である。シャロンが高校に行く頃には父親代わりだったフアンは死んでいるし、高校生になっても彼がいじめにあってそれを止めるまともな人間が周りに誰もいない。それにフアンも麻薬の売人でいつ逮捕されてもおかしくない人間だった。シャロンの家の財産は母親の麻薬代に消えていく。学校の先生の顔はほとんど見えないし、カウンセラーにも頼れない。シャロンは仕方なく自分でいじめられた人間に反撃するが、逮捕されるのは彼の方だけである。いじめでシャロンに怪我をさせた人間は普通に登校したが、シャロンは逮捕されてしまった。これでは法がほとんど偶然や運の要素に左右されているように見えて権威の役割を果たしているようには思えない。見つからなければ目撃者を黙らせてしまえば何をしても良い世界なのか、そんな世界で彼は漂流させられている。彼はコミュニティや世界の精神的な奴隷としてしか存在していない。

三幕目の大人時代、シャロンはフアンと似たような格好をした麻薬の売人になっていた。他にロールモデルがないのだろう。彼はかつてリトルと呼ばれたような線の細さは消えていて体を鍛えマッチョな体をしているが、俯き加減がどこか昔を思い出させる。ある日シャロンのもとにケヴィンから電話がかかってくる。シャロンに似た男をみかけて気になったというのだ。それから彼らは再会する。シャロンとケヴィンの再会が美しいと評価する記事を幾つか見た。そう考えるのはコミュニティの暴力の行使に成功して漂流した人間を蔑むまいとするコミュニティの側のくだらない正当化のための論理であるような気がしてならない。奴隷を観察する眼のような薄汚さがそこにはある。この映画の結末がいかに馬鹿馬鹿しいものかは、この映画が『レッドタートル(自然に対する抵抗はどこへ アニメの背景 レッドタートル ある島の物語|kitlog)』と似たような映画で、美しさと思えるものは単に技巧的、技術的なものでしかないことを悟れば分かるだろうと思う。黒が青に見えるように加工したのと同様、貧しいものが美しいものと混同されている。シャロンは『レッドタートル』の主人公のように声を奪われているのだ。『レッドタートル』では自然に対抗できず自然のなかで漂流させられ、『ムーンライト』ではコミュニティのなかで声を上げられず漂流させられる。この映画にあるのは単に貧しさだけである。貧しさは権威を否定したところから来ている。権威なき社会が父親なき個人を迫害するという自己嫌悪の表現として。

9/10/2020
更新

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