心を捨てさせるもの、拾うもの モアナと伝説の海

海に選ばれた16才の少女モアナ──海が大好きな彼女は、島の外に出ることを禁じられながらも、幼い頃に海と“ある出会い”をしたことで、愛する人々を救うべく運命づけられる。それは、命の女神テ・フィティの盗まれた“心”を取り戻し、世界を闇から守ること。神秘の大海原へ飛び出した彼女は、伝説の英雄マウイと出会い、世界を救う冒険に挑む。立ちはだかる困難に悩み傷つきながらも、自分の進むべき道を見つけていくモアナだったが…。
作品情報|モアナと伝説の海|映画|ディズニー

モアナと伝説の海
(Moana Official Trailer - YouTube

インナー・ワーキング
("Inner Workings" Short - Trailer - YouTube

『モアナと伝説の海』の前にいつものように短編アニメ『インナーワーキング』が流れるが、それがこの映画のあらゆることを象徴している。『インナーワーキング』では脳と心臓の対立が知性や理性と意志との対立として描かれる。脳は心臓がやってしまいそうになる危ういことを事前に察知して、それを行わないようにコントロールする。それが人間一人のうちに表現され、彼は脳と心臓の間で引き裂かれている。彼は将来を思い浮かべる。脳に従っていけば、それが最も安全だとして彼は今の仕事を今のペースで延々と繰り返し、現状維持をしたまま老いていき(つまりそれは見かけ上の現状維持)棺桶に入る。ここでは脳や知性、理性といったものが現状維持の象徴として描かれている。そして、そのまま現状維持をして死んでいくのが正しいのか吟味するのもまた知性や理性なのだが、その吟味をするきっかけを与えるのは意志である。

思考の分野では、リアリズムは事実の認識とその原因結果の分析とに力点をおく。そこでは、目的の役割は重くみられないで、思考のはたらきは事態の生起――思考が影響をあたえることも変革することもできない事実――を研究することであることが明に暗に強調される。行動の分野においては、リアリズムは、現に活動している諸勢力の抵抗しがたい強さとか実際の諸動向の必然性を重視し、それらの勢力や動向を容認して自らも順応してゆくことが最も懸命な態度であると主張する。このような姿勢は、それが「客観的」思考であるとしてとられるとしても、結局は思考そのものの枯渇となり行動の空しさとなるのがおちであろう。(p34)

『危機の二十年』E・H・カー

客観的認識に従っていく思弁は、前に述べたように幾多の道を通って、しかしたいていは、避けることのできない哲学的な道を通って、おそかれ早かれ危険を察知しはじめるであろう。すなわちそれは、客観の側に向かって自分が獲得したすべての知恵は、人間の知性をあてにして採用されたものであり、この知性にも固有の形式や機能や表現様式が具わっているはずであるから、その知恵は全面的にこの知性によって条件づけられている、ということを洞察しはじめるであろう。

その結果、ここでもう一度立場を変え、客観的方法を主観的方法と入れかえることが必要になる。すなわち、知性はいままで自信にみち、安んじてその学説体系を構成し、まったく大胆に世界とその中の万物について、それどころかそれらの可能性についてさえア・プリオーリに断定してきたのであるが、こんどはこの知性そのものを研究対象にして、その権能を吟味にかけることが必要になる。(p62,63)

『知性について』ショーペンハウエル

モアナの祖母タラの話によれば、命の女神テ・フィティが心を盗まれて世界に闇がうまれた。テ・フィティの心を盗んだのは半神マウイで、それを盗んだ瞬間に闇が彼を襲いそれから必死に逃げるも最後には巨大な溶岩の怪物テ・カーに叩き落されて、テ・フィティの心とともに海に沈んでしまう。映画の最後に明らかになることだが、溶岩の怪物テ・カーは命の女神テ・フィティの心をなくした姿である。つまり二つは同一の存在なのだ。違いは心があるかないかである。ここで『インナーワーキング』の論点が浮かんでくる。テ・カーは溶岩を纏っているが、彼は太古の地球、生命が生まれる前の地球である。テ・カーは心、つまり意志をなくし太古の生命のない地球からずっと現状を維持したままでいる荒廃した地球なのだ。生命のない太古の地球という環境を変えないように最適化した怪物なのだ。ここで、テ・カーがマウイとともにテ・フィティの(つまり自分の)心を海底に沈めた理由も明らかになる。現状維持にとって心は単に邪魔な存在でしかないのだ。

この映画ではその実体化したテ・フィティの心はそれを持つものの心まで表現する。幼いころのモアナは海岸で小さい亀を助け、その時に海で緑色の石を拾う。それがテ・フィティの心だ。彼女はそれを拾うことで海に選ばれる。しかしその自覚がないまま彼女は父親で村長のトゥイに海から連れ戻される。その時モアナは心を落としてしまう。モアナは村長を継ぐことになっており、村を今まで通り守るのが正しいと教えられ、それに従って成長する。この村では現状維持が目標だ。村から出ることサンゴ礁より沖に出ることは許されない。ある日、村で作物や魚がとれなくなる。漁場を変えても魚一ついない。村のどこへ行っても木の実は腐っている。モアナは現状がもはや維持されないことを知り、海へ出ることを決心する。しかし父親は反対する。彼は若い頃に仲間と漁をしにサンゴ礁の沖へ出たところ、波にさらわれて仲間を失い自分だけが助かった。サンゴ礁沖は危険だということでそこまで出ないよう新しい伝統をつくったのだ。祖母タラが知っていることで明らかになるが、それは全く新しい伝統で、モアナたちの村は伝統的には海から海へ、島から島へと渡り移動を続ける民族だった。幼いころに彼女の心を捨てさせたものは父親がつくった新しい伝統だったが、モアナはもう一度テ・フィティの心を受け取って、民族が移動を続けていた頃の遺産の船を手にして、サンゴ礁を抜ける。

モアナは祖母の語る伝説に従ってマウイと出会い、マウイと旅をすることになる。けれど、マウイはテ・フィティの心を返しに行くことに乗り気ではない。彼はもともと半神として人間に尽くしてきた。神に与えられた巨大な釣り針で自然現象を操り、人間の望むことをなんでも叶えた英雄だった。しかし、彼がテ・フィティの心を盗み同時に釣り針を失ったことで彼は人間に見捨てられ、ある島に幽閉されてしまった。彼はそこで二度目の人間に捨てられる経験をする。彼は半神になる以前に母親に捨てられている。そしてマウイはモアナから一緒に返しに行こうと差し出された心を捨てられた自分のように捨てる。けれど、その心をモアナや海やマウイの良心とも言うべきタトゥーが何度も拾う。「もう一度英雄になりたくないの?」マウイはタトゥーに描かれているコミックのように意外と単純である。

マウイとともにテ・フィティの島付近にたどり着いたモアナはテ・カーと対峙することになる。テ・フィティの島へ行くにはテ・カーを倒すか、出し抜いて通り過ぎなければならない。けれど、モアナ、マウイ二人の作戦は失敗に終わり、マウイは戦いの途中で釣り針を損傷したことに傷ついて(釣り針の傷は彼の心の傷でもある)もうやめると言ってモアナから離れていってしまう。一人になってしまったモアナは自分が本当は海に選ばれた存在ではなかったのではないかと悲しみ、心を捨てて島へ戻ることを思いはじめる。そして彼女は心を捨ててしまう。するとそこに祖母タラの霊があらわれて島に戻るなら一緒に帰ろうという。けれど、モアナは自分でも分からないがそれに頷くことができない。そんな自分を見ながら、モアナはタラに「何か言いたいことがあるなら言って」といいタラは「何か言ってほしいことでもあるのかい」と答える。彼女は再び自分自身を見て、自分で心を海底から拾い上げ、そして歌う。モアナは一人でテ・カーに立ち向かうことを決心し、途中にマウイが助けに戻り傷ついた釣り針(心)が壊れることを厭わずに戦うことで、難を乗り越える。テ・フィティに心を戻したモアナは村人たちにも心を戻し、狭い島の維持に努めるのではなく、またかつてのように海を渡る民族として冒険を続ける。
9/10/2020
更新

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